自由党 (日本 1881-1884)
自由党 | |
---|---|
成立年月日 | 1881年10月18日 |
解散年月日 | 1884年10月29日 |
解散理由 | 内部対立のため |
政治的思想・立場 | 急進的自由主義[1] 尊皇主義・民本主義 |
機関紙 | 『自由新聞[2]』 |
創設者:板垣退助 |
自由党(じゆうとう)とは、1881年に板垣退助らが結成した、日本最初の近代政党。1884年に急進派の行動を抑えきる事が出来ず解散した。
概説
[編集]1880年(明治13年)11月10日、国会期成同盟第2回大会において、河野広中、植木枝盛、松田正久らから政党結成の提案が出され、これに基づいて同年12月15日に「自由党準備会」が発足し、自由党結成盟約4か条を定めた。
翌1881年、国会開設の詔が出たことを受けて国会期成同盟を基盤とした政党作りの作業が進められるが、やがて実務責任者であった林包明ら地方出身者の集団と沼間守一ら都市出身者の集団の間で確執が生じ、沼間らは離脱した(後に立憲改進党に合流)。 10月18日に浅草井生村楼で地方出身者と反沼間派の都市出身者によって創立大会を開催、29日に盟約[3]、規約、人事などを定め、初代総理(党首)は板垣、副総理に中島信行、常議員に馬場辰猪・末広重恭・後藤象二郎・竹内綱、幹事に林包明・山際七司・内藤魯一・大石正巳・林正明が就任した。フランス流急進主義の影響のもと、一院制、民本主義、尊王論、選挙制度の構築などを掲げた。板垣は11月9日、就任を受諾した。
自由党の尊王論
[編集]板垣退助は、明治15年(1882年)3月、『自由党の尊王論』を著し、自由主義は尊皇主義と同一であることを力説し自由民権の意義を説いた。
世に尊王家多しと雖も吾自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。〔中略〕吾党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。〔中略〕吾党は深く我 皇帝陛下を信じ奉る者也。又堅く我国の千歳に垂るるを信ずる者也。吾党は最も我 皇帝陛下の明治元年三月十四日の御誓文(五箇条の御誓文)、同八年四月十四日立憲の詔勅、及客年十月十二日の勅諭を信じ奉る者也。既に我 皇帝陛下には「広く会議を興し万機公論に決すべし」と宣ひ、又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」と宣ひたり。吾党、固より我 皇帝陛下の之を履行し、之を拡充し給ふを信ずる也。又、立憲の政体を立て汝衆庶と俱に其慶幸に頼らんと欲す。〔中略〕既に立憲政体を立てさせ給ひ、其慶幸に頼らんと宣ふ以上は、亦吾党に自由を与へ吾党をして自由の民たらしめんと欲するの叡慮なることを信ずる也。〔中略〕況や客年十月の聖諭の如きあり。断然二十三年を以て代議士を召し国会を開設せんと叡断あるに於ておや。〔中略〕故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者也。〔中略〕斯の如くにして吾党は 皇帝陛下を信じ、我 皇帝陛下の意の在る所に随ふて、此立憲政体の慶幸に頼らんと欲する者也。〔……〕方今、支那、魯西亜、土耳古トルコ諸邦の形状を察すれば、其帝王は驕傲無礼にして人民を軽侮し土芥(のやうに)之を視、人民は其帝王を畏懼し、或は怨望し雷霆の如く、讎敵の如くし、故に君民上下の間に於て曾て其親睦愛情の行はるる事なし。〔中略〕今、吾党の我日本 皇帝陛下を尊崇する所以は、固より支那、土耳古の如きを欲せざる也。又、大に魯西亜の如きを好まざる也。吾党は我人民をして自由の民たらしめ、我邦をして文明の国に位し、(皇帝陛下を)自由貴重の民上に君臨せしめ、無上の光栄を保ち、無比の尊崇を受けしめんと企図する者也。〔中略〕是吾党が平生堅く聖旨を奉じ、自由の主義を執り、政党を組織し、国事に奔走する所以也。乃ち皇国を千載に伝へ、皇統を無窮に垂れんと欲する所以なり。世の真理を解せず、時情を悟らず、固陋自ら省みず、妄りに尊王愛国を唱へ、却て聖旨に違ひ、立憲政体の準備計画を防遏し、皇家を率ゐて危難の深淵に臨まんと欲する者と同一視すべからざる也。是れ吾党が古今尊王家多しと雖も我自由党の如くは無し、古今忠臣義士尠からずと雖も我自由党諸氏が忠愛真実なるに如かずと為す所以なり。 — 『自由党の尊王論』板垣退助著
自由民権運動
[編集]自由民権運動の担い手として全国に組織を広げるも、集会条例による弾圧や1882年4月6日の岐阜事件、同年秋の板垣外遊の是非を巡る内紛(9月17日、外遊反対決議)による馬場、末広、大石の離党、更に板垣の留守中には、党内急進派が貧農層と激派を形勢して様々な事件を起こす。その後、1882年12月1日の福島事件、翌1883年3月20日の高田事件が勃発して弾圧が強化、更に、過激な行動に奔るという悪循環となる。更に同じ民権派の立憲改進党との対立も党内の混乱に拍車をかけた。
帰国した板垣は、党の先行きに不安を感じ、解党するか党再建のために10万円の政治資金を調達するかのいずれかの選択を提議した。だが、有力な資金提供者であった豪農層が松方デフレにより相次ぎ脱落したため資金集めに失敗し、1884年3月13日、東京の自由党大会で、総理に専断決行の特権を与えて権限を強化し、文武館(のち有一館と命名)を設立して板垣の下に党員の結集を図るが、執行部は地方の急進派を押さえきれなかった。そして、9月の加波山事件によって解党論が高まり、10月29日に大阪で解党大会を開いた(なお、当時獄中にいた星亨が獄中から解党反対の電報を打って板垣からは「バカイフナ(馬鹿言うな)」と返電された)。
なお、急進派による最大の蜂起事件である秩父事件はその直後10月31日に発生している。
脚注
[編集]- ^ 自由党 コトバンク デジタル大辞泉 2018年3月8日閲覧
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2019年3月23日閲覧。
- ^ 『自由党盟約』 - 国立国会図書館デジタルコレクション(自由党 1881, pp. 1–6)
参考文献
[編集]- 自由党 編『自由党盟約』自由党、1881年。