矢橋敬吉
やばし けいきち 矢橋 敬吉 | |
---|---|
生誕 | 1859年(安政6年)10月16日 日本 |
死没 | 没年不詳 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
職業 | 実業家 大地主 |
活動期間 | 19世紀 |
活動拠点 | 岐阜県 美濃赤坂 |
純資産 | 岐阜県多額納税者 |
肩書き | 株式会社赤坂銀行(十六銀行の前身)・取締役 |
配偶者 | ? |
非婚配偶者 | 矢守わくり |
子供 | 矢橋龍吉(長男)[1] 矢橋次郎(二男)[1] 矢橋須三(三男)[1] 矢橋廣治(四男)[1] 矢橋辨治(五男)[1] 矢橋シゲ(女)[1] 矢橋善弥(庶子)[1] 矢橋譲吉(庶子)[1] 矢橋乙吉(庶子)[1] |
親 | 矢橋宗太郎(父) |
親戚 | 矢橋亮吉(弟) |
矢橋 敬吉(やばし けいきち、1859年(安政6年)10月16日 - 没年不詳)は、日本の実業家・大地主。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][2][1][3][4][5]・本家の当主。岐阜県多額納税者。株式会社赤坂銀行(十六銀行の前身)・取締役。実父は、同赤坂銀行頭取・名主・矢橋宗太郎[6]。
略歴
[編集]1859年(安政6年)10月16日、美濃赤坂にて、株式会社赤坂銀行[7](1888年矢橋氏〈矢橋徳次郎・矢橋敬吉・矢橋友吉〉らが設立した興産会社が前身、のちの十六銀行)頭取・矢橋宗太郎(1830年12月 - 没年不詳、名主)の長男として生まれる。ともに赤坂銀行の前身・興産会社を設立した素封家・矢橋友吉、矢橋大理石[8]の創業者・矢橋亮吉は実弟。
1883年(明治16年)12月家督を相続する。夙に実業界入りする。岐阜県多額納税者として知られた[9]。大地主[10]。[11]
系譜
[編集]江戸中期 (分立) 以前
[編集]- 惣本家及び本家・鼻祖の五世祖父 - 矢橋彦十郎(桓武天皇第二皇子の嵯峨天皇にまで遡るとされる系譜〈「註釈一覧 3) 矢橋家」〉。1625年2月8日没。昌嫡男 小字吉。室長松城主渡部筑前守女。「為織田信長公加勢致シ、於江州矢橋手柄有之、天文ノ頃浪人ト成、天正元酉年濃州赤坂ニ住ス、父渡辺新左ェ門尉江州矢橋ニ住ス、故ニ後在名ヲ以テ矢橋ヲ名乗」とある。)
- 惣本家及び本家・鼻祖の高祖父 - 矢橋四郎右衛門(1631年8月5日没。父迪十郎改姓後代々矢橋ヲ名乗。字喜。室高屋道意妹他。)
- 惣本家及び本家・鼻祖の曾祖父 - 矢橋四郎右衛門(1685年2月20日没。旧 小字長吉。室矢橋太兵衛女)
- 惣本家及び本家・鼻祖の祖父 - 矢橋三郎兵衛(1691年6月28日没。垂 号交慰。室矢橋久左衛門女)
- 惣本家及び本家・鼻祖の父 - 矢橋藤十郎(1722年11月18日没。孝 号木巴。室大垣川村太郎ェ門女。)
江戸中期 (分立) 以後
[編集]惣本家
[編集]- 鼻祖 - 矢橋藤十郎(矢橋藤十郎〈1722年11月18日没。孝 号木巴。〉の実子。本家鼻祖・矢橋三郎兵衛〈1761年11月22日没、元連 小字徳四郎。〉の実兄。1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎 号李明。「矢橋惣本家 今称東矢橋又辻矢橋」。室矢橋久左ェ門女。)
- 鼻祖の来孫 - 矢橋徳次郎(1857年、美濃赤坂生まれ。1875年家督を相続、岐阜県屈指の大地主、最多額納税者となる。1874年以降県会議員に3期当選、美濃実業銀行、高須貯蓄銀行、赤坂銀行及び大垣銀行などの取締役)[12][13]
- 鼻祖の来孫 - 矢橋為吉
- 鼻祖の来孫 - 矢橋賢吉(1869年10月、美濃赤坂生まれ。営繕官僚、建築家。国会議事堂の設計をまとめた中心人物。国会議事堂建設営繕組織の中心人物〈国会議事堂#歴史#国会議事堂と建築家 及び #営繕組織参照〉。近代公共建築を支えた中心人物。)
本家(直系及類縁)
[編集]- 鼻祖 - 矢橋三郎兵衛(矢橋藤十郎〈1722年11月18日没。孝 号木巴。〉の実子。惣本家鼻祖・矢橋藤十郎〈1775年8月晦没。宅教 小字惣四郎〉の実弟。1761年11月22日没。元連 小字徳四郎 号李仙。寿50。室京都人図司多美。)
【父母の代】
[編集]- 実父 - 矢橋宗太郎 (1830年12月、美濃赤坂生まれ。矢橋本家当主。大地主。株式会社赤坂銀行・頭取[9]。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた[6])
【同世代】
[編集]- 長弟 - 矢橋友吉(美濃赤坂生まれ。素封家[7]。「矢橋式日時計」を考案した矢橋徳太郎の祖父)
- 次弟 - 矢橋亮吉 (1867年9月、美濃赤坂生まれ。矢橋大理石 創業者。その大理石を使って建てた西洋館に昭和天皇と皇太子時代の明仁上皇のご訪問〈行幸 (昭和21年・昭和40年)〉があった[14]。大学生・大学院生への学資の支援を行なっている公益財団法人矢橋謝恩会[15](外務省経済協力局長・岐阜県知事・古田肇は奨学生の一人[16])の創設者。東京海上専務取締役・第45代文部大臣〈大日本帝国憲法時代〉を歴任し甲南大学・甲南高等学校・中学校を創立した平生釟三郎とは高等商業〈現・一橋大学〉時代互いに支え合った学友)
【子の世代】
[編集]- 長男- 矢橋龍吉 (1889年2月、美濃赤坂生まれ。岐阜県多額納税者。農業営む。1920年家督を相続する。号紅亭。梁川星巌全集刊行会評議員、武藤知事代理[17][18]。伊藤信の遺稿『細香と紅蘭』を編集・校正・発行する。美濃赤坂の儒者で頼山陽・梁川星巌と深い交流のあった矢橋家の矢橋赤山・赤水 兄弟の遺稿を刊行する。美濃赤坂お茶屋屋敷の牡丹園を公開)[19][20][21][22]
- 同妻 - 矢橋際(1894年1月生まれ。原松蔭三女)
- 二男 - 矢橋次郎 (1892年11月、美濃赤坂生まれ。赤坂銀行[7]専務取締役[23]矢橋工業〈金生山の鉱山〉 社長、十六銀行監査役[24][25])
- 三男 - 矢橋須三[1]
- 四男 - 矢橋廣治
- 五男 - 矢橋辨治
- 女 - 矢橋シゲ
- 庶子 - 矢橋善弥
- 庶子 - 矢橋譲吉
- 庶子 - 矢橋乙吉[1]
- 甥(実弟・亮吉の五男) - 矢橋六郎(1905年11月、美濃赤坂生まれ。洋画家。待合せ場所としてよく利用されたJR名古屋駅新幹線口の壁画「日月と東海の四季」など、〈大理石〉モザイク壁画も手掛け日本近代画に革新的な役割を果たした[27])
【孫の世代】
[編集]- 孫(長男・龍吉の長男) - 矢橋龍太郎 (1926年9月、美濃赤坂生まれ。実業家。大垣市功労者。美術蒐集家)[28][29]
- 孫(二男・次郎の長男) - 矢橋宗一 (1918年4月、美濃赤坂生まれ。矢橋工業〈金生山の鉱山〉 社長)
- 孫(二男・次郎の二男) - 矢橋恒男 (1921年5月、美濃赤坂生まれ。遠山産業副社長)
- 同妻 - 保子
- 孫(二男・次郎の三男) - 原乙彦(1925年1月、美濃赤坂生まれ。ユニチカ通商社長。原甚之丞の娘婿。)
- 同妻 - 原由比子(原甚之丞二女。)
- 姪孫(長弟・友吉の孫) - 矢橋徳太郎(1916年、美濃赤坂生まれ。愛知淑徳短期大学教授。岐阜天文台副理事長。岐阜天文台・愛知県立旭丘高等学校など全国200箇所程設置されており、世界最高の精度を誇る「矢橋式日時計」の考案者。CBCクラブ文化賞 (くちなし章) 受賞者、鯱光会〈愛知一中〉被顕彰者[31][32][33]。)
遠縁
[編集]- 遠縁 - 所郁太郎 (美濃赤坂生まれ。蘭方医、幕末の志士。1838年造り酒屋・矢橋亦一〈「■ 所郁太郎・ ■ 矢橋家 | 美濃赤坂宿」を参照〉の四男。梁川星巌と親交。適塾塾頭。井上馨の救命、高杉晋作への協力で知られる。)
家系図
[編集]「矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇・源融(紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][1][3][4][5][34]。
- 《惣本家》矢橋藤十郎・幾世
- 《本家》矢橋宗太郎(廃藩置県の際、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させたお茶屋屋敷の払下げを受く)
遠縁[38]:所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織)(大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲・井上馨を治療した医師、幕末の志士、高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙)
注釈
[編集]- ^ a b 「……矢橋家は俳人松尾芭蕉も泊まった県内屈指の旧家。「日本外史」の著者・頼山陽も来遊したり、吉田茂の側近だった白州次郎の妻で随筆家の白州正子も幾度となく同家の牡丹園を訪れている。
先祖は嵯峨天皇から分かれた氏族・嵯峨源氏までさかのぼる。大垣の赤坂に住み、矢橋の姓を名乗ったのは彦十郎から。矢橋総本家初代当主だ。
5代目から藤十郎を襲名し、初代藤十郎は木因に師事し木巴と号し俳句をたしなんだ。2代目は、号を李明、4代目は丹陽、5代目(彦十郎を名乗る)は鳥江。6代目で再び藤十郎を名乗り号は十衛といった。
初代藤十郎の五男・三郎兵衛は分家。号は李仙。二代目、三代目も赤山、赤水と号して漢詩を作り、いずれも遺稿がある。矢橋家は、歴代、俳句や漢詩をたしなんできたのだ。
矢橋家が起業の道を歩むのは、三郎兵衛の6代目・宗太郎から。長男は敬吉で、当主は龍吉、龍太郎へと継がれ、林業、石灰業を興した。龍太郎はミツカングループの創業家、中埜家の7代目又ェ衛門の次女・茅子と結婚。その長男が現在、矢橋ホールディングスを率いる龍宜(52)だ。
敬吉の次男は次郎。その孫が慎哉(66)でグループ会社・矢橋工業の社長を務める。父の宗一も同社の会長を務めた。
(中略)
一方、宗太郎の五男・亮吉は分家し、後に1人3業(金融、大理石、育英事業)を成し遂げる。長男・太郎が早世し、次男の次雄が亮吉を襲名。太郎の孫・修太郎(66)が次雄の養子となり矢橋大理石の社長を務める。
亮吉の四男・五郎は、関ケ原製作所や関ケ原石材を興した。関ケ原製作所は現在、五郎の三男・昭三郎(74)が社長を経て会長を務めている。関ケ原石材は、長男・謙一郎が社長を務めた後、その長男・達郎(52)が社長を経て会長を務める。
まだまだ矢橋家は逸材を輩出している。亮吉の長男・太郎の娘婿の浩吉は、イビデンの社長(1973年9月就任)、会長(81年6月就任)を務めた。五男・六郎は、洋画家で大理石モザイク壁画も手掛け日本近代洋画の革新に重要な役割を果たした。次女・孝子は、十六銀行の第4代頭取を務めた桑原善吉に嫁いだ。
(中略)
宗太郎の三男・友吉の孫・徳太郎は、岐阜天文台の副理事長や愛知淑徳短大の教授を務め世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案した。……」(岐阜新聞社2013年8月20日[2])
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 矢橋家(矢橋大理石社長・矢橋修太郎の家系図) 2022年2月閲覧
- ^ a b ぎふ財界をけん引してきた古今のリーダーたち 千紫万紅 ぎふ財界人列伝 矢橋家の人々 漢詩人から起業家まで 矢橋編(1)|岐阜新聞社、2013年8月20日
- ^ a b c 関ケ原の機器メーカー、敷地にアートな「人間村」 岐阜|…〈矢橋家〉 平安時代の嵯峨源氏を祖とし、江戸初期に滋賀県から大垣・赤坂に移り住み、幕末ごろから…|朝日新聞 DIGITAL 2022年5月閲覧
- ^ a b 光源氏のモデル~源融公ゆかりの寺~淀殿も眠る【大阪・梅田】太融寺 2022年5月閲覧
- ^ a b …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク 2022年5月閲覧
- ^ a b お茶屋屋敷跡 (岐阜県公式ホームページ)
- ^ a b c 赤坂支店の歴史 | 十六銀行赤坂支店新築移転オープン
- ^ 矢橋大理石 コトバンク
- ^ a b 画像表示: 矢橋敬吉 (第4版) - 『人事興信録』データベース
- ^ 矢橋敬吉 | 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (岐阜県の三(人員十名通計十八名))
- ^ 系譜 (「註釈一覧 3) 矢橋家」)
- ^ 註5) 矢橋徳次郎 (1858-1927)
- ^ 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (岐阜県の三(人員十名通計十八名))
- ^ 産業観光施設・企業、産業遺産・文化財の紹介 / 天皇の行幸と矢橋家 西美濃地域 産業観光ガイド
- ^ 非営利法人データベースシステム NOPODAS 公益財団法人矢橋謝恩会
- ^ NTT西日本 岐阜支店 (報道発表資料) : 矢橋亮吉が設立した公益財団法人矢橋謝恩会、奨学生古田肇 (通産省入省・外務省経済協力局長・岐阜県知事)
- ^ 矢橋龍吉 | 人事興信録(第8版)
- ^ 矢橋龍吉 | 徳富蘇峰記念館
- ^ 矢橋龍吉
- ^ Saikō to kōran. - WorldCat
- ^ 『赤山遺稿』『赤水遺稿』
- ^ お茶屋屋敷跡 (大垣市ホームページ)
- ^ 矢橋次郎 | 人事興信録(第8版)
- ^ 十六銀行 赤坂支店 2019年5月12日閲覧。
- ^ 昭和18年 (1943) 7月20日 矢橋次郎監査役に就任 (年表37頁)
- ^ 矢橋次郎妻絹 | 人事興信録(第8版)
- ^ 矢橋 六郎(ヤバシ ロクロウ)とは - コトバンク
- ^ “白州正子の西美濃 (1)”. http://app.f.m-cocolog.jp. 2019年5月12日閲覧。
- ^ “大垣市功労者 - 功労章 -”. http://www.city.ogaki.lg.jp. 2019年5月12日閲覧。
- ^ 橋口勝利「近代津島地域における企業勃興と資産家活動 ―資産家グループ形成と津島紡績株式会社の事業展開―」『政策創造研究』第2巻、関西大学政策創造学部、2009年3月、69-86頁、ISSN 1882-7330、NAID 120005683711。
- ^ 1983年 第24回受賞者 : 矢橋徳太郎 | CBCクラブ文化賞(くちなし章)受賞者一覧
- ^ …「精密日時計(矢橋式日時計)」は、境内に設置されている。日時計ながら5分刻みという世界最高の精度を誇る。矢橋徳太郎(元愛知淑徳大学教授、元岐阜天文台副理事長)が考案した。… | 近江神宮(大津市)
- ^ 第11回鯱光会顕彰式(1988年11月5日)被顕彰者4名 : 服部邦雄・中村道太郎・矢橋徳太郎・上遠野達三郎・伊藤栄樹 | 鯱光会活動案内 過去の被顕彰者リスト - 鯱光会公式ホームページ
- ^ 嵯峨源氏 コトバンク 2022年5月閲覧
- ^ 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース 2024年4月閲覧
- ^ 中埜半左衛門家文書目録 解題(出典 中埜酢店刊『七人の又左衛門』)3頁(43頁) 2021年8月閲覧
- ^ 桑原邸 岐阜県公式ホームページ
- ^ ■矢橋家|美濃赤坂宿 2007.04.25.