竹内愛一
1924年の早稲田大学野球部 前列左端が竹内愛一 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1903年 |
没年月日 | 1972年 |
身長 体重 | 170 cm 64 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
初出場 | 1941年7月8日 |
最終出場 | 1941年7月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
この表について |
竹内 愛一(たけうち よしかず、1903年 - 1972年)は、京都府[1]出身のプロ野球選手(投手)、監督。
小野三千麿、谷口五郎、湯浅禎夫が「大正三大投手」とされている[2]が大和球士はこれに竹内と内村祐之を加えて五大投手と称した[3]。
来歴・人物
[編集]1921年に京都一商で全国高等学校野球選手権大会準優勝[1]。早稲田大学野球部でも引き続き投手として活躍し、19年ぶりに行われた1925年の早慶戦でドロップを武器に、先発・完封した[1]。
早大卒業後は、社会人野球の全京都、神戸スタークラブを経て、1941年にはプロ野球・朝日軍の監督に就任(同年は選手兼任)し、1942年・1943年には弱小だった同チームをAクラスまで引き上げた。
戦後の1946年には中部日本の監督に就任。ショーマンシップがあった[4]が、酒絡みのトラブルで選手からは反発され、7月には更迭された。同年、プロ野球加盟を目指す東京カッブスの監督に就任するが、早朝からの飲酒・放蕩等の不行跡のため、またしても更迭された。
1947年には国民野球連盟加入を目指す熊谷ゴールデン・カイツの監督として登録されるが、親会社の熊谷組が同リーグの宇高レッドソックスを買収したため、頓挫した。同年秋には京都府出身者を中心に「京都団」というチームの結成を試みたが、叶わなかった。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
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1941 | 朝日 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 18 | 2.2 | 3 | 0 | 6 | -- | 1 | 2 | 1 | 0 | 5 | 1 | 3.00 | 3.38 |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 18 | 2.2 | 3 | 0 | 6 | -- | 1 | 2 | 1 | 0 | 5 | 1 | 3.00 | 3.38 |
年度別監督成績
[編集]年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1941 | 朝日 | 8位 | 85 | 25 | 59 | 1 | .298 |
1942 | 4位 | 105 | 49 | 50 | 6 | .495 | |
1943 | 3位 | 84 | 41 | 36 | 7 | .532 | |
1946 | 中部日本 | 7位 | 36 | 13 | 21 | 2 | .382 |
通算 | 310 | 128 | 166 | 16 | .435 |
背番号
[編集]- 30 (1941年 - 1943年、1946年)
脚注
[編集]- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、329ページ
- ^ 木村毅 『都の西北―早慶野球戦史を中心に』 ベースボール・マガジン社、1978年、229頁
- ^ 大和球士 『真説 日本野球史 《大正篇》』 ベースボール・マガジン社、1977年、121頁
- ^ 『中日ドラゴンズ70年 - 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社、2005年。ISBN 978-4583613246。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 竹内愛一 - NPB.jp 日本野球機構