高嵩松

高 嵩松(こう すうしょう、享保9年〈1724年〉 - 文化8年6月28日1811年8月16日〉)は、江戸時代英派絵師狂歌師。

来歴

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高嵩谷の門人。渡辺氏、名は正雄。後に平七と改名している。高嵩松と号した他、狂歌名を元の杢阿弥または元の木網、落栗庵といった[1]。通称は大野屋喜三郎といい、もと武蔵国杉山[1]の人であった。京橋北紺屋町で湯屋を営業していたが、後に芝西久保神谷町、花川戸、神田永富町に移り住んでいる。剃髪してからは珠阿弥と称している。絵描きとしてより狂歌師として著名であり、蜀山人らとともに江戸における狂歌壇の大立者であった。晩年には向島に隠居している。寛政から文化頃、作画をしており、『蜀山人判取帳』に自画賛が見られる。 門人に蟹子丸、金埒、北静盧など[2]。享年88。墓所は深川万年町の正覚寺。法名は心性院琢誉珠阿弥陀仏。

作品

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  • 『狂歌巨月賞』狂歌本 秋長堂編 文化1年 共画

参考文献

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  • 岸伝平「落栗庵元木網とその生地」『武蔵野史談』第3巻第1号、埼玉県郷土文化会、1956年、42-46頁。 
  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年

脚注

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  1. ^ a b 岸伝平 1956
  2. ^ 関隆治・編『國学者著述綜覧』森北書店、1943年、74頁。