成田蒼虬
成田 蒼虬(なりた そうきゅう、宝暦11年(1761年)- 天保13年3月13日(1842年4月23日)[1])は、江戸時代後期の俳人である。名は利定[1]。通称は彦助・久左衛門など数多く伝わる[1]。別号に槐庵、南無庵、芭蕉堂二世。
経歴・人物
[編集]加賀金沢袋町南側小路に、金沢藩士成田勘左衛門の子として生まれる[1]。1790年(寛政2年)頃に高桑闌更の門下に入り[1]、上田馬来に師事する[1]。槐庵二世を継ぐも、父の獄死と知行没収を経て上京[1]。闌更を頼り、彼の死後は東山芭蕉堂を継いだ[1]。ただし、芭蕉道南無庵の号については、闌更の妻得終尼との間に不和が生じたと伝わる[1]。以降、たびたび金沢に帰郷している。1835年(天保6年)芭蕉堂南無庵を千崖に譲り[1]、京都の八坂に対塔庵を結び[1]、天保俳壇のリーダーとして活躍した[1]。桜井梅室、田川鳳朗と共に「天保の三大家」と称された[1]。
追善集として『夏かはづ』『をりそえ集』『夕ばえ』などがあり[1]、発句集・俳諧集として『訂正蒼虬翁句集』『蒼虬翁俳諧集』などがある[1]。