安平鹿一

安平鹿一
やすひら しかいち
生年月日 1902年1月3日
出生地 日本の旗 日本 愛媛県温泉郡荏原村
(現・愛媛県松山市
没年月日 (1967-01-17) 1967年1月17日(65歳没)
死没地 日本の旗 日本 愛媛県温泉郡久谷村
(現・愛媛県松山市)
出身校 荏原尋常高等小学校
所属政党日本無産党→)
日本社会党→)
左派社会党→)
日本社会党

選挙区 (愛媛県全県選挙区→)
旧愛媛1区→)
旧愛媛2区
当選回数 6回
在任期間 1946年 - 1948年12月23日
1952年10月1日 - 1958年4月25日
1960年11月20日 - 1963年10月23日



荏原町会議員
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安平 鹿一(やすひら しかいち、1902年1月3日1967年1月17日) は、日本の労働運動家、政治家日本社会党衆議院議員(6期)。

経歴[編集]

愛媛県温泉郡荏原村大字中野(現在の松山市中野町)で安平金次郎・コマの3男として生まれた[1][2]

1918年に荏原尋常高等小学校(現在の松山市立荏原小学校)を卒業後上京し、旋盤工などを務めながら社会主義運動と労働運動に加わり、東京鉄工組合理事となる。1926年日本無産党に入り、活動する[1]。その傍ら1929年に東京府荏原町議、1936年に東京市議、翌年東京府議を歴任する[2]1937年12月15日、人民戦線事件で検挙され[3]、第1審判決で懲役2年を申し渡されるも控訴。1945年10月の治安維持法廃止により免訴となった[4]

終戦後の1945年11月に結成された日本社会党および翌年結成された日本労働組合総同盟の中央執行委員となる[5]1946年第22回衆議院議員総選挙で郷里の愛媛県全県区から立候補して当選。翌年の第23回衆議院議員総選挙でも愛媛1区から出馬して当選したが、1949年第24回衆議院議員総選挙では落選した[6]1951年の社会党分裂時には左派に属し、翌年の第25回衆議院議員総選挙愛媛2区に鞍替えして当選[7]1955年の社会党再統一時に中央執行委員・組織局長となる[8]

衆議院議員は6期務め、党本部総務局長、国会対策副委員長などを歴任した[2]1954年に社会党訪中使節団の代表として訪中し、1957年列国議会同盟総会に衆議院代表として渡英、1962年には全面軍縮と平和のための世界大会(モスクワ)に出席した[2][9]

1963年9月に体調を崩し、脳軟化症と診断されたため同年11月の第30回衆議院議員総選挙への出馬を断念し[10]1965年に療養のため帰郷したが[2]1967年1月17日、久谷村の自宅で死亡した。当初の死因は脳出血とされたが、2日後に社会党愛媛県本部と夫人が縊死の事実を確認したうえで、これを公表した[11]

葬儀は1月18日に密葬で、2月19日に党葬で行われた。墓は松山市中野町の心行寺墓地にある[12]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『安平鹿一先生を偲ぶ』 87頁
  2. ^ a b c d e 『久谷村史』 643-644頁
  3. ^ 朝日新聞』1944年9月26日二面
  4. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 11-12頁
  5. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 89頁
  6. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 89-90頁
  7. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 90-91頁
  8. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 92頁
  9. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 92-95頁
  10. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 95-96頁
  11. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 169頁
  12. ^ 『安平鹿一先生を偲ぶ』 97頁

参考文献[編集]

  • 久谷村史編纂委員会 『久谷村史』 1967年10月。
  • 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』 大蔵省印刷局、1990年11月。
  • 安平鹿一先生を偲ぶ編纂委員会 『安平鹿一先生を偲ぶ』 日本社会党新居浜総支部、1992年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』 日外アソシエーツ2003年(平成15年)。

関連項目[編集]

議会
先代
山下栄二 (代理)
日本の旗 衆議院内閣委員長
1948年
次代
綱島正興