射水川成吉

射水川 成吉
基礎情報
四股名 射水川 成吉
本名 八木 成吉
生年月日 1906年2月10日
没年月日 (1945-03-10) 1945年3月10日(39歳没)
出身 愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市
身長 165cm
体重 98kg
BMI 36.00
所属部屋 高砂部屋
得意技 押し、左四つ
成績
現在の番付 引退
最高位前頭4枚目
生涯戦歴 84勝106敗7休(20場所)
幕内戦歴 61勝80敗2休(13場所)
優勝 幕下優勝1回
データ
初土俵 1924年5月場所
入幕 1932年2月場所
引退 1939年1月場所
備考
2019年7月13日現在

射水川 成吉(いみずがわしげきち、1906年2月10日 - 1945年3月10日[1])は、愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は八木 成吉(やぎ しげきち)[2]

経歴

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1906年2月10日愛媛県温泉郡(現:愛媛県松山市)で生まれる。地元の土地相撲で大関を務め、その経歴を買われて高砂部屋へ入門し、1924年5月場所において幕下付け出しで初土俵を踏んだが、その場所を負け越してしまい、翌場所は一気に序二段まで降格された。1932年1月に勃発した春秋園事件の影響で十両を飛び越えて新入幕を果たすが、1938年5月場所において二度目となる十両降格を味わい、1939年1月場所を最後に現役を引退[2]、年寄・大山を襲名した後、岩友・西岩の順に変更した。

押し相撲で、組んでは左四つを得意とした[2]

1945年3月10日の東京大空襲によって死亡、38歳没[2]。この空襲で豊嶌雅男枩浦潟達也琴ヶ浦善治郎(世話人)も犠牲となった。

成績

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  • 通算成績:84勝106敗7休 勝率.442
  • 幕内成績:61勝80敗2休 勝率.433
  • 通算在位:20場所
  • 幕内在位:13場所
  • 各段優勝
    • 幕下優勝:1回(1931年10月場所)

場所別成績

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射水川 成吉
春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1924年
(大正13年)
x x 幕下付出
1–5 
x
1925年
(大正14年)
東序二段35枚目
5–1 
x 西序二段2枚目
4–2 
x
1926年
(大正15年)
東三段目29枚目
3–3 
x 東三段目34枚目
5–1 
x
1927年
(昭和2年)
西三段目9枚目
4–2 
西三段目9枚目
3–3 
東幕下32枚目
3–3 
東三段目9枚目
2–1 
1928年
(昭和3年)
西幕下23枚目
4–2 
東幕下26枚目
0–3 
西幕下11枚目
1–5 
西幕下11枚目
3–3 
1929年
(昭和4年)
東幕下33枚目
3–3 
東幕下33枚目
4–2 
西幕下17枚目
4–2 
西幕下17枚目
3–3 
1930年
(昭和5年)
西幕下7枚目
2–5 
西幕下7枚目
5–3 
東幕下11枚目
2–4 
東幕下11枚目
3–2
1分
 
1931年
(昭和6年)
西幕下16枚目
5–1 
西幕下16枚目
2–4 
西幕下9枚目
2–4 
西幕下9枚目
優勝
6–0
1932年
(昭和7年)
東前頭6枚目
4–4 
東前頭6枚目
7–3 
東前頭4枚目
4–7 
東前頭4枚目
5–6 
1933年
(昭和8年)
東前頭9枚目
5–6 
x 東前頭14枚目
6–5 
x
1934年
(昭和9年)
東前頭11枚目
2–7–2[3] 
x 西十両筆頭
5–6 
x
1935年
(昭和10年)
西十両5枚目
7–4 
x 東前頭15枚目
4–7 
x
1936年
(昭和11年)
東前頭16枚目
7–4 
x 西前頭11枚目
3–8 
x
1937年
(昭和12年)
西前頭16枚目
7–4 
x 西前頭9枚目
4–9 
x
1938年
(昭和13年)
西前頭15枚目
3–10 
x 西十両5枚目
4–9 
x
1939年
(昭和14年)
東十両12枚目
引退
1–7–5
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 1932年1月番付は幕下西2枚目

脚注

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  1. ^ 相撲人名鑑「射水川 成吉」(アーカイブ)
  2. ^ a b c d ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p21
  3. ^ 睾丸炎により9日目から途中休場

関連項目

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