匹田鋭吉

匹田 鋭吉
ひきた えいきち
 匹田鋭吉
生年月日 (1868-05-18) 1868年5月18日
出生地 美濃国郡上郡八幡
(現・岐阜県郡上市
没年月日 (1944-11-09) 1944年11月9日(76歳没)
出身校 東京専門学校政治経済科
前職 ジャーナリスト
所属政党 立憲政友会
立憲政友会革新同盟
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匹田 鋭吉(ひきた えいきち、1868年5月18日慶応4年4月26日[1]〉 – 1944年昭和19年〉11月9日[2])は、日本ジャーナリスト政治家立憲政友会所属の衆議院議員

経歴

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1868年5月18日、美濃国郡上郡八幡(現在の岐阜県郡上市)に於いて郡上藩士匹田重秋の長男として生まれる[3]1888年明治21年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業[4]読売新聞社の記者となった後、1902年(明治35年)に富山日報の主筆に招かれ、1910年(明治43年)からは九州日報の主筆となった。さらに北陸タイムス主筆に転じ、1913年大正2年)からは岐阜日日新聞社の社長兼主筆を務めた。

1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲政友会に属した。当選回数は7回を数えた[4]1939年(昭和14年)の政友会分裂では政友会革新同盟に所属した。

1944年11月9日没。享年76歳。墓所は青山霊園1-ロ-21-40。なお、墓石は鋭吉が明治40年に建立した。

脚注

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  1. ^ 漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年(大正8年)、p.18。
  2. ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』、日外アソシエーツ、2003年(平成15年)
  3. ^ 人事興信録データベース第8版 匹田鋭吉
  4. ^ a b 明治~昭和, 新訂 政治家人名事典. “匹田 鋭吉とは”. コトバンク. 2021年4月7日閲覧。

参考文献

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  • 細井肇『現代日本の政治家』国光社、1916年。