田中静壱

田中 静壱
陸軍中将時代の田中静壱
生誕 1887年10月1日
日本の旗 日本 兵庫県
死没 (1945-08-24) 1945年8月24日(57歳没)
日本の旗 日本 東京都
所属組織 日本陸軍
軍歴 1907 - 1945
最終階級 陸軍大将
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田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は、日本陸軍軍人。官位は陸軍大将従三位勲一等瑞宝章、功三級金鵄勲章

子息には光祐陸士46期)、俊資48期)、祐輔51期)、静雄53期)がおり、いずれも陸軍少佐終戦時)であった。また、第三次ソロモン海戦にて戦艦「比叡」艦長として戦った海軍大佐西田正雄海兵44期)は義弟である。田中、西田両名とも陸大海大軍刀組であったことから、『郷土龍野の誉れ』と地元の新聞にその逸材ぶりを報道された。

経歴

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1887年(明治20年)10月1日、田中菊太郎の次男[注釈 1]として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。実家は赤松満祐の一族を祖先とする大庄屋。

龍野中学校を卒業後、陸軍士官学校第19期兵科歩兵)に進学する。陸士同期は今村均本間雅晴など。 1907年(明治40年)5月31日に陸軍士官学校卒業。1916年(大正5年)、陸軍大学校第28期)を優等で卒業し、英国オックスフォード大学留学の恩典を与えられた。

その後はメキシコ駐在武官参謀本部欧米課班長を経て、1932年(昭和7年)からは2年間にわたって駐米陸軍武官としてワシントンD.C.に駐在するなど、知米派軍人としての道を歩む。アメリカでは当時米陸軍参謀総長に就任したばかりのマッカーサーとも親交があった[1]。指揮官としては渡米直前に水戸歩兵第2連隊を率いて第一次上海事変で初の戦闘に参加した。

将官昇進後は満州警備の歩兵第5旅団長の後、関東憲兵隊司令官、二度にわたる憲兵司令官など、憲兵関係の職をのべ4年ほど務めている。再び戦場に出たのは日中戦争支那事変)勃発後の1939年(昭和14年)8月で、第13師団長として約1年にわたって中国戦線を転戦し、特に宜昌作戦で市中一番乗りの功を立て、 第二次襄東作戦に続き感状を授与された。その後、1941年(昭和16年)10月15日、防衛総司令部東部軍の司令官に就任[2]太平洋戦争大東亜戦争)開戦後は1942年(昭和17年)8月、更迭された本間雅晴の後任としてフィリピン平定中の第14軍司令官に親補された。

敗戦当時は東日本の本土防衛を担う第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官。空襲により明治神宮明治宮殿が焼失。帝都防空の責任により進退伺を出すも、昭和天皇に慰留される。

連合国軍上陸に備えて迎撃の計画も練り上げていたが、皮肉にも叛乱鎮圧が田中の最後の任務となった。 1945年(昭和20年)8月14日深夜に宮城事件玉音放送も参照)が発生。翌15日午前2時頃に田中の下へ一報が届くと激怒し「すぐ行く。ぶち殺してやる ! 」と答えたという。一時は副官が押しとどめたが[3]、早朝自ら皇居に乗り込んで叛乱将校を付添憲兵に捕縛させ混乱を収束させるなど鎮圧に貢献。亡き後日本を無事に終戦に導いた立役者とも称されている。

昭和天皇はその働きに対して同日の8月15日夕刻拝謁を賜った。それから9日後の8月24日、田中は、最後の叛乱となった川口放送所占拠事件を鎮圧。その夜、午後11時10分ころ、田中は、司令官自室[注釈 2]拳銃で心臓を撃ち抜き自決[5]。駆けつけた塚本清塚本素山)副官に対して、「万事よろしく頼む」と2回繰り返した[5]。満57歳没。遺品には、自ら信仰した生長の家甘露の法雨が含まれていた。辞世の句は「聖恩の忝けなきに吾は行くなり」[6]。遺書には「将兵一同に代り」との文言があった。自分だけが責任を取れば足りるとして、部下の自決を留めようとしたものと考えられる[5]

8月25日早朝、司令部葬が行われた後、夫人が遺骨を郷里の揖西村に運び、9月9日、現地で近親者のみの葬儀が行われた[7]。墓地はたつの市内にあり、姫新線本竜野駅前には墓地の方角を示す石碑が建てられている。また、市内には田中を称える「陸軍大将田中静壱記功碑」も建立されている[8]。2020年、たつの市立龍野歴史文化資料館は、戦後75年の企画展「あの日を生きた先人たち」を開催。地元出身者であり、終戦時のクーデター未遂を解決に導いた人物として田中を紹介し、資料などを展示した[9]

年譜

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1920年、オックスフォード大学の制服を着た陸軍歩兵大尉当時の田中静壱
田中静壱の自筆『行雲流水』

[注釈 3]

栄典

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勲章等

脚注

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注釈

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  1. ^ のちに長男が養子縁組したため家を継いだ。塚本清『あゝ皇軍最後の日 - 陸軍大将田中靜壹傳』 p.122。
  2. ^ この部屋は第一生命館の元社長室であり、後に連合国軍最高司令官室としてマッカーサーらに使用された[4]
  3. ^ 年譜についてはpurunus.com 田中静壱および塚本・前掲書に依拠している。
  4. ^ New York Times July 19, 1919 戦勝国の一つを代表して兵士50名・将校5名が行進に参加したとある。但し、この記事では田中についての言及はない。

出典

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  1. ^ 塚本、前掲書 p.142。
  2. ^ 東部軍司令官に田中静壱中将『東京日日新聞』(昭和16年10月16日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p786 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 暴発の青年将校説得、宮城守護の田中大将(昭和20年9月19日 毎日新聞(東京) 『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p573
  4. ^ 「旧GHQビル返還」『朝日新聞』1952年7月8日、3頁。 
  5. ^ a b c 半藤一利『日本のいちばん長い日 決定版』文藝春秋、2006年7月10日、352頁。 
  6. ^ 塚本、前掲書 p.104。世紀の自決・田中静壱も見よ。
  7. ^ 東部軍司令部で拳銃自殺(昭和20年9月19日 毎日新聞(東京) 『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p573
  8. ^ 陸軍大将田中静壱記功碑”. たつの市観光協会. 2022年1月22日閲覧。
  9. ^ 将校、詩人が見た戦争 ゆかりの人物の特別展 たつの”. ひょうご おでかけプラス (2021年7月29日). 2022年1月22日閲覧。
  10. ^ 塚本、前掲書 p.211。
  11. ^ アジア歴史資料センター 陸軍大臣宇垣一成外十二名外國勲章受領及佩用ノ件
  12. ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
  13. ^ 中野文庫 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧
  14. ^ 無血終戦の偉勲者田中静壱大将のこと 中嶋與一
  15. ^ 同上
  16. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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