ベン・オグリビー

ベン・オグリビー
Ben Oglivie
ミルウォーキー・ブルワーズ時代
(1983年)
基本情報
国籍 パナマの旗 パナマ
出身地 コロン県コロン
生年月日 (1949-02-11) 1949年2月11日(75歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
170 lb =約77.1 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1968年 MLBドラフト11巡目
初出場 MLB / 1971年9月4日
NPB / 1987年4月14日
最終出場 MLB / 1986年10月5日
NPB / 1988年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

ベンジャミン・アンブロシオ・オグリビー・パルマー(Benjamin Ambrosio "Ben" Oglivie Palmar, 1949年2月11日 - )は、パナマコロン県コロン[1]出身の元プロ野球選手外野手)。左投げ左打ち。

経歴

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1968年MLBドラフト11巡目(全体の248番目)でボストン・レッドソックスから指名され、入団。

1971年MLBに初昇格した。

1974年デトロイト・タイガース1978年ミルウォーキー・ブルワーズに移籍。1980年、41本塁打で本塁打王のタイトルを獲得。アメリカンリーグでは初となるアメリカ国籍でない本塁打王となる。

1987年近鉄バファローズに入団[1]。なお、近鉄入団の数年前は、西武ライオンズが獲得に乗り出した時期があった。

同年、開幕直前の3月30日に突如無断で帰国していたことが判明し[2]、3年前にドン・マネーが突如退団した経験を持つ近鉄球団としては衝撃が大きかった[3]。その後本人は「家庭の事情」とだけ述べ、再来日の期待は薄いとも報じられていた[4]が、再来日して開幕3戦目からチームに合流した。これ以降、オグリビーにまつわる大きなトラブルは他になかった。

来日時に38歳であり、選手としては高齢なことから衰えを心配されたが、2年連続3割、本塁打20本と安定した成績を残して存在感を示した。1988年5月12日のロッテオリオンズ戦では、牛島和彦からサヨナラ本塁打を放った[5]。本来の守備位置であるレフトは、ラルフ・ブライアント淡口憲治などが守っていたため、指名打者としての出場が多かった。

1988年シーズン限りで退団、最終対ロッテ戦ダブルヘッダー(10.19)が最後の公式戦となった。10.19で優勝を逃した後に、祝勝会になるはずであった残念会の会場にオグリビーの姿が見えず、探したスタッフによるとホテルのトイレに身を隠して涙をこぼしていたという[5]。退団後はメジャー復帰を目指すものの、昇格することなく現役を引退[1]

1998年 - 2006年までサンディエゴ・パドレスのコーチを9年間務める(2000年以外は傘下マイナーリーグのコーチ)。2007年タンパベイ・デビルレイズ傘下のA級ベロビーチ・デビルレイズの打撃コーチ、2008年からはレイズ傘下のAA級モンゴメリー・ビスケッツの打撃コーチに就任。

人物

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15年以上にわたってMLBの第一線で活躍し、本塁打王を獲得し、オールスターゲームにも3回出場した。しかし、オグリビーは驕ることなく、練習熱心であり全力プレーで応えた。また、上述の1988年5月12日の対ロッテ戦で、牛島からサヨナラ本塁打を打った際に、はしゃぎながら塁を回り、インタビューで「つい興奮してガッツポーズをとったが投手に失礼なことをした。あやまりたい」とコメントする[6]など、紳士的な人柄でも知られた。

また、同時期に来日していた外国人選手達からも敬意を集める存在であった。同僚のブライアントは、直立不動でオグリビーを尊敬の念をこめて「サー」と呼んでいた。他チームの外国人選手もオグリビーの前では「イエス。サー」と返事をしている。また、ビザの手続きを行う際は、パナマ大使館の職員が球場まで直接出向いて手続きを行ったという。当時を知る阿波野秀幸は「『イエス。サー』なんて言葉は映画の中でしか聞いたことがなかった。彼はパナマの英雄なんですね」と語った[5]

誠実で日本人の同僚達からの信頼が厚かった。オグリビーが自分のミスで試合に負けて落ち込んでいたところ、金村義明村上隆行らのチームメイトに風呂に投げ込まれ、お湯を掛け合うなどしてはしゃいだ。「メジャー時代でも白人黒人が一緒に風呂に入ることなどなかったのに」と言い感激していた。また、その際にあまりの嬉しさに浴槽の中で泳いでいたという[7]

上述のとおり温厚な性格であるが、1987年には阪急戦では、古溝克之から頭部に死球を受け、激昂して古溝を追いかけた。ベンチから両軍が飛び出したものの、周囲の制止により乱闘寸前で済んだ。近鉄コーチの池辺巌がオグリビーを制止した際に転んだシーンは、同年のプロ野球珍プレー・好プレー大賞でも取り上げられた。

選手応援歌はのちに、フィル・クラークフレッディ・ガルシアギルバートなどに流用され、球団がオリックスと合併してからも、カリーム・ガルシアカラバイヨなどに流用された。

選手としての特徴

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極端にグリップを後方に構えた独特のバッティングフォームや、打席内での特徴的な仕草は、当時の野球少年がこぞって真似するほどよく知られた。特に構える直前にバットを何度も回す動作は、30年以上経ってもモノマネをするタレントがいるほど強烈なインパクトを残した。かつての同僚である阿波野秀幸も、プロ野球ニュースフジテレビ)に出演した際に物真似をしたことがある。

足が速いとは言い難かったが、積極果敢な走塁を行うことで知られた。内野ゴロでも全力疾走を欠かさなかった。

打席でも、守備でも、帽子の上にヘルメットを被ってプレーしていた。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1971 BOS 14 38 38 2 10 3 0 0 13 4 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .263 .263 .342 .605
1972 94 273 253 27 61 10 2 8 99 30 1 1 0 1 18 2 1 61 4 .241 .293 .391 .684
1973 58 161 147 16 32 9 1 2 49 9 1 1 1 2 9 2 2 32 4 .218 .269 .333 .602
1974 DET 92 289 252 28 68 11 3 4 97 29 12 3 0 3 34 6 0 38 5 .270 .353 .385 .738
1975 100 357 332 45 95 14 1 9 138 36 11 8 3 4 16 0 2 62 10 .286 .319 .416 .735
1976 115 325 305 36 87 12 3 15 150 47 9 4 2 4 11 3 3 44 11 .285 .313 .492 .804
1977 132 497 450 63 118 24 2 21 209 61 9 9 1 3 40 2 3 80 11 .262 .325 .464 .789
1978 MIL 128 527 469 71 142 29 4 18 233 72 11 7 3 3 52 10 0 69 10 .303 .370 .497 .867
1979 139 572 514 88 145 30 4 29 270 81 12 5 4 4 48 12 2 56 11 .282 .343 .525 .869
1980 156 660 592 94 180 26 2 41 333 118 11 9 0 9 54 19 5 71 5 .304 .362 .563 .925
1981 107 452 400 53 97 15 2 14 158 72 2 2 1 8 37 10 6 49 9 .243 .310 .395 .705
1982 159 677 602 92 147 22 1 34 273 102 3 5 0 1 70 13 4 81 6 .244 .326 .453 .780
1983 125 483 411 49 115 19 3 13 179 66 4 6 0 8 60 12 4 64 9 .280 .371 .436 .806
1984 131 509 461 49 121 16 2 12 177 60 0 6 1 2 44 5 1 56 12 .262 .327 .384 .711
1985 101 394 341 40 99 17 2 10 150 61 0 2 4 10 37 3 2 51 8 .290 .354 .440 .794
1986 103 384 346 31 98 20 1 5 135 53 1 2 1 7 30 6 0 33 7 .283 .334 .390 .724
1987 近鉄 110 459 413 62 124 24 1 24 222 74 5 2 0 5 37 3 4 64 16 .300 .359 .538 .897
1988 114 450 392 61 122 22 1 22 212 65 1 2 0 4 54 9 0 39 13 .311 .391 .541 .932
MLB:16年 1754 6598 5913 784 1615 277 33 235 2663 901 87 70 21 69 560 105 35 852 122 .273 .336 .450 .786
NPB:2年 224 909 805 123 246 46 2 46 434 139 6 4 0 9 91 12 4 103 29 .306 .375 .539 .914
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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一塁(1B)












1974 DET 10 75 8 0 13 1.000
1975 5 40 4 0 4 1.000
1976 9 98 1 1 13 .990
1978 MIL 11 88 3 2 4 .978
1979 9 68 3 1 3 .986
1988 近鉄 1 0 0 0 0 ----
MLB 44 369 19 4 37 .990
NPB 1 0 0 0 0 ----
外野守備(MLB)


左翼(LF) 中堅(CF) 右翼(RF)




































1971 BOS 10 17 1 1 1 .947 - 1 5 0 0 0 1.000
1972 32 46 4 1 1 .980 - 33 52 1 1 1 .981
1973 4 2 0 0 0 1.000 - 29 52 2 1 0 .982
1974 DET 61 87 3 5 0 .947 - 2 3 0 0 0 1.000
1975 76 168 3 4 1 .977 - 10 24 1 1 0 .962
1976 16 25 4 0 0 1.000 12 37 0 0 0 1.000 36 74 3 2 0 .975
1977 - - 118 239 10 6 3 .976
1978 MIL 65 145 5 3 0 .980 - 25 42 0 1 0 .977
1979 103 211 6 1 0 .995 - 23 41 1 3 0 .933
1980 150 377 18 9 2 .978 1 1 0 0 0 1.000 2 3 0 0 0 1.000
1981 100 204 3 4 1 .981 3 5 0 0 0 1.000 -
1982 159 358 15 7 2 .982 - -
1983 113 259 8 4 1 .985 - -
1984 113 210 6 7 1 .969 - 23 38 0 1 0 .974
1985 48 82 2 2 0 .977 - 54 105 3 4 0 .964
1986 50 105 4 1 1 .991 - 2 0 0 0 0 ----
MLB 1100 2296 82 49 11 .980 16 43 0 0 0 1.000 358 678 21 20 4 .972
外野守備(NPB)


外野(OF)












1987 近鉄 47 77 0 5 0 .939
1988 9 12 2 1 1 .933
NPB 56 89 2 6 1 .938
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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MLB

表彰

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MLB
NPB

記録

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MLB
NPB初記録
  • 初出場・初先発出場:1987年4月14日、対日本ハムファイターズ1回戦(後楽園球場)、4番・左翼手として先発出場
  • 初安打:同上、5回表に佐藤誠一から右前安打
  • 初打点:同上、6回表に佐藤誠一から中前適時打
  • 初本塁打:1987年5月2日、対日本ハムファイターズ4回戦(藤井寺球場)、8回裏に佐藤誠一から2ラン
NPBその他の記録

背番号

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  • 4 (1971年)
  • 14 (1972年 - 1973年)
  • 22 (1974年 - 1977年)
  • 24 (1978年 - 1986年、2000年)
  • 10 (1987年 - 1988年)

脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、126ページ
  2. ^ 読売新聞1987年3月31日夕刊14面
  3. ^ 朝日新聞1987年4月1日20面
  4. ^ 読売新聞1987年4月1日17面
  5. ^ a b c 優勝逃して涙を流した人格者 メジャーで本塁打王獲得した「近鉄の助っ人」とは”. 週刊ベースボールonline. ベースボール・マガジン社 (2021年1月3日). 2021年1月27日閲覧。
  6. ^ 1988年5月13日朝日新聞大阪朝刊17面
  7. ^ 週刊ポスト2012年9月14日号「元近鉄オグリビー「自分と一緒に風呂入ってくれた」近鉄OB阿波野秀幸の談話より

関連項目

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外部リンク

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