喜連川尊信
喜連川 尊信(きつれがわ たかのぶ、1619年(元和5年) - 1653年4月14日(承応2年3月17日))は、下野国喜連川藩の第2代藩主。右兵衛督[1]。
略歴
[編集]元和5年(1619年)、下総国鴻巣で生まれた[1]。父は喜連川義親[1]。母は花房氏(榊原康政の養女[1])。幼名は龍千代丸[1]。
寛永4年(1627年)7月、父・義親が祖父・頼氏より先に死去する[1]。寛永7年(1630年)6月、祖父・頼氏が亡くなり、遺領を継いだ[1]。
正保4年(1647年)[要出典]、藩の主導権をめぐって藩内で喜連川騒動が発生した[3]。慶安元年(1648年)、幕命により、7歳の昭氏に家督を譲り、致仕した[1]。
承応2年(1653年)3月17日、35歳で死去した[1]。法号は昌山桂公瑞芳院[1]。
家族
[編集]正室は那須資景の娘[1]。子は、女子(福原資敏妻)、女子(永山栄和尚。鎌倉東慶寺に住む)、女子(天野雄重妻)、昭氏、氏信[1]。
系譜
[編集]父母
正室
- 那須資景の娘
側室
- 一色氏久の曾孫
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「巻第七十八 清和源氏 義家流 足利流 喜連川」『寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日 。