紀元前249年
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
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十年紀 | 前260年代 前250年代 前240年代 前230年代 前220年代 |
年 | 前252年 前251年 前250年 紀元前249年 前248年 前247年 前246年 |
紀元前249年(きげんぜん249ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウス・プッルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元505年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前249年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]共和政ローマ
[編集]- ローマがドラパナの戦いに参戦し、執政官プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウス・プッルスに率いられたローマ軍は、トラーパニの湾で、アドヘルバルの率いるカルタゴ軍を攻撃した。ローマ軍は戦いに敗れ、123隻のうち93隻の船を失った。
- ドレパナ沖の海戦に敗れた後、プブリウス・クラウディウス・プルケルは12万頭のロバを罰金として課せられ、ルキウス・ユニウス・プッルスは自殺した。その後、アウルス・アティリウス・カラティヌスが独裁官に選ばれ、兵を率いてシチリアを攻め、イタリア外にローマ軍を率いた初めての独裁官となった。リルバイウム(マルサーラ)のローマ兵は解放され、ドラパナ近郊のエリュクスは占領された。(ドレパナの戦い)
中国
[編集]- 呂不韋が秦の相国となった。
- 東周の昭文君が諸侯と図って秦を攻撃しようとしたが、秦の荘襄王は呂不韋に命じてこれを討ち滅ぼさせた。昭文君は陽人聚に移されて、周の祭祀を継承した。
- 秦の荘襄王は河南と洛陽の10万戸をもって呂不韋を文信侯に封じた。
- 秦の蒙驁が韓を攻撃し、成皋と滎陽を奪い、初めて三川郡を置いた。
誕生
[編集]→「Category:紀元前249年生」も参照
死去
[編集]→「Category:紀元前249年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典