モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ

ダイムラー・フェニックス(1900年)とベンツ・レンワーゲン(1900年)
メルセデス・35PS(1901年ニース・スピードウィーク中のニース~サロン~ニースレース)
ウィリアム・K・ヴァンダービルトとメルセデス速度記録車(1904年)
メルセデス・140PS(1908年フランスグランプリ)
ベンツ・120PS(1908年フランスグランプリ)
ブリッツェン・ベンツ(1911年)
メルセデス・18/100PS(1914年フランスグランプリ)
ラルフ・デ・パルマのメルセデス(1914年ヴァンダービルト杯)
ベンツ・トロップフェンワーゲン(1923年イタリアグランプリ)
SSKL(1931年ミッレミリア)
W25(1934年・グランプリカー)
W125(1937年・グランプリカー)
W154(1939年型・グランプリカー)
T80(1939年・速度記録車)
W194(1952年)
300SLR(1955年)
W196R(1954年 - 1955年・F1)
C11(1991年型、手前)とザウバー・C9(1989年型、奥)
マクラーレン・MP4-13(1998年・F1)
マクラーレン・MP4-23(2008年・F1)
1990年代から2000年代のDTM車両
2010年代のF1ショーカーとAMG GT3(2015年)
W12 EQ Performance(2021年・F1)
EQ Silver Arrow 01(2019年・フォーミュラE)
モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツの過去から現在までの主要なレーシングカー。
メルセデス
国籍 ドイツの旗 ドイツ
本拠地#現在の組織」を参照
活動期間 1894年 - 現在(2023年)
フォーミュラ1
エントリー名 Mercedes-AMG Petronas F1 Team
テンプレートを表示

モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツでは、ドイツの自動車メーカーであるメルセデス・ベンツ・グループ社のブランドである「メルセデス・ベンツ」車両で行われてきたモータースポーツ活動の歴史について記述する[表記の注釈 1]。「メルセデス・ベンツ」ブランドが誕生する1926年以前の、ベンツ社ドイツ語版ダイムラー社英語版(Daimler Motoren Gesellschaft、DMG)の活動についても記述する。

概要

[編集]

メルセデス・ベンツのモータースポーツ活動は1894年に始まり、以降、休止期間を挟みつつも125年以上に渡り、様々な自動車レースにおいてその活動の足跡を残している[W 1]。2022年11月現在は、フォーミュラ1(F1)に自社チームを参戦させているほか、メルセデスAMGを通じてGTカーによるカスタマーレーシング事業を行っている[W 2][W 3](各運営組織の概要は「#現在の組織」を参照)。

この記事では基本的に19世紀末の草創期の出来事から順を追って扱うが、モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツの活動は多岐に渡り、「#インディカー」、「#最高速度記録」のように関った期間が断続的なカテゴリーもあるため、一部の項目は節を分けている。

長い歴史

メルセデス・ベンツの源流であるベンツ社ドイツ語版ダイムラー社英語版(DMG)はどちらも19世紀末にガソリン自動車を発明し、最古の自動車メーカーに数えられる会社である。両社はモータースポーツ草創期からレース活動をしており、メルセデス・ベンツを擁するメルセデス・ベンツ・グループ社は、現在もレース活動をしている自動車メーカーとしてはフランスのプジョーと並んで最古のメーカーのひとつである。レース活動を休止していた期間もあるものの、必然的にその歴史はモータースポーツの歴史と等しい長さを持っている(主な出来事の時系列は「#沿革」を参照)。

歴史が長いだけではなく、レース参戦の初期から主要なレースにおいて強豪として活躍をしている。中でも、1930年代の「シルバーアロー」時代から1950年代にかけてのレース活動では他を圧倒して一時代を築き、当時の車両がまとったカラーリングから、シルバー(銀色)はメルセデス・ベンツのレーシングカーを象徴する色として認知されている[W 4][W 5](詳細は「シルバーアロー」を参照)。

「メルセデス・ベンツ」を持つダイムラー社(現在のメルセデス・ベンツ・グループ社)の社運はレースの優勝によって上がるのが伝統と言われており、各時代における活躍と積み重ねてきた歴史は同社にとっての重要な資産になっていると考えられている[1]

幅広い活動

2020年代の今日、自動車レースの最高峰と位置付けられているフォーミュラ1世界選手権(F1)は[W 6]20世紀初頭にヨーロッパで始まった「グランプリ」レースを源流に持ち、メルセデスはその第1回大会である1906年フランスグランプリから参戦している。その後もメルセデス(メルセデス・ベンツ)のレース活動の中で、グランプリレースへの参戦は中心的な活動であり続けた。ル・マン24時間レースをはじめとしたスポーツカーレースにも、スポーツカーレースが厳密なカテゴリーとして成立する以前の草創期から参戦をしており、時期によってはこちらが活動の中心となっている。このふたつのカテゴリーには、多くの場合、自社チーム(ワークスチーム)で参戦を行っている。その他、自社チームによる参戦例は限られるものの、各国で開催されているツーリングカーレース、GTカーレース、ラリーラリーレイド)、トラックレースにもカスタマーチームを支援する形で幅広く参戦している。

活動地域の範囲はモータースポーツ黎明期から広く、自動車レース発祥の地であるヨーロッパだけではなく、大西洋を渡りアメリカ合衆国の自動車レースでも早くからその足跡を残している。アメリカ合衆国初の自動車レースであるタイムヘラルド自動車レース英語版(1895年)にはベンツ車が参戦しており[2]、その後も、同国初の国際レースである第1回ヴァンダービルト杯(1904年)をはじめ[W 7]アメリカグランプリの前身である第1回アメリカングランドプライズ(1908年)、第1回インディアナポリス500(1911年)のいずれにもメルセデスもしくはベンツが参戦し、1910年代までに優勝を果たしている[3][W 8]。ダイムラー自体が進出して行ったものではないが、東アジア日本でも1920年代からアート商会がダイムラーの航空機用エンジン(コピー製品)を搭載した自動車でレースに参戦を始め[4][5]、1936年(昭和11年)に開催された全日本自動車競走大会にもメルセデス・ベンツの車両が参戦している[6][7]

自動車レースの始まり

[編集]

1886年にカール・ベンツが、1889年にゴットリープ・ダイムラーヴィルヘルム・マイバッハがそれぞれ別個にガソリン自動車を発明した[注釈 1]。両者はそれぞれベンツ社(Benz & Cie.)とダイムラー社(Daimler Motoren Gesellschaft、DMG)を設立し、自動車の製造販売に乗り出した[注釈 2][表記の注釈 2]。ガソリン自動車はドイツで発明されたが、ドイツでは自動車という新しい概念の受容に時間がかかり、自動車レースは新しい発明を柔軟に受け入れたフランスで始まり、以降もフランスを中心として発展していくこととなる。

史上初の自動車レース (1894年・1895年)

[編集]
ベンツ・ヴィザヴィ(1894年パリ・ルーアン)[注釈 3]
ベンツ・ヴィザヴィ(1894年パリ・ルーアン)[注釈 3]

ドイツでガソリン自動車が発明されると、フランスでそれを使った競走を行う機運が起こり、自動車を使った最初のイベントが、1894年にパリルーアン間で行われた(パリ・ルーアン英語版[注釈 4]

このイベントは速さを競う「レース」というより走行会に近いものであったが、ダイムラーからライセンスを受けて製造されたガソリンエンジンを搭載したプジョーの車両と、同じくパナール・エ・ルヴァソールの車両が優勝を分け合った[10][W 12][W 13][注釈 5]。ダイムラーとは異なりガソリンエンジンと車体を不可分のものと考えていたベンツからは、エミール・ロジェが「ヴィザヴィ」(Vis-à-Vis[注釈 6]ヴィクトリアの派生車)でこのレースに参加し[W 14]、126㎞のコースを10時間1分で走り切り、14位完走という記録を残した[注釈 7]

翌1895年に世界初の本格的な自動車レースとされるパリ・ボルドーレース英語版が開催されると、やはりダイムラーからライセンスされたエンジンを搭載したプジョーとパナール・エ・ルヴァソールが優勝を含む上位を独占した[15]。その後も19世紀末の間にフランスを中心に自動車レースが開催されるようになり、この時点でガソリンエンジンとして高い完成度を持ったダイムラー製エンジンは広く用いられた。

最初期のレース車両

[編集]

自動車レースが始まった当初、レースに使われたのは市販車をそれぞれの持ち主が改造した車両だった。一方、自動車の販売を手掛ける者たちはレースの結果と自動車の売れ行きとの間に強い結びつきがあることに気づきつつあり、この流れから必然的に、1900年頃になるとレース専用車両(レーシングカー)やレースを念頭に置いた高性能車両が登場することになる[16]

ベンツ・レンワーゲン(1899年 - 1900年)

[編集]
ベンツ・レンワーゲン(1900年)
ベンツ・レンワーゲン(1900年)

カール・ベンツは自動車を馬車に代わる輸送機関としての側面から捉えていたため、レースに自社の車両を持ち込むことは気が進まなかったが、彼の息子たちはベンツ車の優秀さを証明したいと考え、ベンツ社としては最初のレースカーを製造し1899年に完成させた[17][16][W 17]。この8馬力の「レンワーゲン」(レーシングカー)は1899年7月2日にケルンフランクフルト間で開催された都市間レースに2台が出走し、1-2フィニッシュを飾る[18][W 17]。優勝したフリッツ・ヘルトは193.2㎞の距離を平均時速22.5㎞で走り切った[W 17]

この車両は馬力を倍の16馬力にまで強化した上で1900年から1901年にかけて量産され、希望する顧客に15,000マルク(金マルク)で販売された[W 17][W 18]。この車両は当時の自動車レースにおいて主流だった都市間レースで活躍し、未舗装路面の道路を平均時速50㎞という驚異的なスピードで走破した[18]

続いて、ベンツのゲオルク・ディール(Georg Diehl)は水平対向4気筒エンジンを搭載した新たなレース車両(20馬力から33馬力程度)を開発した[19][16][W 19]。1900年7月29日にフランクフルトの道路を封鎖して特設されたレーシングサーキット(周回路)でレースが開催され、同車はこのレースで圧勝した[19][16][W 19]

カール・ベンツによる反対

[編集]

このようにベンツのレース用車両の開発は順調に進展しており、1900年の時点ではダイムラーよりも先行していた[20]。しかし、時速50㎞という高い速度で公道を走ることは道路を行き交う人々の命を危険に晒すと考えたカール・ベンツは[20]、今後は都市間レースに参加しないことを自社の従業員たちに宣言した[19][16][注釈 8]。カール・ベンツは、自分が発明した自動車が文明を大きく転換させるものであることを早くから確信していた[21]。そして、ドイツの自動車産業が最高の目標とすべきなのは、速さではなく、信頼性と経済性だと考えていた[22]。そもそも自身の発明品では常に安全を重要視しており[23]、レースのような最高速度を競うようなものは彼の目指すところではなかった[24][注釈 9]

そうしたカール・ベンツの哲学の下、当時の主流である都市間レースに参加できなくなったことで、1900年7月のフランクフルトのレース以降、ベンツの「レンワーゲン」開発は停滞することになった[25]

メルセデス・35PS(1901年)

[編集]
我々はメルセデス時代に入った(Nous sommes entrés dans l’ère Mercédès)[W 20][W 21]

—ポール・メヤン(1901年ニース・スピードウィーク)

フランス・ニースに住む実業家であるエミール・イェリネック英語版からの要望を受け、1900年末、ヴィルヘルム・マイバッハとパウル・ダイムラーは「メルセデス・35PS英語版」(メルセデス・35HP)を完成させ、1901年からレース仕様の35PSが活躍を始めた[表記の注釈 3]

メルセデス・35PSは単に性能が優れていたというだけではなく、旧来の馬車の姿を引きずったデザインから脱却し、乗用車としてあるべき姿を考えて設計され、「その後の全ての乗用車の原型になった」と言われている[W 22]

この車両が自動車工学に大きな変化をもたらすものであることは当時の人々にもすぐさま知覚され[W 22]フランス自動車クラブ英語版(ACF)の共同創設者であり事務総長のポール・メヤンフランス語版はメルセデスの先進性を認めて「我々はメルセデス時代に入った」と評した[26][W 20][W 21]

由来となった人物

[編集]
エミール・イェリネック
メルセデス・イェリネック
エミール・イェリネックとメルセデス

今日、メルセデス・ベンツ・グループ社の乗用車やトラック・バスの名前として使われている「メルセデス」とは、ダイムラー(DMG)の重要な顧客だったエミール・イェリネックの娘メルセデス(Mercédès)を由来とする名前で、元々は彼がレースに参加するにあたってドライバーや車両の登録名として用いていたものである[W 23][注釈 10]

イェリネックはオーストリア=ハンガリー帝国の外交官(ニース駐在総領事)かつ実業家で[注釈 11]、自動車の将来性に早くから着目して、1896年からダイムラーの車両を購入し始め、やがて販売代理業をするようになっていた[30]。イェリネックは資産家や地方貴族にも顔が広く、1900年頃にフランスで自動車の強固な販売網を築いており、ダイムラーに対しても強い発言権を持っていた。

1899年3月、第1回ニース・スピードウィークが開催され、イェリネックは当時のダイムラーの最高性能車であるフェニックスドイツ語版を「メルセデス」の名で登録して参加させた(ドライバーはダイムラーの技師長ヴィルヘルム・バウアー[31][W 23]

この年の優勝を逃したイェリネックはダイムラーにフェニックスの改良を依頼して翌年も同じレースに挑んだが、スピードウィーク中のヒルクライムレースでドライバーのバウアーが死亡する事故が起きる[32][33][31][W 23][W 24]。バウアーの事故死はダイムラーに衝撃を与え、フェニックスの設計上の問題が提起されることになった[32][31][34][注釈 12]

折り悪く、同じ1900年3月に創業者でエンジンの設計者であるゴットリープ・ダイムラーが死去し、ダイムラー社が及び腰になる中、イェリネックはレーシングカーの更なる開発を依頼する[32][31][34]

「メルセデス」の誕生

[編集]
メルセデス・35PSレース仕様
メルセデス・35PS(1900年)[注釈 13]

イェリネックはダイムラーに高性能車の開発を依頼するとともに、それが完成した際は36台購入することを確約した[32][注釈 14]。そうして、マイバッハとパウル・ダイムラーが互いに協力して35馬力の新型車(後に「メルセデス・35PS」として知られるようになる)を開発し、最初の1台は1900年10月25日に完成し、走行テストを経て、12月22日にイェリネックに届けられた[29][38][31][W 25]

この車両を注文する際、イェリネックは新型車に高性能のエンジンの搭載と、車体をより「低く、幅広く、長く」することを望むとともに、名前を「メルセデス」にするよう条件を付けた[32][31][W 26][注釈 15]。マイバッハは性能面の要求を満たし、「ダイムラー・メルセデス[32]」は馬車を引きずった旧来のデザインから脱却した先進的な車両として完成した[W 25][W 27]

1901年3月、この35馬力の「ダイムラー・メルセデス」はニース・スピードウィークで開催されたほとんどのレースを圧勝し、「メルセデス」の名は知れ渡ることとなる[40][W 25][注釈 16]

この成功から、ダイムラーは1902年に「メルセデス」を自社の商標として登録し、自動車のブランド名として用いるようになった[43]

ベンツ・パルシファル(1902年)

[編集]

カール・ベンツの方針によりレース活動から遠ざかっていたベンツ社では、フリッツ・アールが会社から許可をもらって当時の「メルセデス」のトレンドに沿った車両の開発を細々と行っていた[44][31]

レースに消極的なカール・ベンツの姿勢は、共同経営者で高性能車の開発を望んでいたユリウス・ガンス(Julius Ganß)との間で対立を生じさせる[44][31][注釈 17]。ガンスはフランス人技術者のマリウス・バルバロウを雇い入れて、独自に開発部隊を設け、バルバロウは1902年に直列2気筒エンジンを搭載したベンツ・パルシファルドイツ語版を完成させた[44][31][47]。この車両はレース専用車ではないが、レース仕様車はそれに匹敵する高性能だった[48]。これにより、カール・ベンツとガンスの対立は深まり、1903年にカール・ベンツは開発の一線を退いた[44][31]

1903年5月に開催されたパリ・マドリッドレース英語版にベンツは改良したパルシファル(60馬力)を投入し、バルバロウ自ら同車のステアリングを握って参戦したが、このレースでは散々な結果に終わった[31]。しかし、バルバロウはさらに改良を施した車を翌月のレースに投入し、ここでは総合性能では上回るメルセデス・シンプレックス英語版(60馬力)を超える結果を出した[31]。この車両は大きな成功はしなかったものの、その後のベンツのレーシングカーの足掛かりとなった[1]

ゴードン・ベネット・カップ(1903年)

[編集]
メルセデス・シンプレックス(1903年ゴードン・ベネット・カップ優勝車)
メルセデス・シンプレックス(1903年ゴードン・ベネット・カップ優勝車)

19世紀末の初期の自動車レースは規則らしい規則もなく無秩序に開催されていたが、自動車メーカーの参加や国境をまたいだ参加が常態化していくにつれて、競技規則の整備が急務となる[49]。そこで、フランス在住の富豪ジェイムズ・ゴードン・ベネット・ジュニア英語版とフランス自動車クラブ(ACF)が協力して規則を策定し、1900年に国別対抗の自動車レースであるゴードン・ベネット・カップを初開催した[49]

ドイツ勢は初年度こそベンツがエントリーしたものの[注釈 18]、その後の2大会はどのメーカーも興味を示さず、ダイムラーは1903年の第4回大会英語版で初めて出場した[49]

この大会に出場するため、ダイムラーは90馬力に強化したメルセデス・シンプレックスを用意して7月2日のレース開催日に備えた[49][W 28]。ところが、6月9日深夜[注釈 19]カンシュタット英語版にあるダイムラー本社工場で火災が発生し、レース用に用意していた5台の車両を全て焼失する不幸に見舞われる[51][49][W 28]。市販用に在庫していた90台も全て焼失してしまった上、工場が全焼したことで生産設備も失い、レースに間に合うよう再製造することも不可能となった[51][49]。しかし、ダイムラーはレース参戦を諦めず、顧客から借用するなどして60馬力のシンプレックス3台をなんとか用意し、突貫工事でレース仕様に改造してレースに間に合わせた[52][53][49]

車両は開催地のイギリス・アイルランド島[注釈 20]に送られ、荒れた道路で530㎞に及ぶレースに挑むことになり、3台のメルセデスの内、2台はリタイアとなる[49]。一方、残った1台を駆るベルギー人カミーユ・ジェナッツィは、ライバルより馬力で劣る車両にもかかわらず、数々のカーブを巧みなスロットル制御で高速でクリアする離れ業を見せ、2位以下に大差をつけて優勝した[49][W 28]

ダイムラーとドイツ車にとってこれは国際的な自動車レースにおける初めての優勝となり、メルセデスの名声はこの勝利で確固たるものとなった[53][49]。この勝利による宣伝効果は絶大なもので、ダイムラーには500万ドル相当のメルセデスの注文が寄せられた[54][W 28]

ダイムラー(DMG)のウンターテュルクハイム本社工場(1911年)

ダイムラーは全焼した工場に代わる新たな本社工場をカンシュタットに隣接するシュトゥットガルト北部のウンターテュルクハイムドイツ語版に建設し、レースカーの開発拠点もそちらに移った[51][54][49][注釈 21]

グランプリレース黎明期(1906年 - 1914年)

[編集]

ゴードン・ベネット・カップはその厳格すぎる規則が敬遠されたことから1905年の第6回大会で終了となり、続いて、フランスで新たな国際的な自動車レースとして「グランプリ」レース(ACFグランプリ)が創設された[49][55]。「グランプリ」は基本的にはゴードン・ベネット・カップの規則を踏襲したが、同レースで敬遠された国別の出場台数制限(ゴードン・ベネット・カップでは各国3台まで)や、出場する車両の部品に自国の製品しか使ってはいけないという規則が撤廃された[56][注釈 22]

1906年6月26日、フランスのル・マン近郊の公道コースで史上初のグランプリとなる第1回フランスグランプリ(ACFグランプリ)が開催された[55][W 29][注釈 23]

初期の参戦(1906年 - 1908年)

[編集]
メルセデス・140PS(1908年フランスGP、ラウテンシュラガー車)
メルセデス・140PS(1908年フランスGP、ラウテンシュラガー車)
ベンツ・120PS(1908年フランスGP、エメリ車)
ベンツ・120PS(1908年フランスGP、エメリ車)

ダイムラー(メルセデス)は第1回大会から参戦し、最初の2年(2レース)は平凡な成績に終わり、新規定が導入された第3回大会・1908年フランスグランプリ英語版を迎える[55]

新規定に合わせて新たなエンジンを設計するにあたって、マイバッハは設計を巡って起こった対立から1907年4月にダイムラーを去った[58][55][注釈 24]。そのため、設計はマイバッハの後任として技術部長[表記の注釈 4]に任命されたパウル・ダイムラーが手掛けた[60][55][注釈 25]

このレースにおいてダイムラーが投入したメルセデス・140PSの速さは圧倒的で、オープニングラップからオットー・ザルツァーが1周の平均時速126.5㎞という当時としては驚異的なファステストラップを記録し、チームメイトであるクリスティアン・ラウテンシュラガーがメルセデスにとってのグランプリ初優勝を遂げる[63][55]

一方、ベンツはこのレースのためにベンツ・120PSを用意し、グランプリ初参戦にもかかわらず、2位と3位を占めてメルセデスに続いた(ドライバーは2位ヴィクトル・エメリ、3位ルネ・アンリオ[W 30][W 29][注釈 26]。そうして、フランス車とイタリア車が強かったそれまでの2大会とは一転して、上位をドイツ車が占める結果となった。

しかし、この年のヨーロッパを襲った景気後退(1907年恐慌の余波)により、年末にルノーがグランプリからの撤退を発表する。他社も景気後退の影響を受け、ダイムラーとベンツもフランスの自動車メーカーの大部分と歩調を合わせ、自動車メーカーとしての参戦(ワークス参戦)を1909年から1912年までの間は自粛するという取り決めを交わして活動自粛を決定する[65]。ACFグランプリ(フランスグランプリ)自体も1909年と1910年は開催されないことになった。

1909年から数年はプライベーターへの支援のみを行うこととなったが、小改良が重ねられた1908年型メルセデスとベンツはしのぎを削りつつ活躍を続けることとなる[55]

ベンツのアメリカ進出

[編集]
ベンツ・150PS(1910年アメリカングランドプライズ優勝車)

ベンツの車両は、アメリカ合衆国で行われた最初の自動車レースである、1895年11月のシカゴタイムス・ヘラルドレース英語版から参戦しており[W 31][W 32][注釈 27]、アメリカ合衆国の自動車レースでは草創期から使用されていた。

1908年にニューヨーク市に輸入代理店ベンツ・オート・インポート社を設立してアメリカ進出の足掛かりを作ったベンツは、同年11月に開催された第1回アメリカングランドプライズ英語版アメリカグランプリの前身)に参戦し、1908年型グランプリカーであるベンツ・120PSを強化したベンツ・150PSによって2位と4位を獲得した[25][W 33][W 34]。その後、ベンツ社のレース用車両はアメリカで勝利を重ね、その活躍はアメリカにおけるベンツ車の売上を大幅に伸ばすことになる[25]

前述の経緯で1909年からベンツとしてヨーロッパのレースに出走することはなくなったため、1908年型グランプリカーをベースにこの時期に技師長になったハンス・ニベルの主導によりブリッツェン・ベンツなどの速度記録車の開発を進め、それらもアメリカを主要な舞台として新記録を樹立していくことになる[25][66](詳細は「#最高速度記録」を参照)。

1914年フランスグランプリ

[編集]
1914年型(1914年フランスGP、ラウテンシュラガー車)
1914年フランスGPのメルセデス・18/100PS 計5台
1914年フランスGPのメルセデス・18/100PS(ラウテンシュラガー車、#28)[注釈 28]。メルセデスは5台の1914年型グランプリカーを投入した。前方に行くに従いすぼまるウェッジシェイプ(楔型)のボディ形状を採用している[3][W 29]

1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の大公フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺される事件(サラエボ事件)が起きたことから、その翌週7月4日のフランスグランプリはヨーロッパ中が緊迫した政治情勢下にある中で開催されることになった[68]。このレースは名勝負となったことから、後に「グランプリの中のグランプリ」と呼ばれることになる[69]

この年のフランスグランプリでは1908年以来6年振りにエンジン規定に変更が加わり、最大排気量を4,000cc以下とすることが定められていた[68][注釈 29]。ダイムラーにとってはそれまで製作したことのない小排気量だったが、パウル・ダイムラーはダイムラーが航空機エンジンで培ってきた技術を取り入れ[70]、3,200rpmの高回転エンジン「M93654」を開発することでこれに対応した[68][66][W 35]

このレースをグランプリ復帰戦にするつもりのダイムラーは準備に力を入れ、チームの責任者に任命されたワークスドライバーのマックス・ザイラーはレースの数か月前から技術者をコースに派遣し入念な下調べを行い[68]、現地の雪が解けると入念な走り込みまで行ってレースに備えた[69][注釈 30]。レースは当時最高のドライバーの一人とみなされていたジョルジュ・ボアロ英語版が駆るプジョーとメルセデスのザイラーのトップ争いで幕を開け、次いでメルセデスのラウテンシュラガーがボアロと争い、ボアロがファイナルラップでリタイアしたことにより[W 36]、ラウテンシュラガーが優勝を手にし、2位と3位もメルセデスが入賞し、復帰戦を1-2-3フィニッシュで上位を独占する結果となった[64][68][注釈 31][注釈 32]

大きな成功を収めたこのレースは後のメルセデス(メルセデス・ベンツ)のレース活動においてひとつの指標のような位置付けとなり、1934年と1954年のグランプリレース復帰時はいずれもフランスグランプリまでに復帰を遂げることが目標として設定されている[73][74][75][W 37]

その後のメルセデス・18/100PS

[編集]
現存している1914年型メルセデス・18/100PS

復帰戦を華々しい勝利で飾ったメルセデスチームだったが、その同月末、1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパにおけるレース開催は不可能となる。活躍の場を失った1914年型メルセデス・18/100PSはその後、様々な運命をたどった。

開戦前にイギリスの販売店に展示用に送られていた1台(ラウテンシュラガーの優勝車だと考えられている[W 36])は戦争省によって没収され、ロールス・ロイスに引き渡され、エンジンの技術は航空機用のホークエンジン英語版に大きな影響を与えたと言われている[76][W 35][W 36]。また、1919年に設立されたベントレーもこの車両から恩恵を受けたとされる[W 35][W 36](「ベントレー・3リットル」も参照)。

フランスGPで3位になったザルツァーが乗っていた車両は[注釈 33]、同レースに参戦していたラルフ・デ・パルマ英語版に売却されてアメリカ合衆国に渡り[W 36]、1915年のインディ500を制覇した[W 38](「#インディカー」も参照)。デ・パルマはパッカードと縁が深かったことから、この車両のエンジンもまた解析され、パッカードを経由して航空機用のリバティエンジンに影響を与えたとされる[76][W 39][W 36]。この車両は1920年以降は消息不明となるが、一説にはイギリスのコレクターの手に渡ってヨーロッパに戻ったとも言われている[W 36]

終戦後の1922年には公道レースのタルガ・フローリオに3台が出走し、その内の1台は同レースで優勝した[66][W 36](「#ラリー」も参照)。

技術面では、1914年型グランプリカーでは、水冷エンジン用のウォータージャケット英語版を設けるにあたって、シリンダーブロック製作時に鋳物でウォータージャケットを設けるのではなく、鋼板で製作したウォータージャケットをシリンダーブロックに溶接するというメルセデス独特の「ウェルデッド・ウォータージャケット」構造(welded-on water jacket)という技術が用いられた[70][77]。これは冷却効率に優れ、高回転エンジンに向いていたことから、1930年代の「シルバーアロー」時代を経て、1950年代のW196のM196エンジンにまで使われ続けることとなる[70][77][78][W 40]

戦間期のグランプリ・白の時代(1921年 - 1931年)

[編集]

1918年に第一次世界大戦が終結するとヨーロッパでも終戦翌年の1919年半ばから徐々にレースが再開され[79]、ダイムラーは1921年5月のタルガ・フローリオにおいてレースに復帰した[68][注釈 34]

敗戦国となったドイツの経済は1920年代前半にインフレに伴う不況に襲われ、ダイムラーとベンツは合併による生き残りを図る[80]。これにより、1926年に「ダイムラー・ベンツ」が設立された。

スーパーチャージャーの導入

[編集]
メルセデス・タルガ・フローリオ
メルセデス・タルガ・フローリオ(1924年タルガ・フローリオ優勝車)[注釈 35]
パウル・ダイムラー
スーパーチャージャーを導入したパウル・ダイムラー[注釈 36]

パウル・ダイムラーは、1922年からAIACRが施行した「2リッターフォーミュラ」規定に合わせた車両を開発し、そこでその後のメルセデス(メルセデス・ベンツ)のレース用車両で1950年代まで長きに渡って使われ続けることになる新技術「スーパーチャージャー」を投入した[81]

第一次世界大戦中に航空機エンジンの開発と製造を担っていたダイムラーは、そこで得たスーパーチャージャーの技術を自動車用エンジンに応用した[68][66]。エンジンに空気を強制的に送り込むことによって小排気量のエンジンでも大きな馬力を得ることができるこの装置はレース用エンジンにとって強力な武器となった[注釈 37]

この時期、ダイムラーの技術部門にはもうひとつの大きな変化が起こった。フェルディナント・ポルシェの加入である[W 43]。1923年に技術部長としてダイムラーに加入したポルシェは前任者のパウル・ダイムラーが残していった仕事を引き継ぎ、レース関連ではまずスーパーチャージャーの改良に尽力して[68]、その技術水準を一挙に高めた[64]。ポルシェが改良した車両は1923年にインディ500に参戦し、ここでは結果が出なかったが、翌1924年はワークスドライバーのクリスティアン・ヴェルナーが4月のタルガ・フローリオドイツ語版コッパ・フロリオ英語版を連覇して「完全制覇」を達成し、両レースとも2位をラウテンシュラガー、3位をアルフレート・ノイバウアーが占め、メルセデスチームが完勝を果たした[82][68][W 41][W 44][W 42][注釈 38]

ベンツ・トロップフェンワーゲン(1923年)

[編集]
ベンツ・トロップフェンワーゲン(1923年)
ベンツ・トロップフェンワーゲン(1923年)[注釈 39]

1921年9月にエドムント・ルンプラーベルリンモーターショー(IAA)にルンプラー・トロップフェンワーゲン英語版(涙滴型自動車)を出品した[84][85][W 45]。ベンツの設計主任ハンス・ニベルはこの流線形の車両に関心を持ち、ベンツはルンプラーからライセンスを受け、1923年にレース用車両のベンツ・トロップフェンワーゲンドイツ語版を完成させた[86][W 45]

1923年9月、ベンツはモンツァ・サーキットで開催されたイタリアグランプリ英語版(第1回ヨーロッパグランプリ)で「ベンツ・RH」と名付けたトロップフェンワーゲン3台を初めて出走させた[85]。「RH」は「Rennwagen Heckmotor」すなわち「リアエンジンのレーシングカー」を意味し、この車両のもうひとつの大きな特徴に由来している[85]

当時メルセデス以外でも採用されつつあったスーパーチャージャーをベンツは持たなかったため、90馬力程度の出力しか持たないこの車がグランプリで活躍することはなかった[85][W 29]。その一方、足回りに四輪独立懸架式サスペンションを備え[W 46]、エンジンを車体後方にミッドシップに搭載するという設計思想の先進性は当時から大いに讃えられた[85]。こうした設計は1930年代のアウトウニオンのレーシングカーに受け継がれ[64]、1950年代のクーパーの活躍以降はレーシングカーの主流となっていく[85][W 29][注釈 41]

「メルセデス・ベンツ」の誕生(1926年)

[編集]

第一次世界大戦の終戦後、敗戦国となったドイツの景気は低迷し、ドイツの自動車メーカー各社は1920年代を通じて深刻な経営難の中にあった。ダイムラーとベンツはともに苦境に立たされた末、1923年頃から非公式な提携関係を結んでいた[88]

そうした状況から、1926年6月28日にダイムラーとベンツは合併し、「ダイムラー・ベンツ」(Daimler-Benz AG)が設立された[W 47][表記の注釈 5]。自動車のブランド名は「メルセデス・ベンツ」に統一される[W 47]。レース用車両においてもダイムラーのフェルディナンド・ポルシェ、ベンツのハンス・ニベルをはじめとする両社の技術者が合流し、それぞれメルセデスチームに名車をもたらしていくことになる[表記の注釈 6]

カラツィオラと「監督」ノイバウアーの登場(1926年)

[編集]
ルドルフ・カラツィオラ
ルドルフ・カラツィオラ
アルフレート・ノイバウアー
アルフレート・ノイバウアー

1926年という年は「メルセデス・ベンツ」が誕生した年であると同時に、同社の自動車レース活動にとって大きな転機となる出来事が起きた年でもある。この年に開催された第1回ドイツグランプリ英語版で優勝した新人ルドルフ・カラツィオラの登場と、それまでダイムラーのワークスドライバーだったアルフレート・ノイバウアーの「監督」への転身である。

カラツィオラは1920年代後半からメルセデスチームのエースとして活躍し、1930年代の「シルバーアロー」時代を象徴する存在となるドライバーである[W 48]。晴天のレースで強かっただけでなく、雨のレースに天賦の才能があり[89]、雨で路面が濡れ視界も遮られた状況で抜群の強さを発揮したことから、「レーゲンマイスター」(レイン・マスター)としても知られることになる[W 49][W 50]

大雨となった1926年ドイツグランプリを制したカラツィオラの驚異的な走りは、彼より10歳年長のノイバウアーにドライバーとしての自身の限界を悟らせることになった[90][91]。それと同時に、そのカラツィオラでもレース中の自身の順位すらよく知らなかったという事実はノイバウアーに啓示を与え、レースチームの「監督」(レンライター)というポジションを着想させた[92][93]

ノイバウア―は色のついた旗や信号板を使ってピットから走行中のドライバーに情報を伝達する方法を考案し(これはサインボードの起源となる)、これにより自動車レースに「レース戦略」という概念を持ち込んだ[92]。ノイバウアーはライバルチームのドライバーたちの心理や気質を読むことに長けていたことから、自チームのドライバーのペースをコントロールすることでライバルたちのエンジンやタイヤに負担を与えてリタイアに追い込むといった戦術を駆使した[94]。ノイバウアーはチームをまとめる能力にも優れ、史上最初にして最高のレースチーム監督と讃えられることになる。

類いまれな才能を持ったカラツィオラとそれをチーム力と戦略で支えるノイバウアーのコンビネーションは強力で、後述する「S」シリーズがこれに加わり、メルセデスチームは多くの勝利を重ねた[95][96]

「ホワイト・エレファント」(1927年 - 1931年)

[編集]

1920年代後半、AIACRによって新たなフォーミュラカーの規格が毎年のように改定されるようになり[81]、ダイムラー・ベンツは大きな投資が必要になるレース専用車両の新規開発に慎重になり、当面はレース専用車両を開発しないことを決定した[97]

そこで同社はフェルディナント・ポルシェが設計した市販スポーツカーであるメルセデス・ベンツ・Sタイプ(W06)をレース用に転用してレースを続けることにした[97]。ダイムラー・ベンツと同様の考えから、レース主催者である各地域の自動車クラブや、参加者である他の自動車メーカーたちもAIACRが策定したフォーミュラを支持しなかった[81]。そのため、1920年代後半は年1戦から3戦のみのAIACR主催レースを除けば、レースの大部分はフォーミュラ・リブレやスポーツカー規格で開催され[W 51]、Sタイプとその発展形の車両は数々のレースで活躍することが可能となった。

メルセデス・ベンツ・Sの登場(1927年)

[編集]

市販車ながらSタイプが搭載するM06エンジンはスーパーチャージャーを使うことで230馬力もの出力を発生させることができたことから、レース仕様に改造された車両は1927年に参戦を始めるとすぐに高い戦闘力を発揮した[97]。他チームの車両と区別しやすくするため、ノイバウア―の指示でボディは従来と同様にドイツのナショナルカラーである白に塗装され[97]、Sタイプとその後継車両はその巨体から「ホワイト・エレファント」(白い象)と通称されるようになった[W 52][W 29]

1928年にはSタイプを発展させたSS(Super Sport[注釈 43])が製造され、同年にはSSからさらにレーシングカーとしての要素を強めて、275馬力のエンジンを搭載し、ホイールベースを短縮したSSK(Super Sport Kurz)が登場し、やはりレースで活躍することとなる[97]。これらの車両は乗用車として一般にも販売されたことから、自費でレースに参加するプライベーターたちにも活用された[97]

1928年限りで技術部長のポルシェがダイムラー・ベンツから去った後は[注釈 44]、旧ベンツの設計主任で職位としてはポルシェと同格だったハンス・ニベルが同車の開発を引き継ぎ、1931年にSSKをより軽量化させたSSKL(Super Sport Kurz Leicht)を完成させた[W 53][W 54]。SSKLのエンジンには「エレファント」と呼ばれる巨大かつ強力なスーパーチャージャーが装着され、最大出力は300馬力まで向上した[99][W 55]。スーパーチャージャーの大型化があったにもかかわらず、SSKLではSSKと比較して車両全体で125㎏の軽量化が達成された[W 53]

レースにおけるSシリーズの活躍はメルセデス・ベンツのイメージにとって大きな宣伝効果をもたらし、メルセデス・ベンツの名で売られている全ての車種が高級車とみなされるようになり、機構としては平凡な中級車に過ぎない370S英語版(W10)まで、外観はSシリーズに似ていると言えなくもないことから「中級の素晴らしいスポーツカー」と讃えられるようになった[100]。ニベルはSシリーズで培ったスーパーチャージャーの知見を市販車に積極的に取り入れていき、元々の得意分野である独立懸架式サスペンションなどの足回りの技術を大型高級車から小型車まで乗り心地の良さという形で導入し、ダイムラー・ベンツは1930年代前半に770/770K(W07)[注釈 45]170(W15)、500K英語版(W29)をはじめとした数々の名車を世に送り出すこととなる[101][102][103]

チーム・カラツィオラ(1931年)

[編集]
SSKL(1931年ミッレミリア)

1929年に始まった世界恐慌による経済不況から、ダイムラー・ベンツはレース活動を中止することを決定して、1930年をもってカラツィオラらワークスドライバーたちとの契約を終了した[104][96]。しかし、カラツィオラがイタリアチームに流出してしまうことを恐れたノイバウアーはダイムラー・ベンツの取締役会議長であるヴィルヘルム・キッセルに掛け合って譲歩を引き出し、賞金を折半することなどを条件に、カラツィオラへの支援を続けさせるとともに、ワークスチーム向けに製造された希少なSSKLを格安で提供させ[注釈 46]、彼を中心としたプライベートチームを設立した[104][96][107]

このチームはカラツィオラと、必要に応じて助っ人コ・ドライバー(ライディングメカニック)として参加したヴィルヘルム・セバスチャンの他は、監督のノイバウア―と3名ほどの整備士がいるだけのごく小規模なチームだった[108][96]。しかし、5月のミッレミリア、7月のドイツグランプリ英語版(ニュルブルクリンク)、8月の第1回アヴスレンネンフランス語版をはじめとしたレースで優勝を飾り、気を吐くこととなる[109]。この年のレースの中でも、圧倒的多数であるイタリアの地元チームを破って得たミッレミリアイタリア語版の勝利は、外国車と外国人が初めてイタリア勢を破って優勝を飾ったことから記録として意義が大きいことに加え、少ない人数ながら効率的にチーム運用をして得た勝利であり、特筆されることが多い[99][注釈 47]

「ホワイト・エレファント」のライバルたち

[編集]

この時期のメルセデスチームは、カラツィオラ、ノイバウアー、Sシリーズという強力なトリニティを有したとはいえ、後の「シルバーアロー」時代のようにイタリアとフランスのチームに対して圧倒的な優位を築いたわけではなく、イタリアのアルファロメオマセラティ、フランスのブガッティはメルセデス・ベンツと同等かそれ以上に有力だった[W 51][W 57][W 58]

フォーミュラ・リブレであったことからSシリーズのライバルはSシリーズとは趣の異なる車が多く、ヴィットリオ・ヤーノが750㎏の2リッターフォーミュラ[注釈 48]として設計したアルファロメオ・P2(1924年)や、スポーツカーのアルファロメオ・8C 2300(1931年)、エットーレ・ブガッティによるブガッティ・タイプ35シリーズ(1924年)、マセラティ兄弟英語版マセラティ・ティーポ26英語版(1926年)、8C 2500英語版(1931年)がSシリーズの強力なライバルとなる[105]。いずれも出力は90馬力から190馬力程度で、275馬力から300馬力程度を出力するSSK、SSKLほどの大馬力は持たなかったが、その多くは軽量な2リッターフォーミュラであり、車重は1,500kgを超えるSシリーズに対して半分ほどしかなく、優れた操縦性を武器にしてSシリーズと激しい競争を繰り広げた[105]。1932年には軽量な車体はそのままにエンジン出力を215馬力まで引き上げた先進的なシングルシーターのアルファロメオ・P3が登場し、「ホワイト・エレファント」は止めを刺されることとなる[113][105]

レース活動の休止(1932年 - 1933年)

[編集]

世界恐慌の影響は続き、ダイムラー・ベンツは1931年には従業員数を1928年の半分に減らさざるを得ないほどの苦境に陥った[114][75]。そのため、1931年まで行っていたカラツィオラへの支援も終了し、会社としてのレース活動は完全に停止し[114]、1932年は前年で生産を終えたSSKなどをプライベーター向けに細々と販売するのみとなった[97]。レース活動の先行きが不透明となったメルセデスチームの関係者には、1932年に創設されたアウトウニオンから勧誘の声がかかるようになる[115]

SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン)

[編集]
SSKLストリームライナー(1932年アヴスレンネン)
SSKLストリームライナー
(1932年アヴスレンネン)
アヴスのコース図
アヴスのコース図

SSKLは1931年シーズンを前に4台が製造され、最初の2台はワークスチーム用に確保され、3台目はホーエンローエ=バルテンシュタイン伯爵家所有となり[注釈 49]、4台目はハンス・フォン・ツィンマーマン男爵が入手した[W 53][W 59]。ツィンマーマン男爵はいとこであるマンフレート・フォン・ブラウヒッチュのレース活動のパトロンをしており[W 61]、この車両はブラウヒッチュが使用することとなる[W 53]

1932年5月のアヴスレンネンに出場するにあたって、高速サーキットのアヴス用にブラウヒッチュのSSKLには空気力学の専門家であるラインハルト・フォン・ケーニッヒ=ファクセンフェルト英語版の設計による流線形(ストリームライン)のボディが架装された[W 53][W 62]コーチビルダーヴェッタードイツ語版の手になるボディは無塗装であるためアルミ合金そのままの銀色をしており[116][W 63]、何よりもその異形は大いに注目を集め、その形状から「キュウリ」であるとか「タイヤを付けたツェッペリン」といったあだ名が付けられた[117][W 53][W 62][W 56][注釈 50]。その形状は奇をてらったものではなく、この改造によりアヴスで重要となる最高速は通常仕様のSSKLと比べて20 km/h向上したとされ、レース中の平均時速は当時としては驚異的な194 km/hを記録した[W 64][W 53][W 62][注釈 51]

このレースは前年限りでメルセデスを去ったカラツィオラが駆る白く塗装されたアルファロメオ・8C 2300モンツァ[注釈 52]とブラウヒッチュの銀色のSSKLストリームライナーによる一騎打ちとなった[119]。カラツィオラが経験の浅いブラウヒッチュを相手に首位を入れ替えつつレースの主導権を握り[注釈 53]、最終ラップではカラツィオラが首位を走行していたが、ブラウヒッチュが最後に逆転して4秒弱の僅差で優勝を飾った[119][W 53]

何という驚き! フォン・ブラウヒッチュがカラツィオラをリード! 銀色の矢が来る、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュの重く巨大な車です。最終コーナーをフルスロットルで回ってくる!(Welch eine Überraschung! Von Brauchitsch führt vor Caracciola! Eben kommt der silberne Pfeil, der schwere wuchtige Wagen des Manfred von Brauchitsch. Da schwingt er in die letzte Kurve hinein – mit Vollgas!)[W 66]

—パウル・ラベン(1932年アヴスレンネン)

このレースのラジオ生中継で実況をしていたパウル・ラベンドイツ語版はブラウヒッチュが駆る銀色のSSKLのことをレース実況の中で「Silbernen Pfeil」(シルバープファイル[120]、日本語で「銀色の矢」、すなわち「シルバーアロー」)と形容した[W 64][W 67][W 51]。こうしてレース前に「キュウリ」と呼ばれたこの車両は、「シルバーアロー」という新たな異名を得たのである[W 64][W 62]。このSSKLストリームライナーは、1920年代から続いていたSシリーズの時代と1934年以降の「シルバーアロー」時代をつなぐ橋渡し役を担った車両として後に評価されることになる[W 68]

ライバルとなるアウトウニオンの創設(1932年)

[編集]

1932年6月29日、ダイムラー・ベンツと同様に経済的な苦境に陥っていたドイツの4社の自動車メーカーが合併して「アウトウニオン」が設立された[注釈 54]。同社は設立されてすぐに1934年の750㎏フォーミュラ開始に合わせて参戦を始めるべく行動を開始し、フェルディナント・ポルシェに設計を依頼してグランプリカーを開発し、参戦に向けた準備を進めた。アウトウニオンはノイバウアーをヘッドハントしようと試みるなどしたため、その計画は1932年時点で早々にダイムラー・ベンツ側の知るところとなる[115]。ノイバウアーはこの時に一度はアウトウニオンとの契約に合意して署名しており[115]、退職願を受け取ったダイムラー・ベンツの取締役会議長のキッセルがレースへの復帰を約束して翻意させていなかったら、その後のモータースポーツの歴史は様相の異なるものになっていただろうと言われている[107]

ノイバウアーの獲得には失敗したアウトウニオンだったが、ノイバウアーの助手だったヴィリー・ウォルブやチーム・カラツィオラの一員だったヴィルヘルム・セバスチャンをチームに迎え、ウォルブにチーム運営を任せた[122]。こうして、メルセデスチームにとっては、技術面でも運営面でも手の内を互いによく知る相手がライバルとなり、1934年から1939年にかけてレースの勝利や最高速度記録をかけて激しく競い合うこととなる[W 69]

レース復帰の決定(1933年)

[編集]
アドルフ・ヒトラー
アドルフ・ヒトラー

1932年10月12日、AIACRは安全性の向上を理由としてレーシングカーの重量(乾燥重量)を最大750㎏とする新たな規則を定め、1934年から施行することを決定した[115][75][注釈 55]。これにより、規則が施行される1934年以降はSシリーズ(S/SS/SSK/SSKL)でレースを続けることは難しくなり[注釈 56]、ダイムラー・ベンツは新型車を開発してレースを続行するか、レースから完全に撤退するかの岐路に立たされる[114][124]

そんな中、1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス、ナチ党)の指導者であるアドルフ・ヒトラーが首相に任命され、ヒトラー内閣が成立した。翌2月のベルリンモーターショー(IAA)で、ヒトラーはドイツの自動車産業振興を謳い、自動車レースにおける勝利の重要性を訴える演説を行った[125]

1933年3月、ダイムラー・ベンツの首脳陣は翌年からのレース復帰を決定し、新型レーシングカーの開発を承認した[114][124][W 69]。ダイムラー・ベンツは自動車レースへの復帰は自社の宣伝が主目的だと説明した[114]。キッセルはノイバウアーとの約束を守ったことになるが、レース復帰が可能となった要因として、自動車産業に並々ならぬ情熱を持ったナチス政権の後押しによって、会社の財政状況に改善の目途が立ったことが大きかった[114]

ナチス政権は労働組合を禁止するとともに(「ドイツ労働戦線」も参照)、ダイムラー・ベンツのような企業には兵器などの軍需製品の発注を大幅に増やし、これらの政策はダイムラー・ベンツの経営陣を安堵させることになった[114](同社の大株主だったドイツ銀行もナチス政権に協力した)。実際に、1930年代半ば以降、ダイムラー・ベンツの売上はナチス・ドイツ政府からの航空機エンジンやトラックの発注によって拡大し続けることとなり[W 70]、経営基盤が盤石となったことで、それまでのように経営状況によってレース活動が左右される心配はなくなった。

「シルバーアロー」時代(1934年 - 1939年)

[編集]
「シルバーアロー」時代の時系列
1934メルセデス・ベンツ、レースに復帰。W25完成

「シルバーアロー」伝説の始まり (6月)

速度記録への挑戦開始 (10月)
1935カラツィオラがタイトル獲得 (9月)[注釈 57]
1936W25ショートカーの失敗による不振の一年
1937W125による圧勝。カラツィオラがタイトル奪還
1938公道最高速度記録樹立 (1月)

W154登場。カラツィオラがタイトル連覇
1939最後のシーズン

シーマンの死亡事故 (6月)

ラングによるヒルクライム制覇 (8月)

第二次世界大戦開戦によるレース中断 (9月 - )

1934年に自動車レースに復帰したメルセデスチームは強力な「シルバーアロー」を擁し、アウトウニオンとともにヨーロッパ中のレースを席巻した。ドイツ勢のこの活躍は第二次世界大戦が勃発してレース自体が中止される1939年9月まで続くこととなる。

この時期のメルセデスチームは組織としても当時としては他に類を見ず、本社では総勢300名のエンジニアがレース用車両の開発にあたり、サーキットでは軍隊式に訓練された50名のメカニックたちが作業にあたり[126][107]、「監督」ノイバウアーの下でドイツ機甲師団のように統率されたチームがヨーロッパ、アメリカ、北アフリカなどの各地に遠征し、優勝カップをシュトゥットガルトに持ち帰った[127][107]

この期間、メルセデス・ベンツとアウトウニオンがあまりにも強力だったため、イギリス、フランスの自動車メーカーは競争について来られず早々に脱落し、最後まで奮闘していたイタリアのアルファロメオも1938年には選手権で0勝となるほどにドイツ勢が圧倒的な戦績を収めた[126]。自動車レースは極端にプロ化した状態に変質し、1920年代のようにプライベーターが入り込めるような余地は全くなくなっていった[126]

この項目では、ドライバーと各シーズンについては大略を記載し、車両については概要とそれぞれの車両間で関連する部分を中心に記載する。この時期のメルセデスチームは、グランプリレース以外に、最高速度記録やヒルクライムにも参加した。それらについては別項で扱う。(→#最高速度記録#ヒルクライム

ナチスとの関係

[編集]
アドルフ・ヒューンライン
アドルフ・ヒューンライン
国家に奉仕することを宣言するダイムラー・ベンツのポスター

第一次世界大戦後の不況に続き、世界恐慌による不況下にあったドイツではナチ党が急速に台頭し、1933年1月に党首ヒトラーがドイツ共和国首相に任命され、一党独裁体制を確立させていった(詳細は「ナチ党の権力掌握」、「ナチス・ドイツ」を参照)。

前記したように、同政権の発足とその政策はダイムラー・ベンツにレース活動の再開を可能とするだけの経営上の安定をもたらすことになった[114]。同社は挙国一致体制の下でナチス・ドイツに協力し、自動車レースにおいてはメルセデスチームの活躍は国威発揚のための宣伝に利用されることになる[128][W 58]。この期間、メルセデスチームのモータースポーツ活動は国家社会主義自動車軍団(NSKK)の管理下に置かれ[129]、同軍団の指導者であるアドルフ・ヒューンラインはほぼ全てのレースに姿を現した[129][130][注釈 58]

レース活動への介入

[編集]

「ドイツのレースでドイツ人がドイツの車両で優勝する」ことを求められたと考えられている1934年のアイフェルレンネン[注釈 59]のような例もいくつかあるものの[132]、基本的にはチームのレース活動そのものへの介入は大きなものではなかった[133]。ヒューンラインと彼の部下たちはメルセデスチームとアウトウニオンにあれこれと指図したが、レース中のそれは強制力を伴うものではなかったため、両チームはそれを無視することができたとされる[134][135]

第二次世界大戦開戦(1939年)の数年前からイギリスとは激しい対立があったにもかかわらず、イギリス人のリチャード・シーマンをドライバーに起用したり、母親がイギリス人のルドルフ・ウーレンハウトが在籍したりすることは問題視されなかった[133][注釈 60]。シーマンを加入させるにあたってダイムラー・ベンツはヒトラーに了承を求め、メルセデス・ベンツに甘いヒトラーはこれを許可した[136]。その後、外国人ながらメルセデス・ベンツを駆って活躍するシーマンはむしろヒトラーのお気に入りのドライバーとなった[W 71]。その一方で、アウトウニオンのアドルフ・ローゼンベルガーはユダヤ人であることから競技ライセンス発行が拒否されており[W 72]、レースチーム関係者だからといって常に例外的に寛容に扱われたわけでもなかった。

ナチス政権による資金援助

[編集]

ナチス・ドイツはメルセデスチームとアウトウニオンに対してそれぞれ年間22万5千ライヒスマルクの支援を行い、各レースで好成績に対して数万ライヒスマルクのボーナスを支給した[73][75][注釈 61]

賞金を合計しても年間50万ライヒスマルク程度であり、これは政府による交付金として考えれば多額であったが[128]、この額はダイムラー・ベンツがレース活動に費やしていた年間予算の1/10以下であり、それだけで活動を左右するほどの金額ではなかった[113][73][74][W 29][注釈 62]。そのことからノイバウアーはナチスの資金面の援助を「無いよりはまし」程度のものだったと自伝に記している[115]。それを引用する形でナチス政権からの直接の資金援助は微々たるものだったと結論づけられることが多いが、2000年代までの研究調査により、そうした支援金とは別にメルセデスチームのために年間100万マルク程度の追加援助をするよう、キッセルがNSKKのヒューンラインに要請していたことも明らかになっている[137]

チームの置かれた状況と評価

[編集]

米国ではナチスと同一視されたことから、1937年7月にヴァンダービルト杯フランス語版に出場するためにメルセデスチームがニューヨークで上陸した際はデモ隊の抗議にあい、陸揚げされたシルバーアローの車両には腐ったキャベツが投げ込まれた[138]

「シルバーアロー」時代のメルセデスチームはナチスとの関連によって語られることも多いが、この時代の活躍については、監督のノイバウアーの統率力、カラツィオラをはじめとする優れたドライバーたち、ハンス・ニベル、フリッツ・ナリンガー、ルドルフ・ウーレンハウトら並外れた技術陣があってこその成果であることは衆目の一致するところである[133][112]

最初のシルバーアロー「W25」(1934年 - 1936年)

[編集]
W25(1934年)
M25Eエンジン(1936年)
W25(1934年)とME25エンジン(1936年)

ワークスチームの活動再開を決定したダイムラー・ベンツはレース専用に設計した新型車両を開発し、完成した新型車メルセデス・ベンツ・W25後述の逸話から、後に最初の「シルバーアロー」として知られるようになる[75]

メルセデスチームは、初年度の1934年のグランプリシーズンは参戦開始当初こそトラブルもあったが、後半からはアウトウニオンと勝利を分け合い、1935年には他を圧倒し、この年にヨーロッパ・ドライバーズ選手権が掛けられていた7戦中5戦で優勝したルドルフ・カラツィオラがヨーロッパチャンピオンに輝いた[75][W 69]

W25の基本コンセプトと開発

[編集]

1933年初めに翌年に向けた新型レースカーの開発を承認したダイムラー・ベンツはその開発費用として250万ライヒスマルクの予算を認め、かつてのワークスドライバーの一人で当時は中央設計本部の本部長という要職にあったマックス・ザイラーを開発計画の責任者に据えた[124]。車両の開発は中央設計本部で行われ[139]、全般の責任者はハンス・ニベル、車体の設計はマックス・ヴァグナーに委ねられ、他の分野も1920年代以前からのベテランたちに担当が任された[73][124]

開発体制が固まった時点で1934年3月のシーズン開幕まで残り1年ほどとなっていたため、開幕に間に合わせることには固執せず、1914年フランスグランプリから20年後のレースとなることから、1934年7月のフランスグランプリ英語版に参戦することを当座の目標として定めて新型車の開発は進められた[73][75][W 73]

ベンツ出身のニベルは新型車を開発するにあたって、かつて自身が設計したトロップフェンワーゲンと同様、リアエンジン(リアミッドシップ)にすることも検討し、フロントエンジンとリアエンジンのどちらが有利となるか実験と検証を行った[124][注釈 63]。重量に与える影響では、リアエンジンであればドライブシャフトが不要なので軽量化が見込めると考えられていたが、実験の結果、それほど違いはなく、空力面でも差がないことが判明する[124]。また、重量物であるエンジンを車体前部に搭載することにはフロントタイヤの接地性で優位性があることも明らかとなる[124]。結局、当時の技術水準ではフロントエンジンのほうが総合的には有利であると判断し、ドライバーの慣れの要素なども考慮に入れた上で、フロントエンジン・リアドライブ(FR)というSSKL以前と同様のオーソドックスなレイアウトを新型車でも踏襲することにした[124]。エンジンレイアウトはオーソドックスなものとした一方で、足回りはベンツ以来の知見を取り入れて、四輪全てに独立懸架式サスペンションを採用した。これはダイムラー・ベンツが1933年2月に発表した量産車の380英語版(W22)から刺激を得たもので、フロントをダブルウィッシュボーン、リアをスイング式とした独立懸架式サスペンション、スーパーチャージャーを統合した直列8気筒エンジンという組み合わせは同車からの影響とされ、当時の同社の知識が結集された[140][W 73]

基本コンセプトが優れていたW25は2年目となる1935年には内部機構を大きく進歩させた上で継続使用され、上記のように初年度以上の活躍を見せることになる。

エンジンの開発はアルベルト・ヘスを中心としたチームが担当し、ヘスは1930年代を通じてメルセデス・ベンツのレース用車両のエンジンを手がけることとなる。1934年の完成時に搭載されていた直列8気筒のM25A(3,360cc)の時点でSSKLを上回る354馬力という高出力だったが[64][注釈 64]、ライバルであるアウトウニオンに対抗する必要が生じたことから、同年中に徐々に排気量の大きなエンジンに換装されていった[77][W 73][W 74][注釈 65]。2年目の1935年に開発されたM25Cエンジンでは排気量は4,310ccにまで拡大し、それに伴い出力も462馬力にまで増大した[77][W 73][W 75]。最終的に、1936年のME25エンジンでは排気量4,740ccとなり、最高出力は494馬力に到達した[W 73][W 76]

最初のドライバーたち

[編集]

ドライバーの人選は監督のノイバウアーが行い、1934年はブラウヒッチュ、ルイジ・ファジオーリ、カラツィオラの3名と契約した[113][注釈 66]。ブラウヒッチュは以前からプライベーターとしてSSKLを走らせていたことから、彼を起用することは順当で、起用は最初に決定した[113][141]。ファジオーリは既にキャリアの下り坂にあったが、ノイバウア―はブラウヒッチュが新人である上、彼の激しやすい性格も知っていたことから、すでに名声があり実力も安定しているファジオーリとの契約に至った[113][141][注釈 67]。そして、メルセデスの活動休止期間にチームから離れていたカラツィオラを呼び戻すことをノイバウアーは当然考えるが、カラツィオラは1933年のモナコグランプリ英語版で負った足の大怪我から回復できていなかったため、走行に耐えられるかテストした上での再起用となった[144][113][129][注釈 68]

1935年途中からはそれまでファジオーリのメカニックを務めていたヘルマン・ラングが適性を見出されてドライバーとなり、この3名に加わった[145]

「シルバーアロー」伝説の始まり(1934年)

[編集]

1934年6月3日、デビュー戦のアイフェルレンネンにあたって、レース前日にW25を計量したところ車重が規定より1㎏重いことが発覚し、削れる部品などないため、ナショナルカラーである白い塗装を剥がして1㎏軽量化して車検を通過し、銀色のアルミニウムボディがむき出しとなったW25がデビューレースを圧勝し、「シルバーアロー」の時代が始まった、という伝説的な逸話で知られる[W 4][W 5]。この年から銀色のメルセデス・ベンツとアウトウニオンのレーシングカーがヨーロッパ中のレースを席巻し、W25とその後継車両は「シルバーアロー」と呼ばれるようになり、その異名は轟くこととなった。

W25ショートカーの失敗(1936年)

[編集]
W25ショートカーのデビュー戦、1936年モナコグランプリ英語版。激しい雨となったこともあってカラツィオラが優勝した[W 77][注釈 69]

ダイムラー・ベンツの技術部長でW25の設計者であるニベルが1934年末に急死し[124]、技術部長としての地位はザイラーによって引き継がれた[W 78]

当時ダイムラー・ベンツの取締役で中央設計本部長という要職にあったザイラーは、レーシングカーの開発に専念することはできなかったため[147]、W25のさしあたりの開発は中央設計本部のエンジニアたちに任され、ベンツ時代からニベルの片腕を務めていたマックス・ヴァグナーが車体の設計を行うこととなる。1936年に向けて従来の直列8気筒エンジンに代えてV型12気筒(V12)エンジンを搭載することになり、軽量化を求められたことから、ホイールベースを短縮することでその要望に応え、W25ショートカーが製作された[147][注釈 70]。V12エンジンは大きすぎたことから搭載は見送られて、従来のM25Cエンジンの発展形である直列8気筒の「ME25エンジン」が搭載された[151][123][注釈 71]。出力の増大やホイールベースの短縮により、リアサスペンションを従来のW25のスイングアクスル式サスペンションのままにした場合、コーナーで接地性に難が出るため、W25ショートカーではリアのみド・ディオン式に改められた[152][注釈 72]

この車両は要望通り軽量化されたことに加え、空力的に洗練されたボディ形状に改良されていることが売りであったが、ステアリングの振動、車体の揺れや衝き上げがひどい、レース中にハンドリング特性が悪化していくといった不具合があり[154]、加えて、風の影響を受けやすく、ハンドリングが難しい車両になっていた[注釈 73]。こうして、1936年のメルセデスチームは車両の戦闘力不足に苦しめられ、シーズン途中で残りのレースへの参戦を中止し、体制の立て直しを図ることになる。

「レース部門」の設立とウーレンハウトの登場

[編集]

W25ショートカーの失敗を受けて、ダイムラー・ベンツは1936年半ばに参戦体制の見直しを図る[155]。ノイバウアーが率いるメルセデスチームの意見を車両開発に反映させやすくするため、レースチームと中央設計本部のエンジニアたちを直結した「レース部門」(Rennabteilung)が新たに設立された[156][139]。レース部門は組織系統としては車両テスト部門の責任者のフリッツ・ナリンガーの直下となり[157]、レース用車両の開発はレース部門が主導し、車両の開発、製造からテストまで担い、中央設計本部はそれに必要な支援を行うという形に体制が改められた[157][155]

レース部門の責任者には、この年30歳になる若いルドルフ・ウーレンハウトが抜擢され、結果的にこの人事はダイムラー・ベンツのレーシングカー開発の歴史においてひとつの転換点(ウーレンハウト時代の始まり)をもたらすことになったと評価されている[156]

レース部門はW25ショートカーの分析が最初の仕事となり[157]、1936年8月にカラツィオラとブラウヒッチュを招集してニュルブルクリンクでテストを行い、二人が日程を終えた後は、ウーレンハウトが自らW25のステアリングを握ってテスト走行を行った[154][注釈 74]。ウーレンハウトは自らテスト走行することによってドライバーたちが報告していた問題の原因を探り当て[154]、車体の剛性不足に根本的な原因があることを突き止めたことから、最終的には「新型車を開発したほうが良い」という結論をナリンガーとノイバウアーに報告することとなる。ウーレンハウトの指摘が正しかったことは翌年のW125の活躍で証明され、ノイバウアーはウーレンハウトに絶大な信頼を置くようになった[138]

ローゼマイヤーの台頭

[編集]

結果として、シルバーアロー時代の中でもこの1936年シーズンは最大のライバルであるアウトウニオンに対して競争力に欠けた年となり、この年のヨーロッパドライバーズチャンピオンはアウトウニオンのベルント・ローゼマイヤーの手に落ちた。この年のローゼマイヤーはデビュー2年目に過ぎなかったが、ノイバウアーは今後は彼がメルセデス・ベンツにとって最大のライバルとなると直感し、翌年から徹底的に心理戦を仕掛けていくことになる[138][134]

最強のグランプリカー「W125」(1937年)

[編集]
W125(1937年)
W125(1937年)

1936年シーズンをもって終了する予定だった「750㎏フォーミュラ」が1年延長されたことと、前年のW25ショートカーの失敗から、メルセデスチームは1937年シーズンのために新型車W125を用意した。ドライバーも補強を行い、チームとの折り合いの悪かったファジオーリに代えてリチャード・シーマンを採用して臨んだ。

この年は前年の雪辱を果たし、ヨーロッパ・ドライバーズ選手権が掛けられた5戦中3戦で優勝したカラツィオラが自身2度目となるヨーロッパチャンピオンを獲得し、残り2戦の内のモナコグランプリ英語版ではブラウヒッチュが優勝し、メルセデスチームとしては5戦4勝で圧勝となった。

W125の開発

[編集]

1934年に始まった「750㎏フォーミュラ」は元々の予定では1936年で終了し、1937年からは新しい車両規則が適用されるはずだった[158]。しかし、新規定の「3リッターフォーミュラ」の内容が1936年半ばを過ぎてもまとまらなかったことから、「750㎏フォーミュラ」は1年延長され1937年も使用されることになった[158]

1935年8月、車両試験部門のナリンガーはウーレンハウトによる報告からW25ショートカーの改善すべき点をまとめ、「車体剛性の向上」、「フロントサスペンションのストローク確保」、「リアサスペンションの前後振れの規制」[注釈 75]、「ホイールベースの延長」の4点を改善の骨子として、これを基にマックス・ヴァグナーが新たな車体を設計した[159][158][160][123][注釈 76]。車体の剛性確保のため、フレームは鋼管の断面形状を従来の箱型断面から楕円断面に変更し、材質もニッケルクロムモリブデン鋼に変更した[159][160]。この変更により捻じれ剛性はシャシーのみの状態で従来の3倍、エンジンを搭載した状態でも従来の2倍にまで強化された[159][160]

レース部門では1937年の新規定の導入が延期されるであろうことを技術陣は予想していたため、新規定車(W154)の設計と並行して、750㎏フォーミュラが延長された場合を想定した開発計画もあらかじめ温めていた[160]。W125は1937年の1年のみの使用となることを承知の上で開発されたわけだが、そこには、新規定向けに構想していたコンセプトを先行投入して実戦で実験することは無駄にはならないという計算も働いていた[158]

ナリンガーが立てた方針は正しく、W125ではW25ショートカーで起きていた不具合は発生しなくなった[160]

最強のM125エンジン

[編集]

この年のW125で何より特筆されるのはそのエンジン出力の大きさで、この車両に搭載されたスーパーチャージャー付き5,600cc・直列8気筒のM125エンジンは、1937年終盤には646馬力を発生した[64][160]。この馬力は1980年代のターボ時代のF1カーによって凌駕されるまで50年近くにわたって、グランプリカーとしては並ぶもののない高出力だった[151][W 81][注釈 77]

前年のME25エンジンでは中速域以上でアウトウニオンと勝負にならないことが明らかとなったことから[153]、1937年だけのためにこれほどの高出力エンジンが開発されるに至った。

W125はグランプリレースでの使用は1937年のみとなったが、その後はその高出力を活かしてヒルクライムレースに転用された(詳細は「#ヒルクライム」を参照)。

シーマンの加入

[編集]
シーマン

ノイバウアーは前年の不振の責任の一端はドライバーにもあると考えた[145]。円熟期にあったカラツィオラはともかく、ファジオーリは不服従な性格による問題や年齢による衰えがあったことに加えてリウマチによる不調を抱え退潮著しく、新人のラングはまだ経験不足だった[145]。ブラウヒッチュはピットからの指示に従わないことがあって信頼性に欠ける上に、たびたびカラツィオラと張り合ったり、労働者階級出身のラングを見下して無用の争いを起こしたりするところがあり、協調性の面でも問題を抱えていた[145]。このことから、ノイバウア―はドライバーの補強を考え、同年11月に見込みのある30名の新人をニュルブルクリンクに集めて大規模なオーディションを行い[注釈 78]、翌1937年に向けてチームとしては初のイギリス人ドライバーとなるリチャード・シーマン(ディック・シーマン)を獲得した[135]

ファジオーリはアウトウニオンに移籍し、1937年のメルセデスチームはシーマンを加えた新たなカルテットとなった[135]。シーマンは初年度こそ選手権開幕前に事故で負った怪我から不調となるが、シーマンはカラツィオラに似た速さと安定感を兼ね備えたドライビングテクニックを持っており、翌年度からは期待に応えて実力を示していくことになる[162]。また、副作用として、シーマンはイギリス人であることからドイツ社会の階層意識には頓着せずラングとも問題なく付き合い[W 51][注釈 79]、機転が利き冷静な性格でもあったことから、ブラウヒッチュとラングの喧嘩を仲裁するようになり、ドライバーたちの間にある程度の調和をもたらした[135]

ラングの躍進

[編集]

1935年と1936年の2年間でラングは目立った活躍をしないままであり、1937年シーズンを前にノイバウアーはドライバー契約の打ち切りを本人に示唆した[138]。それで発奮したのか、ラングはこの年5月のトリポリグランプリとアヴスレンネンを立て続けに優勝するという活躍を見せる[138]。その後、ラングのレースは再び落ち着きを見せるが、この活躍はチームのエースであるカラツィオラとブラウヒッチュを刺激し、その後、ラングはレースの内外で二人のチームメイトから対抗心を燃やされることとなった[138]

W154登場(1938年)

[編集]
1938年フランスグランプリ英語版。出走した3台のW154で易々と1-2-3フィニッシュを達成した。

1938年シーズンからAIACRは新規定を導入し、排気量に制限が課された。しかし、メルセデスチームの優位は前年と変わらず、シーズン開幕前の1月にアウトウニオンのローゼマイヤーが事故死したこともあって、この年のタイトルはカラツィオラが易々と連覇した。メルセデスチームとしては選手権のかかった4戦中3勝し、前年は不調だったシーマンが本領を発揮したこともあって、ランキングの1位から4位までを独占した[注釈 80]

W154(1938年型)の開発

[編集]

1934年から施行された「750kgフォーミュラ」規定で馬力を制限できなかったことへの反省から、AIACRは1937年からの新規定では排気量の制限を行い、自然吸気エンジンの場合は排気量は1,000㏄以上4,500㏄以下、過給機付きエンジンの場合は排気量は666cc以上3,000cc以下の範囲内とするよう定めた[155][133][112]。車重は排気量に応じて「最低重量」を定め、過給機付きの666㏄エンジンを搭載する場合は車重(乾燥重量)は400㎏以上、3,000ccエンジンを搭載する場合は800㎏以上とするよう定められ、チーム側にはその範囲内で開発の選択肢が与えられた[155][133][112]パワーウェイトレシオを考慮して、小排気量かつ軽量の車両にするという選択肢もあったが、メルセデスチームは迷わず過給機付きの大排気量エンジンを選択し、スーパーチャージャー付きの3,000ccのV12エンジンを製作することにした[155][133][注釈 81]

新規定は元々は1937年から導入される予定だったため、W154の設計は1938年シーズン開幕の1年以上前の1937年3月18日には完成していた[133]。実質的にW154の派生型であるW125は同じ3月に車体が完成し[注釈 82]、その完成から3ヶ月ほど経ってW125の開発が一段落ついたあたりから、W154の本格的な開発が進められた[165]。上述のV12エンジン、M154エンジンは1938年2月7日に初始動し[133]、3月中旬に完成したW154第1号車に搭載されてテスト走行が始められた[166]

選手権が始まるとすぐに高い戦闘力を発揮したが、完成初年度ということもあって様々な開発が試され、ボディ形状や装備はたびたび変更された。

最後のシーズン(1939年)

[編集]
1939年ベオグラードGP英語版。9月3日に開催されたこのレースはチームにとって1930年代最後のレースとなった。

1939年シーズンは6月のベルギーグランプリでシーマンが事故死するという不幸はあったが、チーム自体は前年と同様に圧倒的な力を示し、選手権の4戦中3勝を収めた。

この年は才能を開花させたヘルマン・ラングがチームのエースの座を実質的にカラツィオラから奪う活躍を見せた。ラングはヨーロッパドライバーズ選手権において8月のスイスグランプリまでの4戦中2勝を収めたが、9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったことによってAIACRはこの年の選手権を打ち切った[135]

AIACRはこの年はヨーロッパチャンピオンの称号を誰にも授与しなかったが[W 82]、1938年以前のポイント換算方法に沿うなら、第4戦の終了時点で、1位はアウトウニオンのヘルマン・パウル・ミューラーということになる。ラングは2位となるが、NSKKは独自にラングをヨーロッパチャンピオンと認定した(AIACRは認定していないので、これは非公式なものである)。

中止されたグランプリレースは第二次世界大戦の終戦後の1946年まで再開されることはなく、1934年から1939年まで6年間に渡って続いたメルセデスチームの黄金時代はその幕を閉じた[167]

W154(1939年型)の開発

[編集]
W154(1938年型)
W154(1938年型)
W154(1939年型)
W154(1939年型)
インテークの形状をはじめ、異なる外観を有している。

1939年型のW154のほとんどは1938年型のW154を改装(コンバート)する形で製作され、最初から1939年型として新造されたのは1台のみである[168]。1939年型ではボディの空力が大きく見直されたことと、ブレーキもより強力なものに変更されたため、1938年型とは異なる外観を持つことになり、一見すると前年型の改装には見えない車両となった[169][注釈 83]

1938年のM154エンジンは燃費が劣悪であったことから、エンジンは1940年も使用することを想定してM163エンジンが新規に開発された。一方で、前年のM154エンジンには従来は並列1ステージで使用されていたルーツ式スーパーチャージャーを直列2ステージにすることで強化し、これが高い性能を発揮したことから、1939年は新型のM163エンジンと旧型のM154エンジンの両方が使い分けられてW154に搭載された[169]。フランスグランプリ(ランス)で投入されたエンジンはW154としては最大となる483馬力の出力を発生した[W 82]

燃費の悪さはM163エンジンでも解決できなかったため、燃料タンクを1938年型の75ガロン(340リットル)から88ガロン(400リットル)に増すことで、劣悪な燃費に対処した[169]

シーマンの死

[編集]

6月に開催されたベルギーグランプリ英語版で、雨の中、リチャード・シーマンの駆るW154がクラッシュ、炎上し、シーマンは死去した。

「シルバーアロー」になって以降のメルセデスチームにとっては初のレース中の事故死者であり、シーマンはノイバウアーら関係者からその後も長くその死を悼まれることとなる[170]

1.5リッターカー「W165」(1939年)

[編集]
W165(1984年デモ走行)
来年、ドイツ人たちをスクーターで参戦させたとしても、それでも彼らは勝つだろう。[171]

イタロ・バルボ(リビア総督。1939年トリポリグランプリ)

数年に渡って続いているメルセデスとアウトウニオンの圧勝に業を煮やしたイタリア勢はドイツチームの締め出しを図り、イタリアで開催されるグランプリレースに参戦できる車両を1939年からは(ドイツ勢が持っていない)1.5リッターエンジンの車両のみにするという規則を作った[W 83]。これにかえって奮起したメルセデスチームは、1939年に向けて1.5リッター車を密かに開発して対抗した[163]

1939年5月に開催されたトリポリグランプリ英語版でメルセデスチームは1.5リッターの新型車「W165」をデビューさせ、このことはイタリア勢を驚愕させた[163]。そして、投入された2台のW165はラングとカラツィオラに駆られてレースを完全に支配した[172][173]。ノイバウアーはイタリア勢を完全に粉砕することを目論み、予選では手の内を晒さずイタリア勢にポールポジションを獲らせて安心させておいて、決勝レースでは完膚なきまでに圧倒し、ラングが難なく優勝し、2位のカラツィオラも3位のアルファロメオを5分以上引き離す大差を付けて1-2フィニッシュを飾った[172][173][W 83]

同車は9月に開催されるはずだったイタリアグランプリ以降も使用される予定だったが、9月初めにドイツが開戦したことによってシーズンは途中で終了となり、結果的にこの車両がレースに参戦したのはトリポリグランプリの1戦のみとなった。

W165の開発経緯

[編集]

1938年9月のイタリアグランプリが終わった頃、同年の選手権や非選手権の主だったレースがことごとくドイツ勢に席巻され、イタリア勢がグランプリで1勝もできずに終わったことから[注釈 84]、9月11日、イタリアのスポーツ委員会は1939年以降のイタリア国内におけるレースに出場する車両の排気量を1,500㏄以下に制限することを決定した[163][126][W 58]。自動車好きの多いイタリアにおけるレースで良い印象を残すことは直接的な販売につながるかということに留まらない影響があるものであり、メルセデスチームとしては欠場すれば大きな痛手となるものであった[175]。また、その決定は当時「世界で最もグラマラスなグランプリ」と呼ばれていたトリポリグランプリに出場できなくなることも意味していた[175][注釈 85]

決定から開催まで8か月しかなく、通常であれば規定に合うレースカーの開発は不可能であり、ドイツ勢にとっては寝耳に水のこの決定はノイバウアーを憤激させた[126]。報告とともに新車両を開発するよう要請を受けたマックス・ザイラーは期間の短さに躊躇し、一度は却下したが、1938年9月15日、レース部門の技術者たちを前に「イタリア勢に締め出されて、このまま引き下がる手はない」と鼓舞し、極秘裏に開発が始められた[175]

時間的な制約から、車体は1938年型W154のレイアウトや機構を踏襲し、同車の縮小版として開発された[176]

規則で定められた「1,500ccエンジン」は新たに開発する必要があったが、この時もアルベルト・ヘスのチームが辣腕を振るい、DOHCで1気筒あたり4バルブを採用したV型8気筒のスーパーチャージャー付きエンジンであるM164エンジンを完成させた[W 84]。出力は254馬力だが、車重は燃料を満タンにしてもわずか905㎏であることから、充分すぎる性能だった[W 83]。W154に先んじて5速のトランスミッションが投入され、レースではラング車をエース格として、ギア比を高くし、トリポリに合った高速走行向きのセッティングとし、カラツィオラにはサポートを任せ、ギア比を低くして加速が良いようにして、両名のピット戦略を分けることで万全を期した[163][W 83][注釈 86]

「シルバーアロー」のその後

[編集]
W154の6号車(車体番号189436/6)[178]。この個体は戦時中はポーランドに疎開され、戦後にベルギーで発見された。フランスの自動車収集家シュルンプ兄弟英語版の手に渡った時にはボディの大部分は既に失われてしまっていた[179]

1939年9月に始まったポーランド侵攻により、ドイツは当初優勢に見えたが、ノイバウアーはレース転戦で培った国際感覚と持ち前の直観から、このまま戦況が推移すればドイツも無傷では済まないと考えた[180]。特に、ドイツ有数の軍需企業でもあるダイムラー・ベンツの工場はいずれ空襲にあう恐れがあると考えたことから、レーシングカーの疎開を計画する[180]。レース再開に備えて1939年時点で現役で使用していたグランプリカーのW154とW165、ヒルクライム仕様のW125の避難を優先させ、同型車を2台ずつペアにして、ルーマニア、チェコ、ポーランド等の東欧諸国に送り、密かに隠した[181]

その後、ノイバウアーが抱いた不安は現実になり、シュトゥットガルトは戦火に焼かれ、ダイムラー・ベンツのウンターテュルクハイム工場(本社工場)は戦時中にその施設のおよそ80%を失うこととなった[175]

車両を速やかに疎開させたノイバウアーだったが、ノイバウアーにも予測できなかったことが2つあった[180]。ひとつはヨーロッパにおける戦争はフランス方面(西部戦線)が中心となると考えたことであり、もうひとつは、開戦当初のドイツ軍の優勢から、戦争は短期で終結すると考えたことである[180]。これらの予想は外れ、1941年にドイツは独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦も敵に回して戦争(独ソ戦)を始め[注釈 87]、疎開先の東欧諸国が4年に渡って戦場となったことから、多くの車両が破壊されたり、東側諸国に奪われたり、行方不明となったりするという憂き目にあう[181]

疎開先の東欧諸国は戦後はソビエト連邦の勢力圏となったため、鉄のカーテンに阻まれて消息を追うことも困難となった[181]。運良く発見された車両も、戦利品とみなされたためか、ダイムラー・ベンツに返却されることはなく、発見された車両のほとんどはコレクターの手に渡っていった[181][注釈 88]

ドライバーたちのその後

[編集]

メルセデスチーム所属のドライバーたちは多かれ少なかれレース中の事故で怪我を負っていたことから、ブラウヒッチュとラングは兵役不合格となり、戦争が始まっても従軍することはなかった[184]

カラツィオラは1933年の事故で負った怪我により足が不自由であり、戦時中は1920年代から居住していたスイスで隠居生活を送った[184]。資産のほとんどをドイツに置いていたカラツィオラは資産の国外持ち出し禁止措置を受けることになり途方に暮れるが、ダイムラー・ベンツの取締役会会長であるキッセルはカラツィオラをダイムラー・ベンツの社員扱いとし、重役待遇の年金を送り続けることでそれまでの貢献に報いた[131]。一方、ナチス政権下のドイツ政府は戦時下に国外に住んでいるカラツィオラに支出することを問題視し[注釈 89]、NSKKは1942年4月にダイムラー・ベンツに対して支払い停止命令を出した[131]。ノイバウアーはカラツィオラが戦前に文字通り命がけでドイツに貢献したことを主張して命令の撤回を求めたが、抗議が聞き入れられることはなかった[184]

ドイツが敗戦すると、戦前のレース活動でナチス政権に協力していたことを咎められ、ドライバーや一部の関係者たちは連合国によって数週間から数か月に渡って拘束されて調査を受けることになるが、協力者として罰せられた者はいなかった[184]

フォーミュラ1

[編集]

1950年に始まったフォーミュラ1(F1)には1950年代に1954年1955年の2年間のみ参戦し(→#シルバーアローの復活)、その後、1994年にエンジンサプライヤーとして復帰した(→#エンジンサプライヤー)。2010年にワークスチームが新たに設立され、参戦を続けている(→#現在のファクトリーチーム)。

1950年代は参戦した2年弱の期間でF1を席巻し、2010年に設立されたワークスチームも最初の3年こそ低調な活躍に留まったものの、2014年から2021年にかけてコンストラクターズタイトルを制覇し続けた。

F1において、エントリー名は時期によって異なるが、コンストラクター(製造者)としての名称は一貫して「メルセデス」(Mercedes)が用いられている。

シルバーアローの復活(1954年 - 1955年)

[編集]

第二次世界大戦後、メルセデスチームは再結成され、1954年からF1に参戦した。戦前と同じく監督ノイバウアー、開発ウーレンハウトという体制となり、F1用に開発したW196(W196R)を擁して、7月の第4戦フランスグランプリでF1に初参戦する。ドライバーは1951年のチャンピオンだったファン・マヌエル・ファンジオがシーズン途中にマセラティから移籍し、カール・クリングハンス・ヘルマンを加えた3名で初年度に臨む。

デビューレースでメルセデスはファンジオとクリングの1-2フィニッシュと、ヘルマンのファステストラップという手早い成功を収めた。このデビューレースを含め、ファンジオは同年にメルセデスで参戦した6戦中4勝を挙げ、1954年のチャンピオンを獲得した[注釈 91]。2位のフロイラン・ゴンザレス(フェラーリ、25.14ポイント)に対しては大差であり、メルセデスで獲得したポイントだけでもチャンピオンの獲得には充分なものだった[W 85]

同じ車両を使った1955年シーズンも成功は続いた。この年は若きスターリング・モスが加わり、前年に圧勝こそしたものの熟成不足な部分も多かったW196に修正を加えて挑み[187][188]、ファンジオとモスで参戦した6戦中5勝を挙げ、シリーズランキング1位と2位を占めた[注釈 92]

しかし、レース活動に費やしていた予算と人員があまりにも大きな負担となっていたことから、1955年限りでレース活動から手を引いた。(→撤退

F1参戦に至る経緯

[編集]

空爆により工場施設を失ったダイムラー・ベンツだったが、1949年までには多くの施設を再建し、1950年にレース部門を再設置した[189]

戦後にAIACRを改組する形で設立された国際自動車連盟(FIA)はこの1950年から新たなグランプリレースとしてフォーミュラ1世界選手権を始めており、これは1.5リッターフォーミュラであったことから、ダイムラー・ベンツは当初、W165をアップデートして1951年から参戦することを目論んだ[175][W 84]。しかし、FIAの下部組織でF1を統括していた国際スポーツ委員会(CSI。FISA英語版の前身)は、1952年までは新規開発車の参戦を禁止する[175]。これは戦後復興の中にあった自動車メーカーに負担をかけないようにするためのものだったが、戦前のままのW165では、1940年代も車両の開発を進めたアルファロメオなどのライバルに対抗することはできなかったため[W 84]、ダイムラー・ベンツはグランプリにすぐに復帰することは不可能となった[175][注釈 93]

ノイバウアーは1952年から参戦できるようにできないか、CSIに要望もしたが、フランス勢とイタリア勢の反対によりこれは却下され[190]、F1への参戦は新規定が始まる1954年まで待つことを余儀なくされた[189]

そうした事情もあって、1951年6月に開かれた取締役会では、そもそもレース専用車両を開発しなくてもいいのではないかという意見が出され、スポーツカーレースにまず参戦するという方針となった[189][W 86]。(→#300SL(W194)

W196の開発

[編集]

W196の開発は戦前のシルバーアローと同じく、ナリンガーとウーレンハウトの指揮の下で行われた[W 87]。ダイムラー・ベンツ社内の最新技術を惜しげもなく投入した結果、1930年代と同じく、当時のライバルたちに比べて若干「過剰な」性能を持つ車両となったが、自然吸気エンジンとしたため、過給エンジンだった1930年代の車両と比べて、W196は制御のしやすい車に仕上がった[W 87]

  • M196エンジン
    M196エンジン。垂直に立っておらず、右側に35度倒した状態で搭載されている[191][W 88]。吸気管は吸気口から直線状になっているほうが吸気効率が良いことが判明したため、形状が変更された[192](画像左上)。W196のボンネットの特徴的な吸気用バルジはこの変更に伴い追加されたものである[193][194](試作車や1954年の初期型には付いていない)。
1954年シーズンから施行されるF1の新たな技術規則において、エンジンは自然吸気の場合は排気量は2,500cc以下、スーパーチャージャー付きエンジンの場合は排気量は750㏄以下と定められていた。1930年代まではメルセデス・ベンツ車両ではスーパーチャージャー搭載エンジンを使っていたが、750㏄ではトルクが細くなりすぎ、ドライバーが扱いにくくなると判断し、F1参戦にあたっては2,500ccの自然吸気エンジンを選択した[195][196]。エンジン形式はW125以前と同じ直列8気筒になっているが、これも再検討の結果、そう決まったものである。2,500ccという排気量の容積効率を高める方法として、バルブ効率を上げる方向から検討され気筒数を多くすることが決まり、8気筒エンジンが採用される[197]。さらに、1930年代末にレース用V型エンジンを開発した時の知見から、V型8気筒では構造が複雑化し重量も増えてしまうことが明らかだったため、直列8気筒のエンジンに落ち着いた、という経緯である[197]
ウンターテュルクハイムの技術陣は腕を振るい、バルブ効率をさらに高めるため、吸排気弁の制御に各バルブを強制的に開閉できる「デスモドロミック・バルブギア」を導入した[197][198]。また、航空機エンジンの技術が応用され、M196エンジンではガソリンをシリンダーに直接噴射する「燃料直接噴射方式」(直噴)が採用された[191]。直噴の燃料噴射装置ボッシュ製で[198]、この直噴方式の採用により、従来のキャブレター方式と比較して、出力は10%向上した上、燃費性能も従来より向上した[191]
完成したM196エンジンは1954年時点で256馬力を発生し、これは当時のどのライバルより20馬力は高い出力だった[191][198]。開発段階では、1958年末までに300馬力以上を達成する5か年計画が立てられていた[198]。1954年途中からボンネット右側に特徴的な吸気用バルジが追加されるなどして、吸気効率が改善され、1955年の時点で最終的に出力は290馬力まで到達した[194]
ライバルのほとんどが4段のトランスミッションを使用していたのに対し、このエンジンは5段のトランスミッションと組み合わされ[199]、その出力は加速からトップスピードまで遺憾なく引き出された。
  • 車体
シャシーの構造はスポーツカーの300SL英語版(W194)で効果を実証済みのスペースフレーム構造を採用し、軽量かつ高い剛性を持つ車体を実現した[200]
エンジンを右に傾けて搭載しているため、プロペラシャフトは車体の左側を通ることになり、これにより、シート位置はプロペラシャフトの位置を気にすることなく低く設置することが可能となり、重心を低くすることができた[191][注釈 94]
サスペンションは1930年代の車両ではリアをドディオン式としていたが、これは1950年代初めには一般的になっていたため、そこからさらに進めてホイールハブ側を車軸下部の一点のみで保持するシングルピボットのスイングアクスル方式を新たに採用した[191][W 87]
1955年は車体はホイールベースの長短が異なるものや、ブレーキの仕様が異なるものが用意され、様々な仕様が生み出されサーキットに応じて使い分けられた[195][201]。これらは同じ仕様であってもドライバーの好みやドライビングスタイルによって適否が異なっていたため、ドライバーの選択にも委ねられた。
  • ボディ
    W196Rストリームライナー
    W196Rストリームライナー
    オープンホイール仕様(3リッター車)
    オープンホイール仕様(3リッター車)[注釈 95]
高速サーキット向けに前後の車輪を覆ったストリームライナー形式のボディと、コーナーの多い中低速サーキット向けに車輪が見えて操縦のしやすいオープンホイール形式のボディが考案され、どちらも開発が行われた[203]。開発段階で、1954年1月の開幕戦に間に合わせることは不可能で、デビューは7月初めに高速サーキットのランスで開催されるフランスグランプリになると考えられていたため、開発はストリームライナーのボディを優先して進められた[203]
ストリームライナー仕様は重量面の不利もあったが、オープンホイール仕様で時速158㎞しか出せないような直線で、時速175㎞を出すことができるという優位性もあり、開発段階では両者のボディには一長一短あるものの、戦力的な違いは大きくないと考えられていた[203]。フランスグランプリは目論見通りストリームライナー仕様で圧勝したものの、次のイギリスグランプリにはオープンホイール仕様が間に合わず、表彰台にも立てずに終わる[204]。テストの結果から、ストリームライナー仕様の欠点の大きさが認識され、高速サーキットでも必ずしも利点ばかりではないことも明らかとなり[注釈 96]、以降はオープンホイール仕様のボディに開発の重点が置かれるようになった[205]

ファンジオとモスの起用

[編集]
  • ファンジオの起用(1954年)

1950年にメルセデスチームが活動を再開した際、1951年初めのブエノスアイレスグランプリ英語版に参戦するため、アルゼンチンに遠征する計画が持ち上がった[206][190]。このために用意されたのはW154で、戦時中はウンターテュルクハイムに保管されていた古い2台と、疎開中に行方不明になりベルリンの中古車販売店で偶然発見された2台を使って組み立てられたものだった[190]。この車両の出来はかつての栄光とは程遠いもので、練習走行に参加したカラツィオラはこの車両によるレース参戦を拒否した[206][190]

そこでカラツィオラの代役として白羽の矢が立てられたのがファンジオで、こうしてメルセデスチームとファンジオの間に縁ができた[190]

1954年のメルセデスチームのF1復帰にあたって、チームへの加入を打診されたファンジオは、その時点では車の戦闘力が不明だったため、申し出を受けることを躊躇したが、ノイバウアーが様々な説得工作を駆使して口説き落としたとされる[190][W 87]

私の見立てでは、勝利の要因の75%は車とそれを支えるチームに帰するもので、残りの25%はドライバーと運の要素によって占められている。(レースキャリアで)最高のチームはメルセデスだった。技術的に極めて卓越した彼らのためにレースをしている間、私は何の懸念も抱くことはなかった。彼らの車は全く壊れなかった。それが私が1954年と1955年にメルセデスのために走った12戦中8回の優勝を成し遂げた要因だ。[207]

—ファン・マヌエル・ファンジオ

  • モスの起用(1955年)

1954年シーズンは圧勝こそしたものの、ノイバウアーはドライバーのラインナップには改善が必要だと判断した[185][208]。ラングは年齢とブランクによる衰えが大きく、クリング、ヘルマンもファンジオに比べると実力差があり[205]、ファンジオにトラブルが発生した際にフォローできるドライバーがいないという問題を抱えていた[185]

スターリング・モスは1954年にマセラティで走っており、新人ながらイタリアグランプリでメルセデスをリードする印象的な走りを見せ、これによりノイバウアーの目に留まり[190]、ファンジオをサポートするセカンドドライバーとして契約するに至った[208][205][注釈 97]。モスは期待に応え、F1でもファンジオに近い位置を走り、ナンバー2としての役目を果たした[185]

モスの加入後、1955年6月に開催されたル・マン24時間レースでおきた事故はジャガーのマイク・ホーソーンと絡んで起きたものであるため、事故後、イギリスではメルセデスチームへの風当たりが強くなっていたが、イギリス人のモスの存在はチームにとって大きな助けとなった。

メルセデスの優秀性は、組織面でのアルフレート・ノイバウアー、メカニックの面でのルドルフ・ウーレンハウトに負うところが大きかった。ノイバウアーの前でミスは許されなかった。もし、ミスしようものなら、もうその辺をうろつくことはできなかった。お役目ごめんとなるからだ。[209]

—スターリング・モス

レントランスポーター

[編集]
レントランスポーター(複製)。「ブルーワンダー」と呼ばれた[W 89]

チームの配慮は車両の輸送の面にも及び、最高時速170㎞で走行可能なレントランスポーターフランス語版(レーシングカートランスポーター[W 90])が開発された[W 88][W 87][注釈 98]

車両や機材の運搬は通常はトラックで行われたが、レースで破損した車両を次のレースまでに修復できるようシュトゥットガルトの本社に迅速に送り届けるためであるとか、練習走行で車両がクラッシュした際に新しい車両を本社からサーキットに送り届けるためといった、短時間で車両を送り届ける必要がある際にこのレントランスポーターが活用された[W 88]。この車両のエンジンは300SL(W194)のそれを流用したもので[W 88][W 90]、その速度は当時の市販スポーツカーのポルシェ356)に匹敵する速さだった[W 87]

この車両は1954年に1台のみ製造され、1955年シーズンにF1のW196Rやスポーツカーの300SLRの運搬に使用された[W 88][注釈 99]

撤退(1955年)

[編集]
レーシング・チームを維持している高額の費用はレース優勝の宣伝価値と全然釣り合わなかった。設計陣も技術陣も整備陣も毎日の(市販車の)生産の機械的活動からもはや外せないのである。[212]

—アルフレート・ノイバウアー

ダイムラー・ベンツは1955年限りでサーキットにおけるモータースポーツ活動から撤退した[W 86]

撤退の理由として1955年のル・マン24時間レースの事故が原因だと言われることがよくあるが[213]、1955年限りでF1から撤退するという決定はル・マン前に下されていた[201][214][W 86][W 91]

これはダイムラー・ベンツの完璧主義により、シュトゥットガルトの本社ではF1用車両とレーシングスポーツカーの開発に500人体制で当たっており、金銭的な負担も莫大なものになっていたためである[212][201][W 86]。人員面でも腕の立つ者ほどレーシングカー開発に忙殺され、市販車の開発リソースを圧迫していた[201]。開発体制を縮小して参戦を継続するという方法も採り得たが、中途半端な形でレース参戦を続けるよりは撤退したほうがメルセデス・ベンツの名に傷がつかないという判断があった[201]

この撤退により、ノイバウアーは引退し、ウーレンハウトもレーシングカーを開発することはなくなった。ダイムラー・ベンツはその後もプライベーターを支援する形でラリーは続けたが(→#ラリー)、サーキットレースからは離れ、復帰は30年後の1980年代のこととなる(→#グループC)。

エンジンサプライヤー(1994年 - 現在)

[編集]

1955年にF1から撤退したメルセデス・ベンツはそれから40年近く経った1994年に、エンジンのサプライヤーという形でF1に復帰した。

メルセデス・ベンツは1994年からF1チームにエンジンを供給し、F1の技術規則の変遷に伴い、1994年から2005年にかけてV型10気筒(V10)自然吸気(NA)エンジンを、2006年から2013年にかけてV型8気筒(V8)自然吸気エンジンを供給し、2014年からはV型6気筒(V6)ターボエンジンにハイブリッドシステムを組み合わせたパワーユニット(PU)を供給している。2008年までは1チームのみにエンジンを供給していたが、2009年以降は複数チームに供給を行っている。

F1用エンジンの開発と製造は当初はイギリスのイルモア・エンジニアリングが手掛けていた。ダイムラーは1993年から同社と資本関係を結び、F1エンジン開発部門は2002年以降はダイムラーの子会社となり傘下に置かれている(時系列による経緯は「沿革」の#1993年以降を参照)。2023年現在、エンジン開発はメルセデスAMG・ハイパフォーマンス・パワートレインズ社が、かつてのイルモア時代と同様、イギリスのブリックスワース英語版で担っている[W 92]

F1復帰に至る経緯

[編集]
ペーター・ザウバー

1988年にワークス活動を再開し、ザウバーとともにスポーツカー世界選手権を戦っていたメルセデス・ベンツ社[注釈 100]だったが、F1への復帰は公式には否定していた。F1に参戦しない理由として、もしF1ですぐに勝てたとすればそれなりに評価されるかもしれないが、もしすぐに勝てなければそれは失敗とみなされることになり、メルセデス・ベンツにとっては得るものより失うもののほうが大きい(から参戦しない)、という説明がされていた[215][W 93]

表向きはF1参戦を否定しつつも、メルセデス・ベンツはF1参戦に向けた準備をザウバーと共に密かに進めていた[216][注釈 101]。この計画は1991年にはF1の現役デザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイトマイク・ガスコインらを迎え、150名のエンジニアを擁して車体とエンジンの開発を行うほどに進展した[217][216][注釈 102]。メルセデス・ベンツ側では当初はF1車両にグループC用に開発していた180度V型12気筒エンジン(M291エンジン)の搭載を計画していたが[注釈 103]、ポスルスウェイトは車体後部の設計を著しく制限することになるこのエンジンの使用に反対し、コスワースのV8エンジンイルモアのV10エンジンを搭載するよう勧めた[120][217][注釈 104]。これにより、メルセデス・ベンツはイルモアとの提携に向かうことになった[217][注釈 105]

ザウバーにおける準備は順調に進捗し、1991年12月にF1参戦を発表する予定だったが、その直前に事態が急転する。当時ダイムラー・ベンツ傘下だったAEGの経営悪化により、グループ全体で数千人規模の人員解雇をせざるを得ないほど厳しい状況に陥ったため、同年11月28日、メルセデス・ベンツ社社長のヴェルナー・ニーファーは「F1参戦しない」ことを声明した[219][216][注釈 106]

この決定によりメルセデス・ベンツから出向していた技術者たちやポスルスウェイトは去っていったが、ザウバーの経営者であるペーター・ザウバーはF1参戦をあきらめず、ザウバー単独でプライベーターとして参戦する計画を進める[注釈 107]。他方、メルセデス・ベンツ社では、参戦発表をする土壇場に親会社のダイムラー・ベンツの意向で決定された計画白紙化への反発から、モータースポーツ部門の責任者(レースディレクター)だったヨッヘン・ニアパッシュは同社を去り、ノルベルト・ハウグが後任となる[216]。メルセデス・ベンツはザウバーと結んでいた長期契約を尊重して資金提供を行うことでザウバーのF1参戦を支援し[221][216]、同時に、ハウグはザウバーのためのスポンサー探しに奔走した[216][注釈 108]

そうして、ザウバーは1993年にF1初参戦にこぎつけた。ザウバーが発表したF1車両の「C12」はイルモアのエンジンを搭載したが、そのエンジンカバーには「Concept by Mercedes-Benz」の文字が掲げられ、その背景は特に説明されなかったため、憶測を呼ぶことになる[216]

ザウバー(1994年)

[編集]
ザウバー・C13(1994年)
ザウバー・C13(1994年)

1994年、メルセデス・ベンツはザウバーにエンジンを供給する形でF1に復帰した[W 5]

ザウバーが使用するエンジンの開発と製造は前年に引き続きイルモアが手掛けたが、この年からはメルセデス・ベンツ社が正式にイルモアに開発と製造を依頼する形となり、バッジネームは「メルセデス」に改められた[222]。シーズン序盤のサンマリノグランプリにおけるローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナの死により、同年のF1では安全性向上のための規則改正が相次ぎ、その変更への対応に苦慮したこともあってザウバーの成績は振るわず[218]、わずか12ポイントしか獲得できず、ランキングは前年を下回る8位となった[223]

マクラーレン(1995年 - 2014年)

[編集]

1995年、メルセデス・ベンツは長年を共にしたザウバーと別れ、当時のトップチームのひとつであるマクラーレンと提携し、エンジンの供給を開始した。ザウバーはマーケティング面が弱く、資金面で難があったため、その点が堅固だったマクラーレンと組んだという経緯である[218]

当初のマクラーレンは低迷期にあったが、供給開始から4年目の1998年に「マクラーレン・メルセデス」はコンストラクター選手権(製造者部門の選手権)とドライバー選手権の両方で年間タイトルを獲得し、以降10年以上に渡って、ほぼ毎年に渡り選手権で上位を争い、強豪の一角として活躍した。マクラーレンへのエンジン供給は2014年まで20年間に渡って続き、一時はダイムラー(ダイムラークライスラー)がマクラーレン・グループ英語版と資本関係を結び、共同開発車のSLRマクラーレンを市販するまでに提携関係が進展した。

  • マクラーレン・メルセデスの始まり(1995年 - 1996年)
1995年はルノーエンジンを擁するベネトンウィリアムズがシーズンを支配し、両チームはそれぞれ100ポイント以上を獲得した。マクラーレン・メルセデスはこの年に30ポイント(ランキング4位)を獲得したが、これはランキング3位のフェラーリと比較しても半分以下のポイントで、上位3チームからは大きく離され、ビッグネーム同士の組み合わせで期待された初年度だったが、期待外れな結果となった[224][225]。翌1996年は前年は2回のみだった表彰台フィニッシュは6回記録するまでに増えたが、この年も上位3チームには及ばず、コンビを組んだ最初の2年間は目立った成果なく終わった[226]
  • 「シルバーアロー」の復活(1997年)とハッキネンの連覇(1998年 - 1999年)
マクラーレン・MP4-12
メルセデス・ベンツ・FO110Gエンジン
マクラーレン・MP4-12(1997年)とメルセデス・ベンツ・FO110Gエンジン(1998年)
それまでマクラーレンのメインスポンサーだったマールボロが1996年限りでチームを去り、1997年のマクラーレンは銀色のカラーリングをまとった[227]。その色は必然的に「シルバーアロー」を想起させ、以降、マクラーレンにもこのニックネームが使われるようになる[W 96]
1997年の開幕戦では、デビッド・クルサードがマクラーレン・メルセデスにとって初となる優勝をもたらした[227]。この優勝はマクラーレンにとって1993年最終戦以来4年ぶり、メルセデス・ベンツにとってはF1では1955年イタリアGPのファンジオ以来42年ぶりとなる、重要な勝利となった[228]。過去2年と同様、このシーズンも3強チームには届かず、コンストラクターズ選手権4位に終わったものの、伸長著しく、開幕戦を含めて3勝を記録した。上位走行中にエンジントラブルによって落としたレースも複数回あったものの、エンジンは出力の点で他メーカーに対して圧倒的な優位を築くに至り[229][230]、翌年の活躍を期待させるシーズンとなった。
ハッキネン
期待は現実となり、1998年、マクラーレンはエイドリアン・ニューウェイが設計した「MP4-13」を擁して勝利を重ね、ミカ・ハッキネンがドライバーズ選手権を制し、コンストラクターズ選手権はフェラーリとの争いを制してタイトルを獲得した[227]翌シーズンはコンストラクターズ選手権ではフェラーリに4ポイント及ばず連覇を逃したものの、ハッキネンはドライバーズタイトルを連覇した。
  • シューマッハとフェラーリの隆盛(2000年 - 2004年)
ハッキネンの三連覇がかかった2000年は前年の骨折から復帰したミハエル・シューマッハとフェラーリが強力なライバルとなり、タイトル争いはシーズン終盤までもつれたが、両選手権とも2位に終わる。
2001年からはシューマッハとフェラーリが他チームを圧倒した。マクラーレンでは、2001年限りでハッキネンはF1から引退し、同じフィンランド人のキミ・ライコネンが後任となる。2002年から2006年にかけての5年間は、マクラーレン・メルセデスは常に上位を争う位置にいるチームではあったものの、タイトル獲得には手が届かないシーズンを送る。
レギュレーション変更によりフェラーリが低迷した2005年はライコネンがルノーフェルナンド・アロンソとタイトルを争ったが、マクラーレン・MP4-20は速さにおいて優れていたものの信頼性で劣っていたことから、僅差で両タイトルを逃した。
2006年は新規則のV8エンジン規定にエンジン、車体(MP4-21)ともにうまく対応できず、1996年以来となるシーズン未勝利に終わった。
  • ハミルトン時代(2007年 - 2012年)
ルイス・ハミルトン
マクラーレン・MP4-23
ハミルトンとマクラーレン・MP4-23(2008年)
2007年は2005年と2006年のチャンピオンであるアロンソがマクラーレンに加入し、チームメイトとして2006年GP2チャンピオンのルイス・ハミルトンが抜擢されてF1デビューを果たし、低迷した2006年から心機一転してチームは新たな体制となる。
2007年はチームメイト間でコース内外で激しい争いが繰り広げられ、結果的に両ドライバーともにフェラーリのライコネンに1ポイント及ばず、ドライバーズ選手権で2位と3位に終わった。アロンソが1年限りでチームを離脱すると、マクラーレンはハミルトンを中心としたチームとなり、2008年はハミルトンがフェラーリのフェリペ・マッサを1ポイント上回り、ドライバーズ選手権を制覇した。
その後もハミルトンを中心としたチーム体制が数年続き、優勝争いには加わるものの、急速に台頭してきたレッドブル・レーシングには及ばず、タイトルに届かない年が続く。
  • パートナーシップの終了(2013年 - 2014年)
ダイムラーは2009年からメルセデスエンジンのカスタマー供給を始め、マクラーレン以外のF1チームにもエンジンが供給されるようになった。同年に供給を受けたブラウンGPが、新チームであるにもかかわらず初年度にダブルタイトルを獲得するという、F1史上でも前例のない快挙を演じた[W 97]。同年末、ダイムラーは同チームを買収し、翌2010年から自社チームを参戦させることと、2011年までにマクラーレンとの資本関係を解消することを発表した[W 98]。ワークス待遇を実質的に失うことになったマクラーレンは2013年5月にホンダとの提携を発表し、2015年からはホンダからパワーユニットの供給を受けることを明らかにし[W 99]、パートナーシップに終止符が打たれることになった。
マクラーレン・メルセデスの最後の2シーズンは、通算7勝した2012年から一転して、終始低迷したままとなり、1995年以来20年間に及んだパートナーシップ関係は2014年に終了した。

他の供給先

[編集]
ブラウン・BGP001(2009年)

1995年以来、メルセデス・ベンツはマクラーレンのみにF1エンジンを(無償で)供給していたが、2009年から他チームにエンジンの有償供給(カスタマー供給)を始めた。カスタマーチームとしては異例のことながら、ブラウンは2009年にダブルタイトルを獲得している。詳細は下記各チームの記事を参照。

現在のファクトリーチーム(2010年 - 現在)

[編集]
メルセデスAMG F1チーム(2015年)
メルセデスAMG F1チーム(2015年)

2009年シーズンの終了直後、ダイムラーはその年のF1でダブルタイトルを獲得したブラウンGPを買収し、メルセデス・ベンツ・グランプリ社を設立した[W 100][W 98]翌2010年シーズンから「メルセデスGP」として参戦を始め、ダイムラーとしては55年ぶりにF1に自社チームを復帰させた。

2012年にチーム名称を「メルセデスAMG F1チーム」に変更し、2013年にはトト・ヴォルフがメルセデス・ベンツのモータースポーツ部門の責任者となるとともに、同年からヴォルフがF1チームの代表を務めている。2010年の復帰当初から、ドライバーはニコ・ロズベルグミハエル・シューマッハという2人のドイツ人ドライバーを擁していたが[W 101]、この2013年には前年限りで引退したシューマッハに代わって、ルイス・ハミルトンが加入した。

その後、メルセデスチームは2014年から2021年まで8年連続でコンストラクターズ選手権を制覇し続け、所属ドライバーも2014年から2020年まで7年連続でドライバーズ選手権を制覇し続けた[W 102][W 103]

ジュニアドライバープログラム

[編集]
ジュニアチーム時代のミハエル・シューマッハ(写真左、1991年)

メルセデス・ベンツは1990年にジュニアチームを立ち上げ、カール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェン、ミハエル・シューマッハの3名を起用した[231]。ジュニアチーム設立は当時のモータースポーツ責任者(レースディレクター)であるヨッヘン・ニアパッシュの発案によるもので、ニアパッシュが以前にBMWのモータースポーツ部門の責任者をしていた時に成功していたジュニアチーム[注釈 110]に範を得たものである[231][234]

選ばれた3名は1989年のドイツF3選手権英語版の上位3名をそのまま抜擢したもので[231]、フレンツェンは1年、ヴェンドリンガーとシューマッハは2年に渡って在籍し、元F1ドライバーでスポーツカー世界選手権ではベテランであるヨッヘン・マスを教官役として、スポーツカー世界選手権などで腕を磨いた[232][注釈 111]

この計画が提案された当初、スポーツカー世界選手権はベテランドライバー中心の選手権であることから、その中で若手を走らせるというこの計画はザウバー内から異論があり、代表のペーター・ザウバーも懐疑的だった[219]。メルセデス・ベンツ社の理解を得ることも大きな苦労があったが[231]、ジュニアドライバーに選ばれた3名が実際に活躍したことからこうした疑念は払しょくされた[219]

結果としてこの3名は後に全員がF1ドライバーとなり、シューマッハはドイツ人初のF1チャンピオンになるという大きな成功を収めた[232]

その後の取り組み

[編集]

1990年に始まったジュニアドライバープログラムは1991年には終了したが、1995年頃にヤン・マグヌッセンダリオ・フランキッティアレクサンダー・グラウ英語版を「ジュニアドライバー」として支援し、DTM/ITCやCARTに参戦する後押しをした[235]

1998年に当時のパートナーであるマクラーレンとともに、ヤングドライバーサポートプログラム英語版(McLaren-Mercedes Young Driver Support Programme)を始め、当時カートドライバーだったルイス・ハミルトンの支援をマクラーレンとともに同年から始めた[W 104]

公式なジュニアドライバープログラムではないものの[W 105]、メルセデス・ベンツとしては、カート時代以降のハミルトンも含め、1990年代から2000年代にかけて個人スポンサーの形でドライバーの支援をしており、2000年代半ばからはポール・ディ・レスタをジュニアドライバーとして支援を行った[W 106][W 107]。2010年代に入ると、同様に支援を受けたドライバーたちの中でパスカル・ウェーレインエステバン・オコンら複数名がF1にステップアップするようになっている[W 108]

セーフティカーとメディカルカーの供給

[編集]

F1では1993年からセーフティカーを正式に使用することになり、ダイムラーは1996年6月からメルセデスAMGの車両をセーフティカー、メディカルカーとしてF1に無償で供給している[W 109]

1996年途中までF1用のセーフティカーは各サーキットが車両を用意していたが、たいていはチューニングが施されていたとはいえ、コンパクトカーが使われることもあ�