吉成信貞
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政9年(1797年)[1][2] |
死没 | 嘉永3年9月4日[3](1850年10月9日) |
改名 | 小太郎[4]・十五郎(幼名)[3]、信貞 |
別名 | 又右衛門[1]、又衛門(通称)[4]、慎亭、南園(号)[4]、履善(字)[1] |
官位 | 贈 正五位 |
主君 | 徳川斉脩、斉昭 |
藩 | 常陸水戸藩 |
氏族 | 吉成氏 |
父母 | 吉成信友、板橋元信娘[1] |
妻 | 青山延于娘 軽部政行娘[1] |
子 | 勇太郎、恒次郎 |
吉成 信貞(よしなり のぶさだ)は、江戸時代後期の水戸藩士。
家系
[編集]本姓は坂上氏。白河氏[要曖昧さ回避]の家臣に陸奥国三春城主田村氏庶流の吉成氏あり(ただし、本家の田村氏には平氏説がある)。佐竹氏の家臣を経て、水戸藩に仕官する。
- 吉成氏系譜
- 田村義顕-田村行顕-田村補守-吉成政房-吉成清信
生涯
[編集]大竹雲夢に学問を学び、のちに藤田幽谷の門下となった[4]。剣・槍・銃・射の武術にも優れた[4]。文政4年(1821年)に家督を相続した[1]。小普請組を経て、馬廻組、進者番に進む[1]。徳川斉昭の水戸藩主襲封問題においては、斉昭派となった[1]。天保10年(1839年)、郡奉行となり、大子陣屋に住む[1]。藩の天保の改革の際には斉昭の側近として活躍し、主に民政の面で尽力[4]。特に天保検地の実施、秋成新田(現・茨城県水戸市)の開拓、那珂湊(現・茨城県ひたちなか市)の大火対策などに治績を収めた[4]。弘化元年(1844年)に斉昭が致仕となると、その宥免に奔走し、逼塞・謹慎・蟄居の難に遭った[1]。
系譜
[編集]著作
[編集]- 『吉成信貞時務策』
- 『慎亭封事』
- 『歎願始末』
- 『禁錮中雑録』
- 『南園遺稿』
伝記
[編集]- 仲田昭一『吉成又右衛門信貞 : 烈公を支えた郡奉行』〈水戸の人物シリーズ 第4集〉、水戸史学会、1988年。