ユストゥス・ファン・エフモント
ユストゥス・ファン・エフモント Justus van Egmont | |
---|---|
ファン・エフモントがデザインしたタペストリー | |
生誕 | 1602年 ライデン |
死没 | 1674年1月8日 アントウェルペン |
ユストゥス・ファン・エフモント(Justus van Egmont、フランスではJuste d'Egmont、1602年[1] - 1674年1月8日)は、フランドルの画家である。肖像画を描き、タペストリーのデザイナーとしても働いた。フランスの王立絵画彫刻アカデミーの創立メンバーの一人である。
略歴
[編集]ライデンで大工の息子に生まれた。父親が亡くなった後、1615年に母親とアントウェルペンに移り、ガスパル・ファン・デン・フーケの弟子になった。1618年に徒弟期間が終わった後、イタリアで修行をした。1620年から1628年の間はアントウェルペンのピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)の工房で働いた。1628年にアントウェルペンの聖ルカ組合の親方になった記録がある。
ルーベンスが1628年にスペインに移った時に、ファン・エフモントはフランスで働くことを選び、パリのシモン・ヴーエ(1590-1649)の工房で働き、タペストリーの元絵も多数制作した。
コンデ公やオルレアン公の画家になり、バレロワ城(Château de Balleroy)の装飾を手がけた。 ルイ13世とルイ14世の宮廷画家になり、王族の肖像画を描いた。 1648年にフィリップ・ド・シャンパーニュ、セバスチャン・ブルドン、シャルル・ルブランらの12人の美術家の一人として王立絵画彫刻アカデミーの創立時のメンバーとなった。
1649年にフランドルに戻り、はじめブリュッセルでタペストリーのデザインをした後、1653年からアントウェルペンに移った。1674年にアントウェルペンで没した。
作品
[編集]- フィリップ1世 (オルレアン公) (1654)
- ビュッシー・ラビュタン城の装飾画
脚注
[編集]- ^ 19世紀の美術史家Frans Jozef Peter van den Brandenは1801年9月22日生まれとしているがその日付は両親の結婚の日付で、生年は1902年とされる。(STEVEN SUYKENS, Justus van Egmont, in: Nationaal Biografisch Woordenboek 19, 2009.aによる)
参考文献
[編集]- BALIS, A. 1993: ‘Fatto da un mio discepolo. Rubens’s studio practices reviewed’, in: Vol. tent. cat. Tokio (National Museum of Western Art, Tokio, pp. 100, 113.
- BALIS, A. 2007-2008: ‘Rubens en zijn atelier: een probleemstelling’, in: Rubens. Een genie aan het werk [tentoonstellingscatalogus], Brussel, pp. 32–33, 37, 46.
- HAIRS, M.-L. 1977: Dans le sillage de Rubens: les peintres d’histoire anversois au XVIIe siècle, Liège, pp. 44–45.
- VLIEGHE, H. 1993-1994: ‘Rubens’s atelier and history painting in Flanders. A review of the evidence’, in: The age of Rubens [tentoonstellingscatalogus], Boston/Toledo, p. 7.