中華民国臨時政府 (1937年-1940年)

中華民国臨時政府
中華民國臨時政府
国民政府
冀東防共自治政府
1937年 - 1940年 汪兆銘政権
中華民国の国旗
国旗
国の標語: 和平、反共、建國
新民主義
国歌: 卿雲歌
中華民国の位置
公用語 中国語
首都 北京
行政委員長
1937年 - 1940年 王克敏
変遷
1937年12月14日 成立
1940年3月30日汪兆銘政権に合流
中華民国臨時政府要人
左から高凌霨斉燮元王克敏江朝宗董康湯爾和王揖唐朱深

中華民国臨時政府(ちゅうかみんこくりんじせいふ)は、1937年12月14日から1940年3月30日まで存在した中華民国臨時政府

北京で成立し、当時日本占領下にあった河北省山東省河南省山西省の華北四省、北京市及び天津市青島市といった地区を統治した[1]。1940年に汪兆銘政権に吸収合併されたが、華北政務委員会へと改編され終戦まで統治を続けた[1]

日本占領下の北京

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1937年7月に盧溝橋事件が勃発し、 7月25日の郎坊事件と26日の広安門事件で中国29軍が日本軍を攻撃すると、28日、日本は北支総攻撃を決定し、7月29日北京は陥落した[2]。当時の北京市民によれば、北京入りした日本軍の規律は悪くなく、殺人もせず、店は閉められていたが店に押し入るようなこともなく、日本兵は外で弁当箱を持って食べていたという[3]

日本軍は平津治安維持委員会を設置し占領統治を開始した[2]。12月14日に湯爾和を首脳とする中華民国臨時政府を宣言した[2]。1935年に成立していた冀東防共自治政府もこの臨時政府に合流した。

日本政府は1938年1月、「国民政府を相手とせず」声明を発表して臨時政府に期待をかけた。1938年5月に北支那開発株式会社を成立させ、 日本は北京で政治、軍事、文化、経済体制をほぼ確立した[2][4]。独自の通貨として中国聯合準備銀行券(聯銀券)を発行し、華北自治軍という軍事組織を保有していた。

1940年3月に南京汪兆銘南京国民政府を樹立すると、臨時政府は吸収合併された[1]。その後は華北政務委員会へと改編され、臨時政府の統治機構を継承して終戦まで続いた[1]

国旗

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国旗には、中華民国の旧国旗である五色旗が使用されていた。他に「和平、反共、建國」の文字の入った旗があったとも言われる。

行政区画

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下部に4省、3市、2地区を管轄した。

省政府は省公署と称され下部に省長、秘書処、参事室、顧問室、民生庁、財政庁、教育庁、建設庁、警務庁が設置された。市政府には市長、参事、秘書処、社会局、財政局、教育局、工務局、衛生局、警察局が設置されていた。

華北政務委員会に改編される際に追加された行政区

政権人事

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中華民国臨時政府の最高指導部は、議政委員会委員長の湯爾和、行政委員会委員長の王克敏、司法委員会委員長の董康による三権分立体制となっていた。しかし、行政部門を掌握する行政委員会の権限は幅広く、事実上の最高指導者と見なされたのは王であった。臨時政府の構成員は、元北京政府の官僚が多数を占めていた。

下記は1937年12月14日の創設時のものである。なお、江朝宗は王克敏と対立したため、翌年1月5日に早くも北京特別市市長を辞職した。また、高凌霨も1937年12月中に河北省長へ(事実上)改任された。

人名 写真 官職 北京政府での前職
王克敏 行政委員会委員長兼議政委員会常務委員兼行政部総長 財政総長
湯爾和 議政委員会委員長兼常務委員兼教育部総長 財政総長
董康 司法委員会委員長兼議政委員会常務委員 司法総長・財政総長
朱深 議政委員会常務委員兼法制部総長 外交総長・司法総長
王揖唐 議政委員会常務委員兼振済部総長 内務総長
斉燮元 議政委員会常務委員兼治安部総長兼華北治安軍司令 江蘇督軍
江朝宗 議政委員会委員兼北京特別市長 歩軍統領
高凌霨 議政委員会委員兼天津特別市長 内務総長・国務総理代理

議政委員会委員一覧

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委員長

  • 湯爾和 (1937.12.14 - 1940.3.30)

常務委員

  • 湯爾和 ※委員長兼任
  • 王克敏 (1937.12.14 - 1940.3.30)
  • 董康 (1937.12.14 - 1940.3.30)
  • 朱深 (1937.12.14 - 1940.3.30)
  • 王揖唐 (1937.12.14 - 1940.3.30)
  • 斉燮元 (1937.12.14 - 1940.3.30)

委員

  • 江朝宗 (1937.12.14 - 1940.3.30)
  • 高凌霨 (1937.12.14 - 1940.3.4 ※死去)
  • 王蔭泰 (1938.4.4 - 1940.3.30)
  • 馬良 (1938.4.4 - 1940.3.30)
  • 余晋龢 (1938.4.27 - 1940.3.30)
  • 潘毓桂 (1938.4.27 - 1940.3.30)
  • 汪時璟 (1938.9.30 - 1940.3.30)
  • 蘇体仁 (1939.3.5 - 1940.3.30)
  • 趙琪 (1939.3.5 - 1940.3.30)

行政委員会人事一覧

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行政委員会委員長

  • 王克敏 (1937.12.14 - 1940.3.30)

行政部総長 ※1938.9.18行政部廃止

  • 王克敏 (1937.12.14 - 1938.9.18) 兼任

教育部総長

  • 湯爾和 (1937.12.14 - 1940.3.30)

法制部総長

  • 朱深 (1937.12.14 - 1940.3.30)

振済部総長 ※1938.9.18振済部廃止

  • 王揖唐 (1937.12.14 - 1938.9.18)

治安部総長

  • 斉燮元 (1937.12.14 - 1940.3.30)

実業部総長 ※1938.4.4実業部設置(行政部実業局が昇格)

  • 王蔭泰 (1938.4.4 - 1940.3.30)

内政部総長 ※1938.9.18内政部設置

  • 王揖唐 (1938.9.18 - 1940.3.30)

財政部総長 ※1938.9.18財政部設置

  • 汪時璟 (1938.9.18 - 1940.3.30)

建設総署署長 ※1938.3.12建設総署設置

  • 殷同 (1938.3.12 - 1940.3.30)

振務委員会委員長 ※1938.10.22振務委員会設置

  • 王揖唐 (1938.10.22 - 1939.3.9)兼任
  • 高凌霨 (1939.3.9 - 1940.3.4 ※死去)

顧問

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臨時政府最高顧問

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1938年(民国27年)1月20日、呉佩孚曹汝霖の最高顧問への就任が決定された[5]。曹によれば、この最高顧問の地位は「有名無実」で「仕事もなく」、行政委員会から月1,000元(円)の俸給を貰うのみだった(後に、俸給が足りないという呉の要求により月3,000元になった)という[6]

なお、北京政府時代からの因縁[7]もあって、呉佩孚と曹汝霖はこの時も深刻な不仲にあった[8]。また、この頃の呉は陸宗輿と組んで紅卍字会の活動に耽っており[9]、政界での再起の意志すらうかがい難かったという[10]

日本からの顧問

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1938年(昭和13年)4月27日、臨時政府の政治的建設に対する協力援助を目的とする「行政法制軍事の三顧問派遣に関する政治協定」(「日支政治助成協定」とも)が日中双方により調印された[11][12]。これにより、華北(北支)の行政・法制・治安(軍事)の三部門に日本側が下記のとおり顧問を置き[13]、臨時政府を支援することになった。

脚注

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  1. ^ a b c d 菊地俊介「日本占領下華北における在留邦人の対中国認識」大阪大学中国文化フォーラム(OUFC)ブックレット3, p.271, 2014年3月 大阪大学
  2. ^ a b c d 鄒双双「日本占領下の北京における文化人― 銭稲孫と周作人を中心に―」関西大学東西学術研究所、次世代国際学術フォーラムシリーズVol.4,2012,p322
  3. ^ 川上尚恵「日本占領下の北京における日本語教育」ことばの科学v.18,2005,p54,名古屋大学
  4. ^ 郭廷以編『中華民国史事日誌』第三冊、台北:中央研究院近代史研究所、1984年
  5. ^ 「時事日誌(一月下半)」『大日』169号、昭和13年2月15日、大日社、76頁。
  6. ^ 曹著、曹汝霖回想録刊行会編訳(1968)、254頁。なお、曹は「行政院」から俸給を貰った、としているが、恐らくは「行政委員会」の誤り。また、呉佩孚が引上げ要求した「月3,000元」という金額は、呉の擁立工作を担当した岡野増次郎の証言にもあり、事実と見られる(岡野「呉佩孚将軍の回想」『大日』217号、昭和17年2月15日、大日社、28頁)。
  7. ^ 北京政府時代の派閥対立(呉佩孚は直隷派、曹汝霖は安徽派に近い「新交通系」)があったのみならず、五四運動に際して呉が曹を「親日黒幕」と糾弾し、当時の政府に曹の逮捕令を要求した過去などもあった(曹前掲、280-281頁)。
  8. ^ 王克敏や王揖唐、陸宗輿らが和解の場を設けたりしたものの、曹汝霖を騙し討ちするような仕掛けだったことから、曹が激怒してこれを蹴ったことまであった(曹前掲、281-282頁)。
  9. ^ 曹前掲、280-282頁。なお曹汝霖は、呉佩孚・陸宗輿の活動を「邪教」と断じている。
  10. ^ 岡野増次郎は、呉佩孚のこの時期における宗教家のような生活ぶりを紹介したうえで、「呉氏がその昔し軍閥の一部将として、一時覇を中原に倡へしは、過去の行拶なり」と嘆じている(岡野前掲、28-29頁)。
  11. ^ 「臨時政府との政治助成協定成る」『東洋』41巻6号通号474号、昭和13年6月、東洋協会、138頁。
  12. ^ 東亜同文会業務部編『新支那現勢要覧』東亜同文会業務部、1938年、465頁。
  13. ^ 「輝く新政権の誕生」『毎日年鑑 昭和14年版』毎日新聞社、1938年、147頁。

関連項目

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