ファウスティーノ・アスプリージャ
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名前 | ||||||
本名 | ファウスティーノ・エルナン・アスプリージャ・イネストローサ Faustino Hernán Asprilla Hinestroza | |||||
愛称 | ティーノ | |||||
ラテン文字 | Faustino ASPRILLA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | コロンビア | |||||
生年月日 | 1969年11月10日(55歳) | |||||
出身地 | トゥルア | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1988-1989 | ククタ・デポルティーボ | 36 | (17) | |||
1989-1992 | アトレティコ・ナシオナル | 78 | (35) | |||
1992-1995 | パルマ | 84 | (25) | |||
1995-1998 | ニューカッスル・ユナイテッド | 48 | (9) | |||
1998-1999 | パルマ | 23 | (5) | |||
1999-2000 | パルメイラス | 12 | (2) | |||
2000-2001 | フルミネンセ | 12 | (8) | |||
2001-2002 | アトランテ | 12 | (3) | |||
2002-2003 | アトレティコ・ナシオナル | 11 | (3) | |||
2003 | ウニベルシダ・デ・チレ | 13 | (5) | |||
2003-2004 | エストゥディアンテス | 2 | (0) | |||
2004-2005 | コルトゥルア | 0 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1993-2001 | コロンビア | 57 | (20) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ファウスティーノ・アスプリージャ(Faustino Hernán Asprilla Hinestroza, 1969年11月10日 - )は、コロンビア出身の元サッカー選手。元コロンビア代表。ポジションはフォワード。息子はプロサッカー選手のヤセル・アスプリージャ。
クラブ経歴
[編集]トゥルアの貧しい家に生まれた[1]。父親はサトウキビ農園で働いていて、6人の子供たちを養っていた[1]。サルミエント・ローラでサッカーを学び、1988年にククタ・デポルティーボでプロデビュー、デビューイヤーは17試合で7得点を記録したが、審判に対しての暴力行為で出場停止になったこともあった[1]。翌1989年にアトレティコ・ナシオナルへと移籍し、ここでプレーに磨きをかけた[1]。
1992年のバルセロナオリンピック南出場権したが、オリンピックではグループリーグ最下位に終わった[1]。大会後にイタリアのパルマACへ移籍。しかし加入当初、ネヴィオ・スカラ監督や周囲から活躍できるのか、懐疑的な目で見られていた[1]。開幕のアタランタ戦で良いプレーを見せるなど、評価を上げた[1]。翌1993年3月にACミラン戦では、その当時58試合無敗記録を打ち立てたミランに対しフリーキックから得点を決め1-0で下し記録を阻止する活躍を見せた[1]。またUEFAカップウィナーズカップでは準決勝のアトレチコ・マドリードとの第1戦で2ゴールを決めた[1]。怪我で準決勝第2戦と決勝を欠場したが、チームは優勝を果たした[1]。
1993-94シーズンにSSCナポリから移籍したジャンフランコ・ゾラとのコンビプレーを組み、リーグ戦27試合で10得点を挙げた[1]。1994-95シーズンにはUEFAカップ決勝でユヴェントスを破り初優勝を成し遂げ、リーグ戦でも優勝争いに貢献したが、このシーズン、プレーよりもスキャンダルが報じられる様になった[1]。一定のゴールは決めたものの、スカラ監督とも徐々に不仲になるなど、以前程のプレーが出来なくなっていた[1]。
1995-96シーズン、新外国人選手の獲得もあり、出場機会を大幅に減らし、シーズン折り返し時に、イングランド・プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドへ放出された[1]、リーグ戦では、際立った活躍はできなかったが、ヨーロッパのカップ戦では活躍、特に1997-98シーズンのチャンピオンズリーグではバルセロナ相手にハットトリックを決めた[1]。
1997-98シーズン後半、3年契でにパルマへ復帰[1]。しかし、殆ど出場機会が無く、ベンチ要員となった[1]。1998-99シーズン、2度目のUEFAカップ優勝、コッパ・イタリア優勝も果たした[1]。 11999年に、ブラジルのパルメイラス移籍、コパ・リベルタドーレスでは決勝に進んだが、ボカ・ジュニアーズとの決勝第2戦のPK戦でPKを外し、優勝を逃した[1]。その後、南米の様々なクラブを渡り歩き、2005年に故郷トゥルアにあるコルトゥルアで35歳で現役を引退した[1]。
代表経歴
[編集]U-22コロンビア代表として1992年バルセロナオリンピックに出場。
コロンビア代表としては1993年6月6日のワールドカップ・アメリカ大会南米予選のチリ代表戦で代表デビュー[2]、代表初ゴールとなった決勝点を挙げた[1]。コパ・アメリカ以降、チームの中心選手となった[1]。同年9月5日、敵地のアルゼンチン代表戦では相手守備陣を翻弄し2得点1アシストを決める活躍を見せ、ワールドカップ出場権を獲得[1]。この試合で自身の評価を高めた(試合は5-0のスコアでコロンビアの勝利)[3]。
この時のカルロス・バルデラマ、フレディ・リンコン、エスコバルら個性的な選手を擁したチームは前評判が高く、優勝候補の一角に推す声もあった[1]。しかし、初戦でルーマニア代表にで敗れた。スイス戦では1アシストを決めて勝利したが、グループリーグ敗退に終わった[1]。1998年のワールドカップ・フランス大会では、グループリーグ初戦に出場したのみに終わった。
代表としての通算成績は国際Aマッチ57試合出場20得点[2]。
人物
[編集]1990年代にコロンビアを牽引したストライカーで、瞬発力に優れ、俊足と高い身体能力、意外性のあるプレーで得点をあげた[3]。両足が使え、パワフルで正確なシュートを放った[1]。素行と言動に問題があるトラブルメーカーとして知られ[3]、ピッチ外では、アルコール、女性問題、武器の使用などの問題もあったが、陽気な性格で人々から愛された[1]。
代表歴
[編集]- 1991年 - 1992年 U-22コロンビア代表
- 1992年 - バルセロナオリンピック
- 1993年 - 2000年 コロンビア代表
- 代表通算 - 57試合20得点
- 1994年 - FIFAワールドカップ
- 1998年 - FIFAワールドカップ
タイトル
[編集]- アトレティコ・ナシオナル
- コロンビア・プロサッカーリーグ : 1回 (1991)
- コパ・インテラメリカーナ : 1回 (1989)
- パルマ
- コッパ・イタリア : 1回 (1998-99)
- UEFAカップウィナーズカップ : 1回 (1992-93)
- UEFAスーパーカップ : 1回 (1993)
- UEFAカップ : 2回 (1994-95, 1998-99)
- パルメイラス
- リオ・サンパウロ州選手権 : 1回 (2000)
- コパ・ドス・カンピオンイス : 1回 (2000)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa “Faustino Asprilla, la freccia colombiana fra prodezze e follie”. GOAL (2022年10月17日). 2023年9月1日閲覧。
- ^ a b “Faustino Hernán Asprilla - Goals in International Matches”. rsssf.com. 2016年10月4日閲覧。
- ^ a b c 週刊サッカーマガジン 編『サッカーマルチ大事典 改訂版』ベースボール・マガジン社、2006年、47頁。ISBN 4-583-03880-1。
外部リンク
[編集]- ファウスティーノ・アスプリージャ - Olympedia
- ファウスティーノ・アスプリージャ - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- ファウスティーノ・アスプリージャ - National-Football-Teams.com
- ファウスティーノ・アスプリージャ - Soccerway.com
- ファウスティーノ・アスプリージャ - Soccerbase.comによる選手データ
- ファウスティーノ・アスプリージャ - FootballDatabase.eu
- ファウスティーノ・アスプリージャ - WorldFootball.net
- ファウスティーノ・アスプリージャ - Transfermarkt.comによる選手データ
- ファウスティーノ・アスプリージャ - FIFA主催大会成績
- ファウスティーノ・アスプリージャ - UEFA