大垣藩
大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(今の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。
江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田家が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。
藩史
[編集]前史
[編集]大垣の地は美濃と近江国を結ぶ最重要拠点として重要視されていたため、斎藤道三と織田信秀による争奪戦も行われた程でもある。
織田信長の時代には西美濃三人衆の氏家直元、直元の死後は氏家直昌が城主となっている。豊臣秀吉時代には池田恒興、豊臣秀次、豊臣秀長、加藤光泰、一柳直末、豊臣秀勝、そして伊藤盛正と豊臣政権の重鎮が城主となっている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、大垣3万石の領主だった盛正は西軍に与した。石田三成(西軍)にとっても、徳川家康(東軍)にとっても、大垣城を確保することは何よりも重要であった。なぜならば、戦場となる関ヶ原は大垣からわずかに西に位置するからであった。家康も関ヶ原の直前、大垣城の西北およそ一里にある岡山(関ヶ原戦勝後に勝山と改名)に布陣している程だが、三成は関ヶ原での決戦に臨んで大垣を放棄した。盛正は関ヶ原で敗北して改易となり、その後は家康の家臣・松平康重が大垣城在番として城を守備した。
江戸時代初期
[編集]慶長6年(1601年)2月、家康譜代の家臣・石川康通が上総国鳴渡から5万石で入った。しかし慶長12年(1607年)7月、康通が父の石川家成に先立って死去したため、家成が再び家督を継いで第2代藩主となった。慶長14年(1609年)10月、家成が死去すると、家督は養嗣子として迎えた石川忠総が継いだ。忠総が藩主の時代には大垣城に総堀が開鑿されている。忠総が大坂の陣で戦功を挙げたこともあって、元和2年(1616年)9月26日に豊後国日田藩に移封された。
元和2年(1616年)9月28日、下総国関宿藩より松平忠良(久松松平氏)が5万石で入る。治世約8年の後、寛永元年(1624年)5月18日に忠良が没すると、跡を継いだ松平憲良は幼少のため、同年9月に信濃国小諸藩へ移封された。
寛永元年(1624年)12月20日、丹波国福知山藩より岡部長盛が5万石で入る。寛永9年(1632年)11月に長盛が没し、岡部宣勝が藩主となったが、約半年後の寛永10年(1633年)3月19日に播磨国龍野藩へ移封された。
寛永10年(1633年)3月23日、山城国淀藩より松平定綱(久松松平氏)が6万石で入る。さきに藩主であった松平忠良と定綱は従兄弟の関係にあたる。定綱が大垣を治めたのは2年のみで、寛永12年(1635年)7月28日に伊勢国桑名藩へ移封された。
戸田家時代
[編集]寛永12年(1635年)、摂津国尼崎藩より戸田氏鉄が10万石で入って、以後は戸田家の支配で安定する。初代藩主・戸田氏鉄は寛永14年(1637年)の島原の乱で戦功を挙げる一方、地方知行制の廃止と俸禄制度の採用から新田開発、治水、治山、家臣団編成などに尽力して大垣藩政の基礎を固めた。また氏鉄は大垣城の整備を行い、明治に至る姿としている。このほか、氏鉄は文化事業でも儒学書を自ら著作するなどして発展させている。
第2代藩主・戸田氏信は明暦元年(1655年)、弟の戸田氏経、戸田氏好らに各4000石、戸田氏利に5000石を新田で分与した。
第3代藩主・戸田氏西は延宝2年(1674年)2月に弟の戸田氏広に新田2000石を分与した。延宝8年(1680年)からは延宝の大暇と称された藩政改革を行ったが、貞享元年(1684年)6月に死去したため、改革は失敗した。
第4代藩主・戸田氏定は貞享5年(1688年)7月、弟の戸田氏成に新田3000石を分与し、氏成は養父の氏利の知行と合わせて1万石を領する大名となり、大垣藩の支藩・大垣新田藩が立藩された。
元禄14年(1701年)3月、氏定の従弟である浅野長矩が吉良義央に刃傷を起こし切腹となる。長矩切腹を聞いた江戸の町人や浪人が、赤穂藩邸に忍び込んだり押し入ったりして暴れる者が続出し、人数は四、五十人にも及んだ。大垣藩からも取り締まりと警護のものが派遣されている[1]。なお、氏定は連座により老中の命で5月まで出仕停止とされた。
第6代藩主・戸田氏英は延享4年(1747年)から延享の永御暇と称された藩政改革に着手したが、年貢増徴を行ったため明和3年(1766年)に百姓一揆が起こって失敗した。
第7代藩主・戸田氏教は上野国館林藩主・松平武元の実子であり、その縁故で老中に抜擢されて幕政に参与した。
第8代藩主・戸田氏庸は天保11年(1840年)、藩校である致道館(後の敬教堂)を創設した。
第9代藩主・戸田氏正は、城代の小原鉄心と共に藩政改革を行い、安政3年(1856年)には軍制改革も行った。第10代藩主・戸田氏彬も藩政改革を行うが、安政の大獄で挫折した。
第11代藩主・戸田氏共は第2次長州征伐に参加し、慶応2年(1866年)から藩政改革を断行している。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは大垣軍と新政府軍が戦い、朝敵に指定される(藩主の入京禁止)。しかし新政府に召されていた家臣の小原鉄心は直ちに大垣に帰国して先々代藩主である氏正とともに氏共や佐幕派を説得して尊王派に藩論を統一して謝罪、戊辰戦争では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めている。そのため、明治元年8月には鳥羽・伏見の戦いに関連して同年4月に受けた処分が解除され[2]、2年(1869年)6月に新政府から賞典禄3万石が下賜された。直後の版籍奉還で氏共は大垣藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により大垣藩は廃藩となり、大垣県を経て岐阜県に編入された。
明治17年(1884年)に華族令が公布されると、氏共は伯爵に叙せられた。氏共は昭和11年(1936年)まで存命して長寿を保った。また、家老の小原家は鉄心の明治維新時の活動が功績とされ、1900年(明治33年)に男爵に叙せられている。
歴代藩主
[編集]石川家
[編集]5万石 譜代
松平(久松)家
[編集]2万石 親藩
岡部家
[編集]5万石 譜代
松平(久松)家
[編集]6万石 親藩
戸田家
[編集]10万石 譜代
- 戸田氏鉄(うじかね) 従四位下 采女正
- 戸田氏信(うじのぶ) 従四位下 采女正
- 戸田氏西(うじあき) 従四位下 但馬守
- 戸田氏定(うじさだ) 従五位下 采女正
- 戸田氏長(うじなが) 従四位下 伊勢守
- 戸田氏英(うじひで) 従五位下 采女正
- 戸田氏教(うじのり) 従四位下 采女正(奏者番・寺社奉行・側用人・老中)
- 戸田氏庸(うじつね) 従五位下 采女正
- 戸田氏正(うじまさ) 従四位下 采女正
- 戸田氏彬(うじあきら) 従四位下 采女正
- 戸田氏共(うじたか) 従四位下 采女正 侍従
家老(戸田家)
[編集]- 大高金右衛門家
- 大高一度-孝親(知行2000石)=清度(孝親の弟)-重度=在度(和田義知の子)-故度-道度-集度-喬度(文武館総裁・軍事総裁・家老)-幸一郎
- 戸田治部左衛門家
- 戸田縫殿家
- 戸田権大夫家
- 戸田五郎左衛門家
- 戸田氏頼(戸田氏鉄四男知行1300石)-重春-頼雄(知行1000石)-輝頼-景頼-義頼-頼及-主税=五郎右衛門(戸田三弥次男)
- 小原氏(大垣藩内750石・重臣)維新後、男爵。
- 小原忠豊(100石)-忠顕(城代750石)-忠珍=忠辰(戸田儀右衛門義豊次男)-能右(850石)=能令(戸田儀右衛門義泰四男500石)-忠行-忠寛(鉄心)=忠迪
幕末の領地
[編集]上記のほか、厚見郡12村、石津郡5村、多芸郡11村、不破郡20村、安八郡16村、池田郡1村、大野郡6村、本巣郡23村、席田郡1村、方県郡6村の幕府領を預かったが、全域が笠松県に編入された。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大垣市史』
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]先代 (美濃国) | 行政区の変遷 1600年 - 1871年 (大垣藩→大垣県) | 次代 岐阜県 |