津田正臣
津田 正臣 つだ まさおみ | |
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生年月日 | 1841年 |
出生地 | 紀伊国和歌山城下 |
没年月日 | 1896年11月 |
称号 | 従五位[1]。 |
親族 | 津田出(元老院議官) |
官選初代 和歌山県知事 | |
在任期間 | 1871年11月25日 - 1872年1月25日 |
津田 正臣(つだ まさおみ、天保12年(1841年) - 明治29年(1896年)11月)は、日本の政治家。初代和歌山県知事(1871年11月25日 - 1872年1月25日)。初名は橘次郎。字は仲相。仮名は監物。号は香巌。
生涯
[編集]天保12年(1841年)、紀州藩士(家禄300石の布衣以上の頭役)津田信徳の次男として生まれた。津田家は河内国交野郡津田城主・楠木正儀の後裔であり、室町時代末期に紀伊国へ移り、藩祖・徳川頼宣入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えており、正臣は楠木正成の18世の子孫にあたるとされる。安政4年(1857年)に病弱な兄・出から家督を譲り受ける。慶応3年(1870年)に「小楠公髻塚碑」建てようとして勤皇家の森田節斎に碑文の選を依頼したといわれ、尊皇思想の持ち主であった[2]。
明治元年(1868年)の紀州藩の藩政改革では、徴士権弁事に任ぜられ、明治4年(1871年)4月には和歌山藩大参事心得となる。同年7月の廃藩置県によって知藩事・徳川茂承が解任されたため、兄が大参事として和歌山県の県政を担当した。その兄が7月28日に明治政府の大蔵少輔に抜擢されると、代わって正臣が大参事心得となり、9月14日に和歌山県大参事兼戊兵督となり実質的な県のトップとなった[3]。
同年11月25日、和歌山県・田辺県・新宮県が廃止されて発足した和歌山県の参事に任命され、まもなく権令に昇格したが、翌明治5年(1872年)1月25日に依願免官となった。
その後は香巌を称して詩歌を楽しむ[4]悠々自適な晩年を過ごし、明治29年(1896年)11月に死去した。享年56。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 『幕末維新第人名事典【下】』新人物往来社、2010年。
- 和歌山県史編さん委員会『和歌山県史 近現代一』和歌山県、1989年。