• ウリヤンハイ三衛とは、14世紀から16世紀にかけてヒンガン山脈周辺に居住した遊牧集団であり、朶顔ウリヤンハイ)・泰寧(オンリュート)・福余(オジェート)の三衛によって構成された。モンゴル帝国-大元ウルス時代の東方王家の後裔と見られ、洪武21年(1388年)明朝に降伏し羈縻...
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  • ウリャンカイないしウリヤンカイ(モンゴル語: Урианхай、トゥバ語: Урааңкай、Uryangqai, Uriyangqai)は、モンゴル高原北部周辺にいた民族集団のひとつ。近世・現代モンゴル語ではウリヤンハイ Урианхай Uriankhai となる。中期モンゴル語の複数形はウリヤンカン...
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  • 朶顔とは、14世紀から16世紀にかけてモンゴリア東南部で活動した遊牧部族で、泰寧・福余とともにウリヤンハイ三衛を構成した。モンゴル帝国成立以前より存在するウリャンカイ部の後裔であり、モンゴル側ではウリヤンハイ(兀良哈)と呼ばれ、朶顔頭目はウリャンカイ部出身のジェルメを始祖としていた。 三衛...
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  • 王家の末裔に対する呼称であった。現代のオンニュド旗も同一の語源から転訛した名称である。 ^ 和田1959,149頁 和田清『東亜史研究(蒙古編)』東洋文庫,1959年 北元 東方王家 ウリヤンハイ三衛 朶顔ウリヤンハイ) 福余(オジェート) オンリュート ハルハ...
    2 KB (242 words) - 04:48, 31 August 2018
  • 福余とは、14世紀から16世紀にかけてモンゴリア東南部で活動した遊牧部族で、朶顔・泰寧とともにウリヤンハイ三衛を構成した。モンゴル側からはオジェート(Öǰiyed)と呼ばれており、モンゴル年代記ではウリヤンハイ三衛を総称して山陽の六千オジェートと記している。 三衛...
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  • は1386年明朝に帰順し、その配下の部衆は朶顔・泰寧・福余に組織され、ウリヤンハイ三衛と総称された。ウリヤンハイ三衛はモンゴル側からそれぞれウリヤンハイ(朶顔)、オンリュート(泰寧)、オジェート(福余)と呼ばれていたことが記録されているが、泰寧が「オンリュート」と称されているのはオッチギン...
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  • るとこれを越え、明朝の城市を寇掠することを繰り返した。また、1459年にはモンゴリア東方の勢力であるウリヤンハイ三衛への侵攻も計画しているが、明朝が使者を派遣して三衛に助力することを告げたため、三衛への侵攻は一時控えられた。これと並行してボライは明朝との交渉も続けており、1461年8月には明朝はボ...
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  • 他の部族長より厚く扱い、文書には「達達可汗(タタル・ハーン)」の称号が使われた。1449年の土木の変に先立つ明への侵入では、モンゴル高原東部のウリヤンハイ三衛を率いて遼東を攻撃した。 土木の変の後、太子(後継者)の擁立を巡ってトクトア・ブハとエセンの間に対立が生まれる。トクトア・ブハにはエセンの姉が...
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  • 東道諸王 (redirect from 東方王家)
    ヤンの乱後、次第に東道諸王の結束は崩れてきたようで、天暦の内乱では大都派についたカサル家当主が上都派のオッチギン家当主を殺害するという事件まで起こっている。明朝が興り大元ウルスが北遷すると東道諸王も打撃を受け、ウリヤンハイ三衛に代表されるように、明朝に朝貢し所に組織される集団も現れた。...
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  • ヤン・ハーンを擁立してモンゴリアで最大の実力者となったイスマイルは東方への進出を始め、成化16年(1480年)にはトゥルゲンと組んでウリヤンハイ三衛に侵攻し、三衛の人馬は明朝の辺境に難を逃れた。またその2年後の成化18年(1482年)には統制下に置いた三衛と協力して明朝に侵攻しようとしている。...
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  • ウリヤンハイ三衛のもとに逃れて再起を図った。明側は降伏したものに官職と金品を与えて厚遇し、諸将は弱体化したアルクタイの討伐を主張するが、洪熙帝は遠征の進言を容れず、土木の変に至るまで大規模な北征は行われなかった。 ウリヤンハイ三衛...
    5 KB (829 words) - 21:15, 28 August 2023