上矢津
上矢 津(かみや しん、1942年 − )は、日本の画家、版画家、現代美術家。
プロフィール 1
[編集]1942年東京都杉並区に生まれる
小学校低学年より油彩をはじめ、中学、高等学校の頃は抽象画を描く。
東京都立工芸高等学校卒業後、東京写真専門学校へ通う。
画家・小野木学(叔父)の思想概念に影響を受けた傑出した異端な作家。
国画会展、モダンアート展へ抽象絵画を出品。
写真製版による捺染技術を知り、シルクスクリーン技法に興味を示す。
プロフィール 2
[編集]1960年代以後、美術界は写真の時代に入り、ベンヤミンの著書「複製技術時代の芸術」などに翻弄され
芸術はアウラを超え「写真」と「版画」の時代に変革していった。
そんな中で上矢津も油彩の抽象絵画から離れ、剥製や標本の写真をシルクスクリーンに転写、1970年「シリーズ博物詩」を制作。
内外で受賞を重ね評判を得るが、数年で概念的抽象絵画に戻っている。
版画の受賞歴は重いが版画家としてひとくくりは出来ない。
後年、東京芸術大学教授の中林忠良や野田哲也に招かれ、油絵科版画研究室の講師を4年間勤める(1990-1993)
1990年以後、「円記号」を描くようになりブランドマークとしてドローイングや写真の大型インクジェットプリントに使用する。
才が先んじて留まれないタイプ。病による休止が続き、近年に重い胸腺癌となったようだが手術で復活。
コンパスで絵を描くことに専念、特製の大きなコンパスでキャンバスに弧を引く。
余禄
[編集]父方の曽祖父・上矢儀右衛門(山梨県出身)は因州・鳥取藩の池田公の江戸上屋敷において記録方を勤め
明治初めの上野戦争(戊辰戦争)の一部を記録、池田公より角丸の紋と帯刀を受ける。(アトリエの周波体14より)
母方の小野木家は武家で豊臣秀吉公に奉仕、京都の福知山城の三代目城主・小野木重勝(歳政)(PC福知山城記録より)
受賞歴
[編集]- 1970年 第5回ジャパン・アートフェスティバル <優秀賞>
- 1972年 第8回東京国際版画ビエンナーレ <神奈川県立鎌倉近代美術館賞>
- 1973年 第10回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ <ザクレブ科学芸術アカデミア賞>
- 1973年 第1回世界版画コンペティション <スペシャルエディションパーチェス賞>
- 1974年 第4回ブラッドフォード国際版画ビエンナーレ <ヨークシャーTV賞>
- 1974年 第5回クラコウ国際版画ビエンナーレ <メダル賞>
- 1980年 第5回国際版画ビエンナーレ <ビエンナーレ賞>
個展
[編集]- 1970年 芸術生活画廊
- 1971年 プリントアートギャラリー
- 1973年 ギャラリーワタリ(現ワタリウム美術館)
- 1976年 ギャルリーヴィヴァン
- 1980年 ギャルリーヴィヴァン
- 1980年 スペース31
- 1983年 かねこ・アートギャラリー
- 1986年 スィングバイソゴウ
- 1986年 モリスギャラリー
- 1989年 モリスギャラリー
- 1996年 ギャルリーヴィヴァン
- 1998年 andギャラリー
- 1999年 川越ギャラリー
- 2000年 ギャラリーゴトウ
所蔵
[編集]- 神奈川県立近代美術館
- 東京国立近代美術館
- 栃木県立美術館
- 大分県立芸術会館
- リュブリアナ近代美術館
- サンフランシスコ近代美術館
- フレデリックスタッド・アートソサイエティー
- ワシントン大学ヘンリーギャラリー
- 東京都現代美術館
- 町田市国際版画美術館
- ブリンストン大学図書館
- 秋田県立近代美術館
- 新潟市美術館 他
その他
[編集]エッセイに、小野木学をレクイエムした「ナヤミノタネ」(講談社)。
抽象的な画文集に「ねこもあるけば」(理論社)、「百年の蝉」(ポプラ社)などがある。
練馬美術館図録エッセイに「青いエーテル」、「余命を知った画家は何を描いたか」など。その他。
月刊短歌集「コスモス」に「アトリエの周波体」を3年ほど連載。
児童書の挿絵や絵本もあるが専門の絵本作家とは異なる。