和泉流

和泉流(いずみ-りゅう)は狂言流儀の一。現在、能楽協会に二十名あまりが登録し、東京名古屋金沢などを基盤として活動する。

歴史

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実質的な祖は鳥飼元光で、摂津猿楽の鳥飼座に属したのち京都に出て手猿楽の役者として活躍し、和泉守守領号を下賜されたといわれる。その芸系は初期狂言に大きな足跡を残した日吉万五郎の系譜に属するものと思われ、鷺流大蔵流と同源に発している。

鳥飼和泉守元光の子、山脇和泉元宜は慶長19年(1614年)に尾張徳川家に召抱えられ、名古屋に地盤を伸ばすとともに、京都の手猿楽役者であった野村又三郎三宅藤九郎を客分として招き、京都を地盤として和泉流を創設し、禁裏能などで活躍した。宗家は山脇和泉家。もっとも、一応家元制度を取っていたとは言え、三派合同で流儀を形成したという過去の経緯もあって、近世を通じて家元の力は弱く、とりわけ三宅藤九郎家と野村又三郎家は独自の六義(りくぎ。和泉流における狂言台本の称)を持てるという特権を有するなど、一定の独自性を保っていた。

宗家は尾張家の扶持を受けながら京都に住まったが、元禄9年(1696年)に四世山脇和泉元知が名古屋に移住し、以降名古屋を本拠とした。その後も禁裏御用は相変わらず勤めてはいたものの、四座に属し幕府御用を勤めていた鷺・大蔵二流に比べれば、明治以前の和泉流は名古屋(宗家、野村又三郎家)・京都・金沢(三宅藤九郎家)を中心として活動する地方流儀に過ぎなかった。

しかるに、明治維新によって立場は逆転。禁裏御用を勤めていた縁により、家元の十世山脇和泉元清をはじめとする職分の多くが東京に移住し、幕府側であった鷺・大蔵二流が相次いで没落するのを尻目に、和泉流ひとりが東京の狂言界を席巻した。ところが、時の家元・16世山脇元清は流派を統率する力に欠け、息子の17世元照も大正5年(1916年)に早世、婿養子になった18世元康は狂言の経験がなく、弟子たちとも早々に衝突して追放され、宗家は中絶した。

これらの内紛により廃業した職分は少なくなかったが、その中でひとり気を吐いていたのは5世・野村万造(隠居名・萬斎)であった。万造は加賀藩のお抱え狂言師であった三宅藤九郎家の弟子家の出身で、明治維新後は東京に移住して精力的に活動していた。子供にも恵まれ、長男の6世万蔵と、次男で断絶していた師家を再興した9世三宅藤九郎が父を支えた。

そして昭和15年(1940年)には、9世三宅藤九郎の長男・三宅保之(当時6歳)が16世宗家山脇元清の娘の養子になって、19世宗家山脇元秀となり(後に元秀は流派の名前を取って姓を山脇から和泉に改める)、中絶していた宗家も再興された。ただ、元秀は実弟の三宅右近(9世三宅藤九郎の次男)に対して破門騒ぎを起こしたり、流内の反対を押し切って長女・淳子と次女・祥子を狂言師とした上、祥子に10世・三宅藤九郎を継がせたりと、独断専行が目立った。

1995年に元秀が死去すると、長男・和泉元彌が流内の同意を得ることなく20世宗家を宣言。たびたびトラブルを起こしたこともあって、2002年、能楽協会からは退会命令(「除名」の次に重い処分であるが、復帰の可能性は残されている)の処分を受け、流内職分からは宗家相続無効を主張された。元彌は裁判で争ったが、最高裁は、「原告は宗家と認められていない」と指摘、「退会命令も適法」と判断。元彌の能楽協会退会が確定した(詳細は和泉元彌#和泉流宗家継承騒動を参照)。

1995年の元秀の死去後、和泉流は宗家を定めておらず、現在、職分会の委嘱を受けて流派の長老である12世・野村又三郎が宗家預かりとなっている。能楽に関する決め事については、和泉流職分会 (会長:野村萬、代表幹事:井上菊次郎) における会員合議制を取っている。 

芸風

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家・派ごとの差違が大きく、芸の特徴を総体的に流儀としてまとめることはむずかしいが、全体に大蔵流に比べ洒脱で洗練された表現が多く、あかるくやわらかみがあるといわれる。 流内は、芸系によって山脇和泉派(宗家派)、野村又三郎派、三宅藤九郎派に三分できる。

流儀の芸風・台本は家・派ごとに相当に異なる。これは当初から和泉流が、その起源となった京手猿楽の芸系を保ちつつ三派連合のゆるやかな集合体であったことに由来する。現行曲は254番と、大蔵流に比べてかなり多く、歌謡を重視した台本や演出に独自性がある。なお天理図書館狂言六義が流儀の最古本(江戸時代初期)であるが、成立が遅かったこともあり、天理本の時点から大きな変化はあまり見られない。

家・会派

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家・派としては、宗家派の系統に狂言共同社(名古屋)、野村派に野村又三郎家、三宅派に野村万蔵家萬狂言万作の会)・三宅右近家、現三宅藤九郎家(和泉家)がある。

山脇派

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狂言共同社

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明治維新の折、宗家が東京へ移住した後に、名古屋に居残った弟子が芸系保持のため、1891年に結成した会派。旧宗家が断絶してしまった現在においては、山脇和泉派の芸系を引く唯一の会派でもある(ただし一部には同じく名古屋を本拠としていた野村又三郎派の芸系をも交える)。名古屋の和泉流狂言師には、別に生業を持つ手猿楽的な役者が多かったため、比較的ゆるやかなつながりで開明的な傾向を持っている。

初期の代表的な役者に初代井上菊次郎や狂言画で有名な伊勢門水がおり、現在では井上家の子孫である井上菊次郎(四代目)が中心となっている。芸風はあかるくやわらかみのつよい華やかなものである。

野村派

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野村又三郎家

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もともと京都の手猿楽に発した家系で、初代野村又三郎重信が和泉流樹立にあたり客分として招かれたために、独自の演目・台本・演出などを保持して現在に至っている。三世野村又三郎信明の代に在京のまま尾張藩に扶持されるようになる。明治維新後に名古屋、東京と移住を重ねた。十一世野村又三郎信英が不慮の戦死を遂げるなどしたために、派としてはやや少人数である(十二世の野村又三郎信廣は2007年に死去し、現在は野村又三郎信行が2011年に十四世を襲名した)。

芸風は全体におとなしやかで、幽玄なやわらかみがまさっており、和泉流の中でも特に式楽としての品を意識する傾向が強いと言われる。

三宅派

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萬狂言(野村万蔵家)

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三宅派は、野村又三郎派と同じく、もと京都の手猿楽役者であった三宅藤九郎が和泉流樹立にあたって客分として招かれたもので、後に三世三宅藤九郎喜納が在京のまま加賀藩の扶持を受けたため、その芸系が加賀に伝播した。加賀在の手猿楽役者として活躍した初代野村万蔵保尚の家系がこれである。明治維新の際、七世三宅庄市は京より東京へ移住し、和泉流を代表する名手として活躍したが、後嗣に人を得なかったために三宅家は八世三宅藤九郎信之をもって断絶する。

以降、三宅派の芸系は、やや遅れて加賀より上京した五世野村万造(初世萬斎)によって受継がれ、名人といわれた六世野村万蔵人間国宝)、七世野村万蔵(現野村萬。人間国宝)、八世野村万蔵(早世した五世野村万之丞)と相続して現在に至っている。五世万蔵のとき、次男の野村万介に分家させて、三宅藤九郎の名跡を復興させた。

現在の野村万蔵家は、当主・九世野村万蔵(早世した先代当主・五世野村万之丞=追贈八世野村万蔵の弟)、先々代当主・野村萬を筆頭に九世万蔵の息子である六世野村万之丞野村拳之介兄弟など若手狂言師の活躍も目立つ。

芸風は特に上京以降、和泉流のやわらかさを残しつつ瀟洒で洗練を経た風をつよめ、俗に「江戸前狂言」などと呼ばれたりもする。

万作の会(通称・野村万作家)

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1994年に野村万作が本家である「野村万蔵家」と長男・武司(現萬斎)の「萬斎」襲名を巡って争い、袂を別ち「万作の会」を立ち上げる。

万作を始め長男・野村萬斎、萬斎の弟子で八世万蔵の長男・野村太一郎、万作の弟子の石田幸雄を中心に幅広い活動を展開する。2007年、野村万作が兄の野村萬に続き、重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定された。その活動範囲は広く、特に息子・野村萬斎はテレビドラマ出演や映画の主演、舞台演出を手掛けるなど各方面に精力的な姿勢を見せている。また、国立能楽堂能楽三役研修終了の深田博治、高野和憲、内藤連など若手狂言師も着々と育ってきている。

三宅右近家

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五世野村万蔵の次男万介は流儀の了承を得て九世三宅藤九郎を襲名し、三宅藤九郎家を復興した。九世藤九郎には2人の息子があり、長男は宗家復興のため山脇家の養子となり、芸名を和泉元秀と名乗る。次男が三宅藤九郎家の家系を守って三宅右近を名乗り現在に至っている。右近の息子、右矩・近成も狂言方である。

芸風は野村万蔵家と大きく変らないが、本狂言においては世話物的写実性が目立つ一方で、間狂言では式楽的な上品さが強調されるようである。

現三宅藤九郎家(和泉家)

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和泉流宗家山脇和泉家は、明治維新後東京に移住したのち、十世山脇元照をもって後嗣が絶え、十一世山脇元康が十世の遺子と縁組みをして宗家を継承したものの、女性問題や芸力の不足によって流内の統一をはかることができず、ついに狂言を廃して、和泉流は宗家不在の状態となった。

宗家の断絶後、流内では野村又三郎家、三宅藤九郎家、野村万蔵家といった有力な職分家が活発に活動していたこともあり、宗家の不在は長らくつづいたが、1943年、流内の同意を得て、九世三宅藤九郎の長男保之(当時6歳)が、九世山脇元清の娘の養子に入って十九世[1]宗家山脇元秀、のち和泉元秀を名乗る。

1995年の元秀急逝の後、長男・和泉元彌がこれを継承したと宣言した。ところが元彌は流内の同意を得ていなかった。たびたびトラブルを起こしたこともあって、2002年に能楽協会からは退会命令(「除名」の次に重い処分、復帰の可能性は残されている)の処分を受け、流内職分からは宗家相続無効を主張された。元彌側は裁判で争ったが敗訴、元彌の能楽協会退会が確定した(詳細は和泉元彌#和泉流宗家継承騒動を参照)。元秀の娘二人も狂言師となり、次女が十世三宅藤九郎を名乗っている。

系図

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(凡例:強い強調は宗家、強調は前名、数字は代数、点線は養子等)


 
 
 
 
 
 
 
 
 
三宅藤九郎1
 
山脇和泉1
 
 
 
 
 
野村又三郎1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野村万蔵1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(略)
 
 
 
 
 
(略)
 
(略)
 
 
 
 
 
(略)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野村萬斎1
野村万造5
 
 
 
 
 
三宅藤九郎8
 
山脇元照17
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野村万蔵6
野村万作1
 
 
 
 
 
三宅藤九郎9
野村万介
 
山脇元康18
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野村萬
野村万蔵7
 
野村万作2
 
 
 
 
 
和泉元秀19
 
三宅右近
 
野村又三郎12
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
野村万之丞5
野村万蔵8
 
野村萬斎2
 
三宅藤九郎10
 
和泉元彌20
 
 
 
 
 
野村又三郎14
 
 
野村万蔵家
 
 
 
 
 
三宅藤九郎家
 
山脇和泉家
 
 
 
 
 
野村又三郎家
 

脚注

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  1. ^ 和泉家では、十二世の宗家和泉元秀を十九世宗家とするなど、過去の宗家すべてに六つ足した数字を付けている。ここでは、当人が主張した数を記載した。

外部リンク

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