芥川長則
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永正17年5月12日(1520年6月7日) |
別名 | 通称:次郎[1]、二郎[2] |
氏族 | 三好氏、芥川氏 |
父母 | 父:三好之長 |
兄弟 | 三好長秀[3]、三好頼澄[4]、三好長光[5]、長則[5] |
子 | 孫十郎? |
特記 事項 | 兄・長光と名字や兄弟順を逆にする史料もある[1]。 |
芥川 長則(あくたがわ ながのり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。三好之長の子。名字は芥河とも書かれる[1]。
略歴
[編集]三好之長の子として生まれ、阿波の国人・芥川氏の養子になったとされる[6][7][注釈 1]。
永正17年(1520年)5月5日、長則は等持寺付近で細川高国・六角定頼らと戦うも敗れ、父や兄・三好長光らと共に曇華院に潜伏した[8]。しかし高国に潜伏先を察知され、5月10日、長則は長光と投降し、父と従兄弟の新五郎も翌11日に降った[8]。長則らの投降に当たっては生命の保証がされていたというが[9]、父と新五郎は11日のうちに処刑され、長則も長光と共に12日に切腹させられた[8]。年齢は不明だが「壮年者」だったという[1]。
長則の死後、芥川孫十郎の活動が見られ、この孫十郎は長則の子といわれるが[10]、両者を父子とする確かな史料は確認できない[11]。孫十郎が常信という実名を名乗り、摂津芥川氏の当主として活動していることなどから、孫十郎の父を摂津芥川氏当主の芥河常清とする説が提唱されている[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 長江 1989, p. 33.
- ^ 長江 1989, p. 33; 天野 2021, 三好氏略系図.
- ^ 今谷 1985, p. 233; 長江 1989, p. 260; 天野 2021, 三好氏略系図.
- ^ 今谷 1985, p. 233; 長江 1989, p. 260.
- ^ a b 天野 2021, 三好氏略系図.
- ^ a b c 馬部隆弘「細川澄元陣営の再編と上洛戦」『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6。250–251頁、註79。
- ^ 天野 2021, p. 24.
- ^ a b c 今谷 1985, pp. 55–58; 長江 1989, pp. 30–33; 今谷 2007, pp. 70–72; 天野 2021, pp. 24–25.
- ^ 長江 1989, p. 32.
- ^ 天野 2021, p. 70.
- ^ a b 嶋中佳輝「三好長慶入城前の芥川城と摂津上郡支配」『十六世紀史論叢』第18号、2023年。
参考文献
[編集]- 天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社〈中公新書〉、2021年。ISBN 978-4-12-102665-1。
- 今谷明『戦国三好一族』新人物往来社、1985年。ISBN 4-404-01262-4。
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』洋泉社、2007年。
- 長江正一『三好長慶』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年(原著1968年)。ISBN 978-4-642-05154-5。