蔦 (橘型駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | 1944年(昭和19年)度計画 |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
起工 | 1944年7月31日 |
進水 | 1944年11月2日 |
竣工 | 1945年2月8日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 1947年7月31日中国へ引き渡し「華陽」となる 1950年解体 |
要目(計画値) | |
排水量 | 基準:1,262トン 公試:1,530トン |
全長 | 100.00m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
主缶 | ロ号艦本式缶2基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 19,000馬力 |
速力 | 27.8ノット |
航続距離 | 18ノットで3,500海里 |
燃料 | 重油370トン |
乗員 | 211名/287名[1] |
兵装 | 40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) 四式水中聴音機 |
蔦(つた)は日本海軍の駆逐艦。仮称5514号艦、橘型(改松型)駆逐艦3番艦として横須賀海軍工廠で建造された。
艦名は植物の蔦による。艦名としては樅型駆逐艦の14番艦「蔦」に続いて2代目。
艦歴
[編集]竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。2月20日に「宵月」とともに横須賀を出港して瀬戸内海に回航される[2]。その間、内海で対空戦闘を行った。4月25日付で第三十一戦隊(鶴岡信道少将・海兵43期)第五十二駆逐隊に編入された[3]。4月30日から佐世保相の浦泊地で待機。6月以降に呉に移動し、回天搭載艦に改装[4][5]。7月に回天搭載艦に改装された同型艦「竹」「榧」「槇」「桐」と共に山口県屋代島に移動。擬装したうえで待機中に終戦を迎えた。
10月5日除籍。12月1日特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月31日に中国に引渡され、接九号と仮命名された後、華陽(ファヤン Hua Yang)と命名された。中華民国海軍所属の旧日本軍艦の一翼を担ったものの、艦の状態がよくなかったため再武装されず任務も与えられなかった[6]。国共内戦中の1949年5月に上海を脱出して馬公に到着するも、翌1950年に退役して解体される[6][7]。流用可能な部品は、同型艦の信陽(元「初梅」)に使用された[6]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』369頁による。
艤装員長
[編集]- 國谷正信 中佐 1944年12月25日-
駆逐艦長
[編集]- 國谷正信 大佐 1945年2月8日-
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年三月一日至昭和二十年三月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127900
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030128000
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 米澤健次「歴史発掘 中国へ渡った日本軍艦」『世界の艦船』第487集 P.152~155(海人社、1994年)
- 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
- 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』(学習研究社、2003年) ISBN 4-05-603251-3
- 相沢忠洋『岩宿の発見 -幻の旧石器を求めて-』(講談社 1969年、1979年再版 ISBN 4-06-134022-0)
- 田村俊夫「中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
関連項目
[編集]- 相沢忠洋 - 竣工から除籍まで乗艦した水兵の一人。復員後、在野の考古学者となった。乗艦時のエピソードは著書『岩宿の発見 -幻の旧石器を求めて-』に詳しい。