滋野井公澄

 
滋野井公澄
時代 江戸時代中期
生誕 寛文10年11月21日1671年1月2日
死没 宝暦6年7月25日1756年8月20日
改名 兼成(初名)→公澄→良覚(法名)
諡号 五松軒
官位 正二位権大納言
主君 霊元天皇東山天皇中御門天皇
氏族 高倉家滋野井家
父母 父:高倉永敦、養父:滋野井実光
兄弟 永俊清閑寺熙房室、堅誠、秀旭室、清岡長時室、東園基量室、永元、真舜、堯什、永重永福公澄
甘露寺方長の娘
実全実彦堀河冬輔室、直子(京極宮文仁親王室)
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滋野井 公澄(しげのい きんすみ)は、江戸時代中期の公卿高倉永敦の末子。初名は兼成。号は五松軒。法号は良覚。子に滋野井実全正親町三条実彦・娘(堀河冬輔室)・直子(京極宮文仁親王室)。

経歴

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天和元年(1681年)に滋野井実光の養子となる。貞享3年(1686年)に元服して従五位侍従に叙せられる。貞享4年12月3日に養父が45歳で死去して家督を継ぐ。元禄元年(1688年)に公澄に改名。宝永元年(1704年)に参議に任じられ、翌年に従三位に叙せられる。同6年に霊元上皇院評定衆に任じられて享保9年(1724年)まで務める。享保5年6月2日権大納言に任じられる。享保9年(1724年)正二位に昇進する。享保16年(1731年)に出家するが、4年後に嫡男の実全が急逝したためにその遺児である公麗の養育にあたった。

吉見和幸のもとで有職故実を学び、霊元院政のもとで東園基量平松時方野宮定基とともに「有職四天王」とも称された。また元禄3年(1690年)から享保6年の日記『公澄卿記』26巻や『羽林類葉抄』、『松蔭拾葉』、『簾中装束抄』などの著書がある。

系譜

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関連項目

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