榊原良行
兄弟エレファンツコーチ時代(2011年) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県浜松市 |
生年月日 | 1949年6月13日 |
没年月日 | 2023年11月26日(74歳没) |
身長 体重 | 175 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1974年 ドラフト4位 |
初出場 | 1975年4月6日 |
最終出場 | 1984年6月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について |
榊原 良行(さかきばら よしゆき、1949年6月13日 - 2023年11月26日[1])は、静岡県浜松市[2]出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。娘は元バスケットボール女子日本代表主将の榊原紀子。
来歴・人物
[編集]プロ入り前
[編集]浜松商では、3年次の1967年に主将兼遊撃手として夏の甲子園静岡県予選決勝に進出。エース松下勝実を擁する清水東高に1-0で辛勝して第49回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の1回戦で土佐高の萩野友康に苦しめられ、延長11回の末に3-6で敗退[3]。
高校卒業後は1968年に中央大学へ進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1970年秋季リーグに優勝。この時の主戦投手は高校の1年先輩である杉田久雄であった。同年の第1回明治神宮野球大会に出場するが、2回戦でエース川端理史を擁する東海大に敗退。4年次の1971年春季リーグでは二塁手としてベストナインに選出される。大学同期に外野手の四至本博がいた。
大学卒業後の1972年には日本楽器へ入社。同年の都市対抗では新美敏、池谷公二郎の好投もあって勝ち進み、決勝で三菱自動車川崎を降し初優勝を飾る。その後も1974年まで都市対抗に3年連続出場を果たした。国際大会では1972年に第20回アマチュア野球世界選手権日本代表に初選出される。1973年には第1回インターコンチネンタルカップ日本代表として優勝に貢献。同年は第10回アジア野球選手権大会の日本代表にも選出された。
現役時代
[編集]1974年のドラフト4位で阪神タイガースに入団[2]し、1年目の1975年から一軍に定着。
バット[注 1]の半分あたりを短く持って振りぬく打撃[4]と堅実な守備、正確なバントなど野球技術の高さを武器に、内野ならどこでも守れる[4]ユーティリティープレーヤーとして1977年から1980年まで4年連続で100試合以上に出場した。
1978年には藤田平の腰痛による一塁手コンバートもあって、シーズン後半に遊撃手の定位置を確保し、初めて規定打席に到達(24位、打率.288)[2]。
1979年には真弓明信が移籍してきたため二塁手に回り、両年とも主に2番打者として繋ぎ役に徹した。
1980年からは岡田彰布と二遊間を組むなど、堅実なプレーで内野を引き締め、岡田も「バラさん」と呼ぶなど仲間にも親しまれた[5]。
1981年オフに大学の1年先輩にあたる宇田東植とのトレードで日本ハムファイターズに移籍[2]。ここでも主に二塁手として起用されるが、1984年限りで現役を引退[2]。
現役引退後
[編集]引退後は日本ハム(1985年二軍守備・走塁コーチ)、古巣・阪神(1986年 - 1987年一軍守備・走塁コーチ, 1991年二軍内野守備・走塁コーチ, 1992年 - 1995年一軍内野守備・走塁コーチ, 1996年一軍内野守備コーチ, 1997年 - 1998年二軍内野守備コーチ)、中日(1988年 - 1989年一軍走塁コーチ, 1990年一軍内野守備コーチ)、台湾プロ野球・兄弟(1999年 - 2001年内野コーチ, 2002年 - 2005年ヘッド兼内野コーチ, 2011年 - 2012年ヘッドコーチ)、京都ファイアーバーズ(2006年 - 2010年コーチ)、台湾社会人・崇越科技(2013年 - 2014年ヘッドコーチ)でコーチを務めた。
阪神コーチ時代は基本重視の育成法[6]、丁寧で情熱的な指導に定評があり[5]、ハッスル指導が持ち味で[6]若手の育成に当たった[5]。
中日コーチへは星野仙一監督の招聘で就任し、1988年のリーグ優勝に貢献。
兄弟コーチ1期目は中山俊丈監督の招聘で就任し、チーム2度目の3連覇(2001年 - 2003年)を支えた[7]。在任中は阪神から戦力外通告を受けた横田久則を誘った[8]ほか、2004年には3試合だけ代理監督を務めた。
プライベートでは父親や友達のように接したが、練習の間や試合後は生真面目なコーチとして厳しく指導し、2期目には王勝偉を直接指導でリーグを代表する遊撃手に成長させた[7]。9年間在籍した兄弟では、王や5度の首位打者に輝いた彭政閔など多くの教え子から「恩師」として慕われ、王はコロナ前に毎年のように榊原を台湾に招いていた[7]。
2023年11月26日、愛知県名古屋市の病院で肺炎のため死去。74歳没[1]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975 | 阪神 | 47 | 65 | 56 | 10 | 11 | 3 | 0 | 0 | 14 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | 1 | 8 | 0 | .196 | .308 | .250 | .558 |
1976 | 64 | 122 | 104 | 12 | 22 | 4 | 0 | 2 | 32 | 6 | 4 | 1 | 5 | 1 | 11 | 2 | 1 | 24 | 1 | .212 | .291 | .308 | .598 | |
1977 | 100 | 234 | 195 | 29 | 43 | 7 | 1 | 7 | 73 | 21 | 2 | 3 | 16 | 1 | 22 | 1 | 0 | 31 | 5 | .221 | .298 | .374 | .673 | |
1978 | 105 | 423 | 358 | 50 | 103 | 20 | 0 | 3 | 132 | 28 | 8 | 8 | 17 | 2 | 36 | 1 | 10 | 47 | 7 | .288 | .367 | .369 | .736 | |
1979 | 106 | 353 | 321 | 32 | 81 | 11 | 0 | 4 | 104 | 14 | 2 | 7 | 2 | 1 | 24 | 0 | 5 | 51 | 8 | .252 | .313 | .324 | .637 | |
1980 | 105 | 274 | 231 | 30 | 59 | 5 | 1 | 2 | 72 | 11 | 5 | 3 | 16 | 0 | 26 | 1 | 1 | 34 | 4 | .255 | .333 | .312 | .645 | |
1981 | 41 | 78 | 65 | 9 | 13 | 1 | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 8 | 1 | 0 | 11 | 2 | .200 | .288 | .215 | .503 | |
1982 | 日本ハム | 48 | 104 | 95 | 9 | 27 | 7 | 1 | 1 | 39 | 7 | 1 | 1 | 2 | 0 | 6 | 0 | 1 | 11 | 4 | .284 | .333 | .411 | .744 |
1983 | 65 | 144 | 118 | 14 | 27 | 5 | 0 | 1 | 35 | 8 | 2 | 1 | 7 | 1 | 18 | 0 | 0 | 17 | 2 | .229 | .328 | .297 | .625 | |
1984 | 8 | 12 | 9 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .111 | .111 | .111 | .222 | |
通算:10年 | 689 | 1809 | 1552 | 197 | 387 | 63 | 3 | 20 | 516 | 96 | 25 | 25 | 73 | 6 | 159 | 7 | 19 | 234 | 33 | .249 | .325 | .332 | .658 |
記録
[編集]- 初出場:1975年4月6日、対中日ドラゴンズ3回戦(中日スタヂアム)、7回表に遠井吾郎の代走として出場
- 初先発出場:1975年4月23日、対ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、8番・遊撃手として先発出場
- 初安打:同上、2回表に井原慎一朗から左前安打
- 初打点:1975年5月24日、対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、8回表に西井哲夫から
- 初本塁打:1976年9月16日、対読売ジャイアンツ21回戦(後楽園球場)、5回表に加藤初からソロ
背番号
[編集]- 37 (1975年 - 1981年)
- 31 (1982年 - 1985年)
- 85 (1986年 - 1987年)
- 76 (1988年 - 2005年、2011年 - 2012年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “元阪神・榊原良行氏が肺炎で死去 74歳 現役時代は岡田監督ともプレー”. デイリースポーツ. (2023年11月26日) 2023年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、242ページ
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ a b 阪神、日本ハムで活躍 榊原良行さん肺炎で死去 74歳 引退後は阪神コーチなどを歴任― スポニチ Sponichi Annex 野球
- ^ a b c 「バラさん」逝く…阪神、日本ハムで活躍した榊原良行さんが74歳で死去 岡田監督と二遊間コンビ - プロ野球 : 日刊スポーツ
- ^ a b 大阪日刊スポーツ・なにわWEB・阪神タイガース98陣容
- ^ a b c “元阪神・榊原良行氏死去 「台湾の野球環境へのプラス影響大きく」教え子悼む”. フォーカス台湾. 2023年11月30日閲覧。
- ^ 【台湾プロ野球だより】第6の球団、台鋼ホークスの投手コーチに元西武の横田久則氏が就任|パ・リーグ.com|プロ野球
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 榊原良行 - NPB.jp 日本野球機構