耿紀

耿 紀(こう き、生年不詳 - 218年)は、中国後漢末期の政治家。字は季行[1]司隷扶風茂陵県の人。雲台二十八将耿弇の弟である耿国の子孫にあたり、祖父は耿沖[2]

略歴

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建安年間(196年~)侍中であり、杜畿荊州から帰還すると許都の屋敷で終夜語り合った。この時、荀彧の屋敷も棟続きだったため彼らの会話を聞いており、翌日、耿紀に人を遣って「国士(優れた人物)を推薦せずにどうしてその位にいるのか」と告げた。[3]

曹操に高く評価され、丞相掾を務め、少府を兼任していた。

218年、金禕吉本らと共に曹操への反乱を決意し、許昌で反旗を翻す。この乱は数日で王必に平定され、耿紀は捕縛されたのち、処刑された。

処刑の前、曹操へ向かって「恨むのは自らが事を謀らずに、童どもに狂わされたことだ」と言ったという[4]

脚注

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  1. ^ 三国志』魏書「武帝紀」の裴松之注が引く『三輔決録』
  2. ^ 『後漢書』耿秉伝「曾孫紀,少有美名,辟公府,曹操甚敬異之,稍遷少府。」
  3. ^ 『三國志』杜畿伝『傅子』
  4. ^ 『三国志』魏書「武帝紀」の裴松之注が引く『献帝春秋』

参考文献

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