スチュアート・バクスター
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名前 | ||||||
本名 | スチュアート・ウィリアム・バクスター Stuart William Baxter | |||||
愛称 | Stu | |||||
ラテン文字 | Stuart BAXTER | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イギリス | |||||
生年月日 | 1953年8月16日(71歳) | |||||
出身地 | イングランド・ウルヴァーハンプトン[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1971-1973 | プレストン・ノースエンド | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1973-1975 | プレストン・ノースエンド | 41 | (1) | |||
1975 | モアカム | 1 | (0) | |||
1975-1976 | ダンディー・ユナイテッド | 0 | (0) | |||
1976-1977 | ストックポート・カウンティ | 4 | (0) | |||
1978-1979 | サウス・メルボルン | 50 | (4) | |||
1981 | ヘルシンボリIF | |||||
1983 | サンディゴ・ソッカーズ | |||||
1983-1984 | エーレブルーSK | 41 | (5) | |||
通算 | 137 | (10) | ||||
監督歴 | ||||||
1985 | エーレブルーSK ユース | |||||
1986 | IFスカルプ | |||||
1987 | ヴィトーリア・セトゥーバル (コーチ) | |||||
1988-1991 | ハルムスタッズBK | |||||
1992-1994 | サンフレッチェ広島 | |||||
1995-1997 | ヴィッセル神戸 | |||||
1998-2000 | AIK | |||||
2001 | リン | |||||
2002-2004 | イングランド U-19 | |||||
2004-2005 | 南アフリカ共和国 | |||||
2006 | ヴィッセル神戸 | |||||
2006-2007 | ヘルシンボリIF | |||||
2008-2010 | フィンランド | |||||
2011-2012 | AIK (アドバイザー) | |||||
2012-2015 | カイザー・チーフス | |||||
2015 | ゲンチレルビルリイ | |||||
2016-2017 | スーパースポーツ・ユナイテッド | |||||
2017-2019 | 南アフリカ共和国 | |||||
2021- | カイザー・チーフス | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
スチュアート・ウィリアム・バクスター(Stuart William Baxter、1953年8月16日 - )は、イギリス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元サッカー南アフリカ共和国代表監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
人物
[編集]スコットランド人サッカー選手/指導者の父ビル・バクスターとイングランド人の母の間に生まれる。イングランド中部のウルヴァーハンプトンで生まれ、スコットランドで育った[2]。スコットランドリーグでプレイした初のイングランド人選手と言われる。
息子のリー・バクスターも元サッカー選手、指導者で、父が率いたチームでゴールキーパーとして所属していた。
経歴
[編集]選手として
[編集]1971年、プレストン・ノースエンドでキャリアを始める[3]。1975年、スコットランドのダンディー・ユナイテッドに移籍[3]。キャリアの晩年はスウェーデン、オーストラリアン・ナショナルサッカーリーグ、北米サッカーリーグでプレー[3] した後、1984年にエーレブルーSKで引退。
現役引退後
[編集]引退後にはスカンディナヴィア半島のクラブで指導者としてのキャリアを積み重ねる。1985年にエーレブルーSKのユースチームで監督[3] を務め、1986年にはIFスカルプ[3]、1987年にポルトガルのヴィトーリア・セトゥーバル[3] でコーチや暫定監督を務めた後、1988年からスウェーデン2部のハルムスタッズBK監督[3] に就任、同シーズンにスウェーデン1部に昇格させる。しかし1991年シーズンには2部に降格させてしまう。
1991年、Jリーグ開幕を控え、サンフレッチェ広島の前身であるマツダSCは強化のため北ヨーロッパに遠征し、バクスター率いるハルムスタッズBKと練習試合をした。この時に今西和男総監督に見初められ、1992年にサンフレッチェ広島監督に就任した[4][5]。規律を重んじるサッカースタイル[5] で1994年の第1ステージ優勝に貢献した。だが高額な移籍金および年俸がかかるミカエル・ラウドルップの補強をバクスターが強要したことから、広島とは監督契約延長の交渉は決裂した[4]。この際、バクスターは日本で監督を続けたかったことから今西はヴィッセル神戸を推薦した[6]。
1995年からは神戸市に移転したばかりのヴィッセル神戸監督[3] に就任しラウドルップを補強[5]、1996年ジャパンフットボールリーグで2位の成績をおさめ、Jリーグ昇格を果たしたが翌年は成績が振るわず解任された。
この間、1993年、1994年、1997年とそれぞれJリーグ最小反則数というチームを作り上げ、1997年にはフェアプレー賞を受賞している。
その後スウェーデンにもどり、1998年にAIKソルナ監督[3] に就任。いきなり同シーズンにはリーグ優勝させ、UEFAチャンピオンズリーグに出場している[3]。2年後、SFKリン・オスロ監督を1シーズン務めた[3]。
2002年、母国であるイギリスに戻り、イングランドサッカー協会の専属コーチとなり、U-19イングランド代表監督[3] として若手を育成、その手腕を買われて2004年に南アフリカ代表に就任した[3] が、2006年のドイツW杯アフリカ予選で本大会出場を逃して辞任する[3]。
2006年はJ2降格となったヴィッセル神戸で再び指揮を執った[3] が、家庭の事情により9月2日の横浜FC戦を最後に退任した[7]。なお、コーチとして11月に一時的に復帰[7] しリーグ戦3試合の指揮を執った。
同年9月から、ヘルシンボリIF監督に就任、同シーズンにはスウェーデンカップ優勝、翌UEFAカップ 2007-08に出場した。しかし、同年12月にクラブ首脳とのあつれきを理由に監督を辞任。
2008年よりフィンランド代表監督[8]。2010年UEFA EURO 2012予選でモルドバ・オランダ・ハンガリーと3連敗したため監督を退いた[9]。
その後はAIKのアドバイザーに就任する。2011年5月、マルメFF監督にオファーがあったものの最終的には断っている[10]。
2012年5月、カイザー・チーフスFC監督に就任すると[11]、2012-13シーズンでリーグ、カップ優勝を果たし、PSL初の外国人優勝監督となった。2014-15シーズンも優勝を果たしたが、双方合意の上で契約満了[12]。
2015年、トルコスュペル・リグのゲンチレルビルリイSK監督に就任した。ただ開幕スタートに失敗し、リーグ戦2試合で解任された[13]。
2016年1月27日、スーパースポーツ・ユナイテッドFCの監督に就任した。
2017年6月1日、サッカー南アフリカ共和国代表監督就任。2019年8月3日退任[14]。
監督成績
[編集]年度 | クラブ | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 順位 | ナビスコ杯 | 天皇杯 |
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1992 | サンフレッチェ広島 | J | - | - | - | - | - | - | - | 予選リーグ敗退 | 2回戦敗退 |
1993 | J | 1st | 18 | - | 9 | - | 9 | 6位 | 予選リーグ敗退 | ベスト4 | |
2nd | 18 | - | 9 | - | 9 | 5位 | |||||
1994 | J | 1st | 22 | - | 17 | - | 5 | 1位 | 1回戦敗退 | ベスト8 | |
2nd | 22 | - | 12 | - | 10 | 4位 | |||||
1995 | ヴィッセル神戸 | JFL | - | 30 | 55 | 18 | - | 12 | 6位 | - | ベスト8 |
1996 | JFL | - | 30 | 75 | 25 | - | 5 | 2位 | - | 3回戦敗退 | |
1997 | J | 1st | 16 | 17 | 6 | - | 10 | 14位 | 予選リーグ敗退 | 4回戦敗退 | |
2nd | 16 | 7 | 3 | - | 13 | 17位 | |||||
2006 | J2 | - | 48 | 86 | 25 | 11 | 12 | 3位 | - | - |
- 2006年は途中退任。
脚注
[編集]- ^ Szreter, Adam (2000年11月16日). “Bradford looking to Baxter to take the reins” (英語). www.guardian.co.uk (London: The Guardian) 2011年10月8日閲覧。
- ^ James, Stuart (2009年5月26日). “Baxter eager to test himself on his long coach journey round the world” (英語). www.guardian.co.uk (London: The Guardian) 2011年10月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o ヴィッセル神戸公式(2005年12月3日)、2011年11月8日閲覧。
- ^ a b 広島のドン:今西氏のクラブGM論、サッカー批評vol.33、2006年12月、ISBN 4575478938。
- ^ a b c “明確な戦術 バクスター”. 朝日新聞 (2012年6月22日). 2012年6月23日閲覧。
- ^ “今西和男さん(FC岐阜セネラルマネージャー、吉備国際大学教授/'07年2月11日放送)”. 広島サッカー向上委員会、中国放送. 2012年7月22日閲覧。
- ^ a b “バクスター監督帰国のお知らせ”. ヴィッセル神戸公式. (2006年8月24日). オリジナルの2012年3月3日時点におけるアーカイブ。 2011年10月8日閲覧。
- ^ “Stuart Baxter Huuhkajien päävalmentajaksi” (フィンランド語). palloliitto.fi (Suomen Palloliitto) 2011年10月8日閲覧。
- ^ “フィンランド、バクスター監督交代”. 日刊スポーツ. (2010年11月10日) 2010年11月10日閲覧。
- ^ “Locket på i MFF efter Baxters nej” (スウェーデン語). sydsvenskan.se (Sydsvenskan) 2011年7月2日閲覧。
- ^ “Baxter joins Chiefs” (英語). kickoff.com. (2012年5月7日) 2012年5月8日閲覧。
- ^ “Chiefs and Stuart Baxter part ways” (英語). time live. (2015年6月2日) 2015年6月21日閲覧。
- ^ “Stuart Baxter fired in Turkey after just two matches” (英語). time live. (2015年8月25日) 2015年9月20日閲覧。
- ^ “Molefi Ntseki steps in as Stuart Baxter resigns as South Africa coach”. BBC (2019年8月3日). 2020年1月14日閲覧。
参考資料
[編集]- 2006年監督に、スチュアート・バクスター氏就任決定、2005年12月3日付ヴィッセル神戸公式
外部リンク
[編集]- スチュアート・バクスター - Soccerway.com
- スチュアート・バクスター - FootballDatabase.eu
- スチュアート・バクスター - WorldFootball.net
- スチュアート・バクスター - Transfermarkt.comによる選手データ
- スチュアート・バクスター - Transfermarkt.comによる指導者データ
- スチュアート・バクスター - J.League Data Siteによる監督データ
- スチュアート・バクスター - トルコサッカー連盟 (manager)
- スチュアート・バクスター - Mackolik.com
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