伊藤博康
東日本国際大学附属昌平高等学校硬式野球部 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福島県相馬市 |
生年月日 | 1969年9月13日(55歳) |
身長 体重 | 181 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1991年 ドラフト4位 |
初出場 | 1992年5月3日 |
最終出場 | 1992年5月31日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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指導者歴 | |
この表について |
伊藤 博康(いとう ひろやす、1969年9月13日 - )は、福島県相馬市[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
[編集]学法石川高時代は、2年夏、3年春の選抜と甲子園に出場。チームメイトに諸積兼司と作山和英がいた。
高校卒業後は、作山とともに東北福祉大学に進学。4年次は主将を務めて春に最多打点、最多本塁打、全日本大学野球選手権で初優勝する。秋はベストナイン。この年は日米大学野球でMVP。
1991年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け入団。
ルーキーイヤーの1992年5月3日、一軍昇格で即1番ライトでスタメンに抜擢され、5打席で二塁打2本2四球という鮮烈デビューを飾る。ジュニア日本選手権ではサヨナラ打を放ち、優秀選手となる。しかし、その後は続かず1995年10月に巨人を自由契約となり、福岡ダイエーホークスにテスト入団で移籍。しかし、ダイエーでは一軍出場のないまま、1997年シーズン終了後に現役を引退。
引退後は、母校のある福島県石川町にて整体師として働いていた[2]。
2015年12月1日、東日本国際大昌平高硬式野球部の新監督に就任した[3]。
2023年夏の大会をもって退任[4]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1992 | 巨人 | 9 | 22 | 19 | 2 | 4 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .211 | .318 | .316 | .634 |
通算:1年 | 9 | 22 | 19 | 2 | 4 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .211 | .318 | .316 | .634 |
年度別守備成績
[編集]年 度 | 外野 | |||||
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試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | |
1992 | 6 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 43(1992年 - 1995年)
- 63(1996年 - 1997年)
脚注
[編集]- ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、55ページ
- ^ 『ベースボールマガジン』2011年9月号、ベースボール・マガジン社、2011年7月、2011年7月17日閲覧。
- ^ 野球部監督に元プロ選手 福島県内初、東日大昌平高 - 福島民友(2015年12月2日)
- ^ 【福島】東日本国際大昌平1点に泣く…元巨人・伊藤博康監督「子どもたちを信じて戦った」今夏限りで退任 - スポーツ報知(2023年7月17日)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 伊藤博康 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)