横山虎雄

よこやま とらお

横山 虎雄
生誕 渋沢虎雄
1889年明治22年)6月
死没 1953年昭和28年)12月24日
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学工科大学
職業 建築家釜石製鉄所第3代所長
配偶者 花子(横山久太郎の養女)
渋沢長忠(六代渋沢宗助、実父)
横山久太郎(養父)
親戚 横山長次郎(養兄)
横山康吉(甥)
澁澤龍彦(甥)
田中長一郎(従兄弟)
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横山 虎雄(よこやま とらお、1889年 - 1953年)は、日本の建築家であり経営者。日本近代製鉄の礎を築いた釜石製鉄所の第3代所長を務める。渋沢氏出身で横山久太郎の婿養子となった。

生涯[編集]

埼玉県の八基村血洗島で六代・渋沢宗助(長忠)の二男、渋沢虎雄として生まれる[1]。生家である東ノ家(ひがしんち)は渋沢一族の中でも特に栄えており、養蚕や生糸の貿易で巨万の富を築いていたが、父・長忠は放蕩に明け暮れ地元にも帰らず、財産の大半を一代で使ってしまう[2]。虎雄は1906年(明治39年)に東京府立第一中学校を卒業し[3][注 1]、進学した岡山県の第六高等学校では庭球部に所属。1909年(明治42年)11月に開催された関西庭球大会では激戦の末ダブルスで優勝を飾った[4]。1910年(明治43年)に同校を卒業[5]して東京帝大工科大学へと進み、1913年(大正2年)に造家科(建築科)を卒業[6][7]渋沢栄一の紹介で清水組(清水建設)に入り、技師長・田辺淳吉の下で、田中実[注 2]西村好時、堀越三郎、小笹徳蔵らと共に技術部(設計部)に属した[8][9]。1915年(大正4年)には有楽町の共保生命保険[10]の木造建築を担当した他、郷里の血洗島にある諏訪神社に拝殿を建てたいという栄一の依頼[注 3]を受け、後に名古屋帝国大学の初代総長となる渋沢元治工学博士と共にその設計に当たる。東京の人間ばかりでは現地の人の心が近づかないとし、鳶頭や棟梁には現地の人を採用し建築を進めた[11]。1916年(大正5年)9月竣工。

翌1917年(大正6年)1月に27歳で清水組を退職したのち田中鉱山株式会社に入社。八幡製鉄所に先駆け日本で初めて成功を収めた岩手県釜石の同社製鉄所で勤務した。1918年(大正7年)9月には釜石電燈[注 4]の取締役に就き[13]、同年製鉄所所長・横山久太郎の養女・花子[注 5]と婚姻、横山家の婿養子となった[注 6]。翌1919年(大正8年)には4月の大火で焼けた釜石電燈(株)の社屋を設計、耐火性を考慮して煉瓦石造とする[注 7]。施工は東京帝大時代に造家科の同窓だった二代目・戸田利兵衛(旧名・富田繁秋)が社長を務める東京の戸田組が行った。1920年(大正9年)5月からは前年の労働争議の煽りを受けて辞任した中大路氏道に代わり、虎雄が釜石製鉄所の第3代所長を務めることになった[17]。次長(技師長)は高炉の鬼と呼ばれた中田義算[注 8]。所長就任から半年、同年11月には当時庶務主任だった三鬼隆の発案とされる釜石の大運動会が開催され、職員・工員にその家族も参加して大きな賑わいを見せたが、この件で中田の怒りを買った三鬼はわずか一年で東京の本店へ異動させられている。1920年(大正9年)10月には釜石活動写真株式会社[注 9]が、1921年(大正10年)10月には三陸水産冷蔵株式会社[注 10]がそれぞれ釜石町に設立され、虎雄はそれらの取締役に就任。1922年(大正11年)3月には東京別宅で病気療養中だった養父・久太郎が亡くなった。

第一次大戦後の長引く不況のため虎雄の所長就任以前から田中鉱山の業績は厳しい状態が続いていたが、1924年(大正13年)3月についに経営破綻。釜石鉱山と製鉄所の経営権が田中家の手から離れ三井鉱山に移譲された。所長を退いた虎雄は東京へ移住。新体制下の釜石鉱山で監査役に選任され[注 11]、1928年(昭和3年)7月まで同職[21][注 12]を務めた。その後は麹町区丸ノ内有楽館に横山建築事務所[23][注 13]を開設。1930年(昭和5年)には関東大震災で倒壊した横浜市南区の西教寺本堂の再建を受けその設計を行う。施工は大林組で同年5月起工、翌年1931年(昭和6年)5月に竣工した。同建築は伝統的な浄土真宗的様式を踏まえつつ、コンクリートやガラスなどの近代的素材で造った点が評価されている[25]

1931年(昭和6年)10月、虎雄は42歳で三陸汽船の取締役に就任。1944年(昭和19年)に国策による戦時統合で三陸汽船が栗林商船に吸収合併された後は同社監査役を務めた[26]。虎雄は多くの子に恵まれ、1953年(昭和28年)12月24日に満64歳で永眠[27]

家族・親族[編集]

  • 渋沢長忠(六代宗助、実父)- 放蕩を続け、東ノ家が代々築いてきた財産の大半を一代で使い果たした。
  • 渋沢長康(兄)- 六代宗助の長男。東京毛織物株式会社購買係長[注 14]。病弱のため弟の武が東ノ家七代目を継いだ[2]
  • 渋沢武(弟)- 六代宗助の三男。東京帝大法科を卒業後、三井物産石炭部を経て武州銀行に入る。入間川支店他の支配人を務め、後に同銀行の検査役[31][32]。妻の節子は衆議院議員・磯部保次の養女[33]
  • 澁澤龍彦(甥)- 1928年5月生まれ。武の長男であり本名は龍雄。作家として高丘親王航海記などで知られる。
  • 渋沢栄一 - 虎雄の曾祖父である三代・渋沢宗助(徳厚)の甥に当たる[注 15]
  • 横山久太郎(養父)- 釜石製鉄所の初代所長。虎雄を婿養子とした。妻のモトは初代・田中長兵衛の二女。
  • 二代目・田中長兵衛(伯父)- 養母・モトの実兄。田中鉱山社長。
  • 横山長次郎(養兄)- 久太郎の長男で参松工業の創業者。日本で最初に酸糖化法によるブドウ糖生産の事業化に成功した。妻の勝は慶應義塾長を務めた小泉信三の妹[35]
  • 花子(妻)- 香蘭女学校卒業。日本橋本石町で鼈甲商・小間物商を営む金子傳八と妻きち(モトの妹)の四女で、伯父である横山久太郎の養女となった[36]。1898年7月生まれ。
  • 智子(長女)- 1919年6月生まれ。聖心女子学院卒業。田中虎之輔(田中銀之助の弟)の長男で、上智大商学部を出て富士観光の経理部長を務めた田中一之助(1911年生)に嫁ぐ[37][38]
  • 敏子(二女)- 1921年9月生まれ。聖心女子学院卒業。中大路氏道(釜石製鉄所第2代所長)の養子で、東京大学政治学科を出て仙台及び名古屋の陸運局長を経て首都高速道路公団理事となった中大路俊安(1912年生)[注 16][40]に嫁いだ。
  • 壽雄(長男)- 1923年5月生まれ。麻布中学より慶應大を経て貿易商社の森村商事に入社。常務取締役を務めた[41]
  • 達雄(二男)- 1925年8月生まれ。麻布中学校出身。
  • 照雄(三男)- 1927年5月生まれ。麻布中学校出身[23]
  • 忠雄(四男)- 1931年6月生まれ[38]
  • 染子(義姉)- 金子傳八の二女。夫は虎雄が釜石製鉄所所長の時期に次長(技師長)を務めた中田義算(1880年生)。
  • 君子(義姉)- 金子傳八の三女。夫は日本橋堺町の呉服太物商・小川専之助

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一年後輩(明治40年卒業生)に後に同じ田中鉱山株式会社で働く田中七之助がいる。
  2. ^ 辰野金吾の愛弟子として旧唐津銀行本店を設計した。
  3. ^ この際同時に社務所も新築。併せて一万円の費用が渋沢栄一より寄付された。
  4. ^ 釜石電燈株式会社は大正元年に設立され、釜石に初めて電燈をもたらす。後に釜石市長となる沢田権左エ門が準備をし横山久太郎が社長を引き受けた[12]
  5. ^ 初代・田中長兵衛の三女・きちと金子傳八の間に四女として生まれ、伯父である横山久太郎の養女となった。
  6. ^ 渋沢虎雄から横山虎雄となり、住所も岩手県に移した[14]
  7. ^ 1919(大正8年)年5月に着工し、1921年(大正10年)6月に竣工。併せて製鉄所の附属病院や山神社その他(これらは木造)も受注、請負金は106,500円[15]。なお釜石は海風の影響で火事が広がりやすく、4月の火事からわずか4か月後の8月にも400戸を焼失する大火に見舞われている[16]
  8. ^ この頃の実権は9つ年上で東京帝大冶金科卒、1909年(明治42年)から釜石で経験を積んでいた次長の中田義算にあったと言われる[18]。中田の妻・染子は金子傳八の二女で虎雄の妻・花子の実姉でもある。
  9. ^ 取締役社長・中田義算(釜石製鉄所技師長兼次長)、取締役・横山虎雄、他。資本金3万円[19]。1921年(大正10年)秋の釜石では運動会に代わり活動写真上映会が行われた。
  10. ^ 取締役社長・金田一國士金田一京助の祖父の養子)、取締役・横山虎雄。資本金40万円[20]
  11. ^ 釜石鉱山株式会社、資本金二千万円。取締役会長・牧田環。常務取締役・香村小録、西村小次郎、木瀬和吉。取締役・田中長一郎、岩田健三郎。監査役・横山虎雄、今井繁。
  12. ^ 7月12日の総会で虎雄と田中長一郎の役職が解かれる。同月16日、築地の山口で2人の送別会を開催。東京在住の香村小録と吉田長三郎、釜石から中田義算、工藤大助医師が出席した[22]
  13. ^ 自宅は大森区田園調布[24]
  14. ^ 学生時は渋沢篤二の元で深川邸の書生として過ごす[28]。1910年に早稲田大学商学部を卒業[29]し、1916年2月結婚。1921年に渋沢栄一訪米の際は随行した[30]
  15. ^ 三代宗助の長男・新三郎(四代宗助)は神道無念流・大川平兵衛の高弟であり、従兄弟の栄一に剣術を教えた[34]
  16. ^ 氏道の実妹・みつと藤田俊三の二男[39]。実子のない氏道の養子となり家を継いだ。

出典[編集]

  1. ^ 『青淵先生とその郷土:渋沢青淵先生生誕百年記念』血洗島青淵会、1940年、渋沢家本支系図頁。NDLJP:1093330/32 
  2. ^ a b 『渋沢栄一翁と論語の里 整備活用計画』 p.11-12 深谷市、平成26年 (2024年7月11日閲覧)
  3. ^ 『東京府立第一中學校創立五十年史』 如蘭會員及現在生徒名簿 p.38 東京府立第一中學校 編、1929年10月
  4. ^ 『岡山市史 学術体育編』 p.298 岡山市、1964年
  5. ^ 『第六高等学校一覧 自大正7至8年』 p.254 第六高等学校 編、1926年
  6. ^ 『帝国大学出身録』 p.1646 帝国大学出身録編輯所、1922年
  7. ^ 木葉会 編『東京帝国大学工学部建築学科卒業計画図集』 上巻、洪洋社、1928年、PL.98頁。NDLJP:1191298/123 
  8. ^ 『清水建設百五十年』 p.92 清水建設、1954年 2版
  9. ^ 『銀行会社職員録』(6版)日本興業通信社、1917年、会社之部 シ15頁。NDLJP:948746/498 
  10. ^ 『主要建造物年表 明治以降(1868-1958)』 p.4 東京建設業協会、1958年
  11. ^ 『渋沢栄一伝記資料 第41巻』 p.471 竜門社 編、1962年
  12. ^ 昆勇郎 編『写真集明治大正昭和釜石:ふるさとの想い出36』国書刊行会、1979年6月、16頁。NDLJP:9570017/58 
  13. ^ 『官報 1918年10月12日』 第1859号 p.289 大蔵省印刷局 編
  14. ^ 『官報 1918年12月14日』 第1910号 p.348 大蔵省印刷局 編
  15. ^ 『創業追想』 p.111 戸田組旧友会、1961年
  16. ^ 『釜石市誌 年表』 p.116 釜石市誌編纂委員会 編、1965年
  17. ^ 『日本建築要鑑』 ヨ之部 p.96 江村恒一 編、1924年
  18. ^ 『人間三鬼隆』 p.131 山本祐二郎 編、1956年
  19. ^ 『帝国銀行会社要録 : 附・職員録 大正14年版』 巌手県 p.7 帝国興信所、1925年
  20. ^ 『銀行会社要録 : 附・役員録 27版』 岩手県 p.4 東京興信所、1923年
  21. ^ 『釜石製鉄所七十年史』 p.176 富士製鉄釜石製鉄所、1955年
  22. ^ 『香村小録自伝日記』 p.148 香村春雄 編、1939年
  23. ^ a b 『大衆人事録 第14版 東京篇』 p.1078 帝国秘密探偵社、1942年
  24. ^ 『丸之内便覧』(昭和6年 前期版)丸之内通信社、1931年、489頁。NDLJP:1178576/291 
  25. ^ 『ヘリテイジスタイル2021 秋号』 西教寺本堂の魅力 p.3 大野 敏、2021年
  26. ^ 『全国産業総覧 昭和19年版』 p.21 東洋経済新報社、1944年
  27. ^ 『釜石製鉄所七十年史』富士製鉄釜石製鉄所、1955年、530頁。NDLJP:2477257/424 
  28. ^ 『柏葉拾遺』柏窓会、1956年、97頁。NDLJP:2482597/105 
  29. ^ 『会員名簿』(昭和2年11月)早稲田大学校友会、1927年、355頁。NDLJP:1462439/214 
  30. ^ 『渋沢栄一全集』 第4巻、平凡社、1930年、355頁。NDLJP:1241685/297 
  31. ^ 『人事興信録』(第13版上)人事興信所、1941年、シ47頁。NDLJP:3430443/830 
  32. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第4197号、493頁、1926年8月19日。NDLJP:2956347/13 
  33. ^ 『人事興信録』(第8版)人事興信所、1928年、イ170頁。NDLJP:2127124/223 
  34. ^ 野依秀市 編『青淵渋沢栄一翁写真伝』実業の世界社、1941年、青淵澁澤榮一先生小傳 4頁。NDLJP:1683289/172 
  35. ^ 『人事興信録』(6版)人事興信所、1921年、よ17頁。NDLJP:1704027/466 
  36. ^ 『工業』(65)号、工業改良協会出版部工業学院、1914年8月、16頁。NDLJP:1560826/24 
  37. ^ 『人事興信録』(第20版 下)人事興信所、1959年、た14頁。NDLJP:3022519/47 
  38. ^ a b 『人事興信録』(第14版 下)人事興信所、1943年、ヨ18 頁 (横山虎雄の項)。NDLJP:1704455/861 
  39. ^ 『人事興信録 第23版 下』 な之部 p.27 人事興信所、1966年
  40. ^ 人事興信所 編『人事興信録』 第22版 下、1964年、な之部 p.22(中大路俊安の項)。NDLJP:3025539/279 
  41. ^ ダイヤモンド社 編『森村百年史』森村商事、1986年10月、204,234頁。NDLJP:11953136/127 

関連項目[編集]