東京渡辺銀行
東京渡辺銀行(とうきょうわたなべぎんこう)は、かつて日本に存在した銀行。昭和金融恐慌により経営が破綻した。
概要
[編集]1877年(明治10年)に第二十七国立銀行として設立され、1904年(明治37年)に二十七銀行と改称。この時、資本金額を30万円から100万円に増資[1]。
1920年(大正9年)2月の好況期に行名を東京渡辺銀行と改称し、500万円に増資した[2]。
だが、余りの放漫経営が続いたことから、関東大震災後には極端に経営が悪化。不動産を抵当として勧業銀行から約700万円の融通を受け[3]辛くも資金繰りに成功したが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌には耐えられなかった。同年3月14日に第52回帝國議会で大蔵大臣片岡直温が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。」と失言[4]。翌3月15日午前4時までに重役会の協議を経て本支店の休業を決断する。日本橋の本材木町の本店には「整理のため本日より向こう二週間休業仕り候なり」との貼り紙が出された[5]。姉妹行の「あかぢ貯蓄銀行」(1913年(大正2年)に福岡から移転、改称した、元・豊岡貯蓄銀行)も同時に閉鎖し、経営破綻した。破綻当時の頭取は10代 渡辺治右衛門。その後、1928年6月29日に破産宣告を受けた。
歌舞伎研究・批評家の渡辺保は東京渡辺銀行のオーナー一族であった渡辺家の子孫である[6]。
脚注
[編集]- ^ 1904年(明治37年)に資本金が30万円から100万円に増資されたが、「戦前日本における資本市場の生成と発展:東京株式取引所への株式上場を中心として」掲載の「表5 東京株式取引所上場会社の規模分布(公称資本金)」 (PDF, 182 KB) (岡崎哲二・浜尾泰・星岳雄)に拠れば、1900年の東京株式取引所上場会社の公称資本金は、次の通り。最大値は66,000千円、最小値は80千円、Obs.:96
- ^ 1920年(大正9年)に資本金が500万円に増資されたが、「戦前日本における資本市場の生成と発展:東京株式取引所への株式上場を中心として」掲載の「表5 東京株式取引所上場会社の規模分布(公称資本金)」 (PDF, 182 KB) (岡崎哲二・浜尾泰・星岳雄)に拠れば、1915年(大正4年)と1925年(大正14年)の東京株式取引所上場会社の公称資本金は、それぞれ最大値は200,000千円と440,000千円、最小値は50千円と63千円、平均値は8,141千円と11,705千円であった。
- ^ 大株主は渡辺一族、東京渡辺銀行『東京日日新聞』昭和2年3月15日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p96 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 破綻せぬ銀行を破綻したと声明 片岡蔵相口をすべらす - 大阪毎日新聞 1927年(昭和2年)3月15日
- ^ 東京渡辺・あかぢ両銀行に預金者殺到『中外商業新報』昭和2年3月16日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p96)
- ^ Sataka, Makoto; 佐高信 (Heisei 16 [2004]). Shitsugen kyōkō : dokyumento ginkō hōkai (Shohan ed.). Tōkyō: Kadokawa Shoten. ISBN 4-04-377501-6. OCLC 60800283
参考文献
[編集]- 佐高信『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』(1995年、現代教養文庫)
- 佐高信『失言恐慌 ドキュメント銀行崩壊』(2004年、角川文庫) ISBN 4-04-377501-6
- 佐高信『昭和恐慌の隠された歴史 蔵相発言で破綻した東京渡辺銀行』(2012年、七つ森書館)