中村光毅

なかむら みつき
中村 光毅
別名義 四条 徹也
生年月日 (1944-04-07) 1944年4月7日
没年月日 (2011-05-16) 2011年5月16日(67歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京都
職業
ジャンル
主な作品

美術監督
宇宙エース
ハクション大魔王
昆虫物語 みなしごハッチ
いなかっぺ大将
機動戦士ガンダム
伝説巨神イデオン
うる星やつら
太陽の牙ダグラム
北斗の拳
風の谷のナウシカ


美術監督・メカニックデザイン
マッハGoGoGo
科学忍者隊ガッチャマン

タイムボカン
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中村 光毅(なかむら みつき、1944年4月7日 - 2011年5月16日)は、日本アニメーション美術監督メカニックデザイナーイラストレーターデザインオフィス・メカマン主宰。

美術監督としてタツノコプロの第1期黄金期を支えながら、日本にSFアニメ文化ができる以前の1960年代から同社のメカデザインを手掛けてきた、メカニックデザイナーの草分け的存在[1][2]

略歴

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中学卒業後、東映動画に入社[1]

1964年タツノコプロに美術担当として入社[3]。約13年間在籍し、同社の第1作『宇宙エース』から『ポールのミラクル大作戦』まで関わった作品のすべてで美術監督やメカニックデザイナーを歴任[4]。『科学忍者隊ガッチャマン』では、当時新人の背景マンからコンバートされたばかりの大河原邦男とともに、日本で初めてメカニックデザインとしてクレジットされた[2][5]

1976年、独立して大河原邦男と「デザインオフィス・メカマン」を設立[3]。以後はメカニックデザインからは退き、美術に専念するようになる[3]。その後、メカマンの代表取締役を務めるかたわら、『機動戦士ガンダム』『うる星やつら』『北斗の拳』『風の谷のナウシカ』といった数々のアニメ作品に美術監督として関わり、そのヒットに貢献する[1][3]

2011年5月16日、口腔癌のため東京都内の自宅で死去[6]。67歳没。

人物

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子供の頃から絵を描くのが好きで、ディズニーの『シンデレラ』を見て刺激を受けてアニメを制作する仕事に携わりたいと考えるようになる[1]。しかし、キャラクターは描けないと思ったので、初めから背景美術を目指していた[1]

美術監督でありながら、タツノコプロ時代はメカのデザインも手掛けていた[7][注 1]

日本的なアニメ表現にとって背景美術の果たす役割は非常に大きなものだが、そうした方向に向かうきっかけの一つを、中村がタツノコプロ時代に美術課のトップとして手がけた『科学忍者隊ガッチャマン』などの作品美術が作ったと言われる[2]。中村の美術の仕事で最も知られるのは、1979年の『機動戦士ガンダム』である[2][8]スペースコロニーや宇宙要塞などの巨大建造物から、主人公たちが転々とする地球各地の様々な風景まで、多岐にわたる背景画を手がけた[3]

メカニックデザイナーとしての代表作は、『マッハGoGoGo』のマッハ号、『科学忍者隊ガッチャマン』のゴッドフェニックス、『タイムボカン』のヤゴマリンを除くほぼ全てのメカ[注 2]、『ヤッターマン』のヤッターワン、およびヤッターペリカンなどの各種ヤッターメカ[1]。特にマッハ号の評価は高く、2008年のウォシャウスキー兄弟による実写化映画『スピード・レーサー』において、40年を経たマッハ号のデザインにほとんど変化がなかったことが、彼の卓越したデザインセンスとデザインの完成度の高さを証明している[2]。もともと車好きで、それが高じてデザインをすることになったという[9]。その際、参考にしたのは漫画版のマッハ号と当時のフェラーリポルシェなどの実車のデザインで、そこに自分のインスピレーションを加えて完成させた[9]。このマッハ号の誕生とともに、メカデザイナーとしての中村光毅、そしてメカデザイナーという職種が誕生したとも言われる[10]。ただし、立体化は考慮していないデザインだったため、プラモデル化の際には設計した人が苦労したという[10]。また当時としては珍しいデザインだったため、設定書だけでは形を把握できなかったアニメーターたちがマッハ号を描くことが出来なかったため、オープニングに登場するマッハ号の動画は全て中村が訂正して描いている[11]。中村が動画を描いたのはそれが最初で最後だった[11]

東映動画には4年弱在籍したが、背景美術を描くために設立されたばかりのタツノコプロに移籍した[4][注 3]。紹介を受けて当時の社長・吉田竜夫の面接を受け、お互いギター好きだったことで話が合って入社が決まった[4][注 4]。タツノコプロでは美術課長を務め、新人の研修なども担当していた[13]。入社してきた大河原邦男の指導も行い、その後、大河原には背景美術からメカニックデザイナーへの転向を促した[12][13]

大河原と設立したメカマンではメカニックデザインを中心に仕事をしていくつもりだったが、すぐに大河原が会社から離れたことと自身がメカニックデザインの仕事を退いたことで、主に美術を手掛けるようになった[13]

伝説巨神イデオン』のテレビシリーズでは、同時期に別作品(『ニルスのふしぎな旅』)の美術監督も担当していたため、「四条徹也」というペンネームを使用している[2][注 5]。しかしその後制作された劇場版では本名でクレジットされている[2]

参加作品

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テレビアニメ

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劇場アニメ

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OVA

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ゲーム

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  • 糸井重里のバス釣りNo.1 決定版 - 美術設定

テレビドラマ

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著書

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  • 『メカマン・アートワークス 中村光毅の世界』(岡田有章との共著、メディアワークス、2001年11月5日

絵本

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  • 立原えりか、中村光毅、佐藤悦夫、片山径子『ふしぎの国のアリス講談社〈ディズニー名作童話館①〉、1987年10月8日。ISBN 4061942514 
  • 浅川じゅん、三石宏文、三石泰江、片山径子『ダンボ』講談社〈ディズニー名作童話館②〉、1987年10月8日。ISBN 4061942522 
  • 間所ひさこ、中村光毅、森田浩光、片山径子『シンデレラ講談社〈ディズニー名作童話館③〉、1987年10月8日。ISBN 4061942530 
  • 間所ひさこ、森田浩光、中村光毅『101匹わんちゃん講談社〈ディズニー名作童話館⑧〉、1988年1月10日。ISBN 4061942581 
  • 末吉暁子、中村光毅、佐藤悦夫、片山径子『ピーター・パン講談社〈ディズニー名作童話館⑨〉、1988年2月22日。ISBN 406194259X 
  • 川崎洋、西岡たかし、中村光毅、片山径子『3匹の子ぶた講談社〈ディズニー名作童話館⑩〉、1988年2月22日。ISBN 4061942603 
  • 福川祐司、シュン斎藤、中村光毅、三石泰江、片山径子『わんわん物語講談社〈ディズニー名作童話館⑪〉、1988年3月21日。ISBN 4061942611 
  • 森山京、三石宏文、三石泰江、片山径子『くまのプーさん』講談社〈ディズニー名作童話館⑫〉、1988年3月22日。ISBN 406194262X 
  • 岡信子、森田浩光、中村光毅『おしゃれキャット講談社〈ディズニー名作童話館⑬〉、1988年4月24日。ISBN 4061942638 
  • 上地ちづ子、芝知照、三石泰江、片山径子『ミッキーの巨人たいじ』講談社〈ディズニー名作童話館⑭〉、1988年4月24日。ISBN 4061942646 
  • 大石真、中村光毅、佐藤悦夫、片山径子『バンビ講談社〈ディズニー名作童話館⑰〉、1988年6月24日。ISBN 4061942670 
  • 堀内純子、中村光毅、三石宏文、片山径子『眠れる森の美女講談社〈ディズニー名作童話館⑱〉、1988年6月24日。ISBN 4061942689 
  • 立原えりか、中村光毅、佐藤悦夫、片山径子『リトル・マーメイド・人魚姫』講談社〈ディズニー名作童話館⑲〉、1991年7月10日。ISBN 4061942697 
  • 矢部美智代、中村光毅、佐藤悦夫、片山径子『美女と野獣講談社〈ディズニー名作童話館⑳〉、1993年7月1日。ISBN 4061942700 
  • 立原えりか、西岡たかし、中村光毅、片山径子『アラジン講談社〈ディズニー名作童話館㉑〉、1993年8月10日。ISBN 4061942719 
  • 窪田僚、西岡たかし、中村光毅、片山径子『ライオン・キング講談社〈ディズニー名作童話館㉒〉、1994年9月30日。ISBN 4061942727 

脚注

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注釈

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  1. ^ その当時、アニメに登場するメカのデザインはキャラクターデザイナーか美術監督が兼任し、ロボットはデザイナーに、基地や戦艦などは美術監督に任されることが多かった。
  2. ^ ヤゴマリンのみ大河原邦男が担当した。
  3. ^ 東映時代は彩色など仕上げの仕事をやっていたため、絵の具や色の知識に詳しかった[12]
  4. ^ その後、社員でバンドを組んだという。
  5. ^ イデオンの監督だった富野由悠季に掛け持ちはまずいのではないかと相談したところ、ペンネームを薦められたので、「始終(しじゅう)徹夜をしているから」という意味で付けたとのこと[14][15]
  6. ^ 主役メカのヤッターワンとヤッターペリカンをデザイン[16]
  7. ^ ノンクレジット。
  8. ^ 「四条徹也」名義[2]
  9. ^ シリーズ途中まで。
  10. ^ 5巻まで。

出典

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  1. ^ a b c d e f 『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - メカニックデザインを担当した中村光毅氏に直撃 (1/8)”. マイナビニュース. マイナビ (2007年8月24日). 2022年3月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 氷川竜介のチャンネル探訪 第29回 追悼・中村光毅美術監督 SFアート&デザインの草分けにして巨匠”. バンダイチャンネル. バンダイ (2011年5月20日). 2022年3月28日閲覧。
  3. ^ a b c d e "機動戦士ガンダム展"の全貌が明らかに”. ファミ通. KADOKAWA (2014年4月21日). 2022年3月28日閲覧。
  4. ^ a b c 『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - メカニックデザインを担当した中村光毅氏に直撃 (2/8)”. マイナビニュース. マイナビ (2007年8月24日). 2022年3月28日閲覧。
  5. ^ タツノコプロ創立55年記念『科学忍者隊ガッチャマン』”. 超!アニメディア. 小学館 (2017年10月6日). 2022年3月28日閲覧。
  6. ^ “アニメーション美術監督の中村光毅氏が死去”. 日本経済新聞. (2011年5月18日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1801B_Y1A510C1CC0000/ 2022年3月27日閲覧。 
  7. ^ 丸本大輔 (2012年12月18日). “今だから話せる「ガンダム」「ダンバイン」「パトレイバー」生みの親たちのメカデザイナーズサミットレポ (1/5ページ)”. エキレビ!. エキサイト. 2022年3月28日閲覧。
  8. ^ ジブリ美術館・高橋望氏、『ガンダム』がなければ「『ナウシカ』は生まれなかった」”. ORICON NEWS. オリコン (2021年12月9日). 2022年3月28日閲覧。
  9. ^ a b 『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - メカニックデザインを担当した中村光毅氏に直撃 (3/8)”. マイナビニュース. マイナビ (2007年8月24日). 2022年3月28日閲覧。
  10. ^ a b 『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - メカニックデザインを担当した中村光毅氏に直撃 (4/8)”. マイナビニュース. マイナビ (2007年8月24日). 2022年3月28日閲覧。
  11. ^ a b 『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - メカニックデザインを担当した中村光毅氏に直撃 (5/8)”. マイナビニュース. マイナビ (2007年8月24日). 2022年3月28日閲覧。
  12. ^ a b 高橋良輔 (2018年2月19日). “アトムの遺伝子【第11回】リバイバル連載:サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」”. 矢立文庫. サンライズ. 2022年3月28日閲覧。
  13. ^ a b c 『マッハGoGoGo』放送開始40周年記念企画 - メカニックデザインを担当した中村光毅氏に直撃 (6/8)”. マイナビニュース. マイナビ (2007年8月24日). 2022年3月28日閲覧。
  14. ^ Web現代「ガンダム者」取材班編集「第3章 美術監督 中村光毅 《ナウシカと宮崎駿》」『ガンダム者 ガンダムを創った男たち』講談社、2002年10月9日、ISBN 4-06-330181-8、162-163頁。
  15. ^ 氷川竜介 [@Ryu_Hikawa] (2011年5月17日). "イデオンは四条徹也、しじゅう徹夜というペンネーム参加". X(旧Twitter)より2022年3月28日閲覧
  16. ^ 大河原邦男『メカニックデザイナーの仕事論 ヤッターマン、ガンダムを描いた職人』光文社、2015年8月18日、41頁。ISBN 978-4334038748 

関連項目

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外部リンク

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