倉亭の戦い(そうていのたたかい)は、中国の後漢の末期、201年に曹操と袁紹の間に起こった戦いである。 200年、群雄の一人であった曹操は、最大の敵であった袁紹と官渡で戦い、これに大勝した(官渡の戦い)。 『三国志』魏志「武帝紀」によると、翌年の201年に、曹操が黄河のほとりに軍をすすめ、倉亭...
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743年 ユダヤ暦 : 3960年 - 3961年 200年のカレンダー(ユリウス暦) 曹操・袁紹の争い。序戦は白馬の戦い、決戦が官渡の戦い、終局が倉亭の戦い(袁紹軍壊滅) 孫策が死去し、弟の孫権が呉の君主となる。 1月9日- 曹操打倒のクーデター計画が発覚して捕らえられた、董承ら一派とその三族が処刑。...
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のいざこざが戦前以上に頻発した。 201年、袁紹の敗北を見た冀州の各地で反乱が多発する。袁紹は曹操と再び倉亭で戦ったが敗れた(倉亭の戦い)とされている。しかし袁紹の存命中は曹操は河北には侵攻しなかった。袁紹は晩年を反乱の鎮圧にあてるが、とうとう発病し吐血、翌202年に憂悶のうちに死去する。 袁紹の...
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川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦...
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袁紹 (category 後漢霊帝期の人物)
の本陣を攻撃していた高覧・張郃らの寝返りなどもあり、袁紹は冀州に敗走した。 201年4月、倉亭を守備していた袁紹配下の軍が、曹操軍に破られた(倉亭の戦い)。 敗戦後、冀州の各地で反乱が勃発したが、袁紹は軍勢を立て直すと全て鎮圧した。また、曹操も袁紹の存命中は河北に侵攻しなかった。...
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の戦い)。袁紹はこのときも郭図と張郃が対立するなど統制を欠き、作戦が一貫しないまま軍を動かし、結局、烏巣の兵糧を失うと同時に多くの軍勢を失い、敗走を余儀なくされた。 一年後、曹操は倉亭まで軍を進め、袁紹の駐屯軍を破った(倉亭の戦い)。袁紹は領内の反乱の鎮圧に忙殺される中で202年に病没している。...
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博望坡の戦い(はくぼうはのたたかい)は、中国後漢末期、荊州の博望坡(現在の河南省南陽市方城県)で曹操と劉表(劉備)の間に起きた戦いである。『三国志演義』により大幅に脚色がなされている。 曹操は官渡の戦い 、倉亭の戦いで袁紹を破り中原での覇権を確実なものにしつつあった。袁紹に派遣され豫州で曹操の...
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石亭の戦い(せきていのたたかい)は、228年8月に中国揚州の石亭(現在の安徽省六安市舒城県)で呉と魏の間に起こった戦い。 魏は過去に数度にわたり呉に出兵していたが、連敗を喫している。その中で魏の揚州牧兼都督揚州諸軍事であった曹休は、227年に審徳を斬り皖城を奪回すると、呉側からは韓綜が曹休に帰順する...
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袁尚 (category 袁紹軍の人物)
の審配・沮鵠(沮授の子)、袁紹側近の逢紀、さらに袁煕・高幹など、家族や幹部のほとんどである。すなわち、郭図・辛評(いずれも潁川出身、つまり河北出身ではない)を中心とする袁譚派に比べてかなり優勢であったことが窺える。 小説『三国志演義』でも、美貌で武勇に優れる若武者として登場している。倉亭の戦い...
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街亭の戦い(がいていのたたかい)は、中国の三国時代における、魏と蜀による街亭(現在の甘粛省天水市秦安県)での戦い。228年、張郃が指揮を執る魏軍が、馬謖が指揮を執る蜀軍を破った。この戦いで破れた蜀軍は全軍撤退を余儀なくされ、第1次北伐は失敗に終わった。 225年、益州南部の反乱を平定し後顧の...
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赤壁の戦い(せきへきのたたかい、簡体字:赤壁之战、繁体字:赤壁之戰)は、中国後漢末期の208年、長江の赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。 河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下したが、8月に劉表...
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