藤井澄二

藤井 澄二
人物情報
生誕 1920年12月14日
日本の旗 日本 神奈川県横浜市神奈川区
死没 (2004-01-30) 2004年1月30日(83歳没)
日本の旗 日本 神奈川県横浜市青葉区
居住 日本の旗 日本アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身校 府立高等學校
東京帝国大学
学問
研究分野 振動工学機械力学制御工学
ロボット工学、車両工学
研究機関 第二陸軍航空技術研究所
東京帝国大学東京大学
マサチューセッツ工科大学
東京電機大学富山県立大学
博士課程指導学生 東京大学 - 柴田碧[注釈 1]、井口雅一[注釈 2]、佐藤寿芳[注釈 3]、吉本堅一[注釈 4]井上博允[注釈 5]内山勝[注釈 6]
東京電機大学 - 大島徹[注釈 7]
学位 工学博士
主な業績 熱流体の自励振動
人間機械制御系
車両の動力学
バイラテラル制御
ロボット研究(藤井澄二研究室)
影響を受けた人物 デン・ハルトック英語版[5]
影響を与えた人物 高野政晴[6]
学会 日本機械学会計測自動制御学会日本ロボット学会、日本IFToMM会議、人間工学会
主な受賞歴 紫綬褒章
従三位勲二等瑞宝章
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藤井 澄二(ふじい すみじ、1920年大正9年)12月14日[7] - 2004年平成16年)1月30日[7][5])は、機械工学を専門とする日本研究者教育者工学博士東京大学)、東京大学名誉教授東京電機大学名誉教授。振動工学、車両工学、人間工学安全工学制御工学ロボット工学など、多岐にわたる実績があり、富山県立大学では初代学長を務めた。紫綬褒章従三位勲二等瑞宝章[5][7]

東京帝国大学助教授東京大学教授工学部長、東京電機大学教授、理事、理工学部長、富山県立大学学長を務めると共に、日本機械学会会長、日本ロボット学会会長[5][7]、日本IFToMM会議実行委員長[8]も歴任した。1960年代半ばから1970年代の東京大学藤井研究室におけるロボット研究は、その後のロボット制御のほとんどの基がここにあるとも言われている[6]

生涯

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生誕から終戦まで

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1920年神奈川県横浜市神奈川区クリスチャンの家庭の8人兄弟の4番目に生まれる[5]。小さいころから自然科学系の読書や、機械・実験装置づくりが好きな子供であった[9]府立高等學校を卒業後、1942年9月に東京帝国大学を短縮卒業した。兵役により召集され、陸軍中尉として第二陸軍航空技術研究所航空機エンジン開発などに従事する。この時担当した航空機用エンジン過給機の開発実験において、自励振動サージングに悩まされる[5]

流体による自励振動の研究

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終戦後、東京帝国大学航空研究所(後に理工学研究所へ改組)に嘱託で勤務し、1947年に東京帝国大学工学部機械工学科助教授となる。この間、遠心式ポンプの安定性およびサージングについて研究を行い、4報に渡る論文としてまとめている[10][11][12][13]1949年に八ツ沢水力発電所で起きた圧力鉄管破損事故においては、弁の漏水によるウォーターハンマー(水槌)が原因であることを解明している[5]

これら振動工学の研究成果をまとめ、1949年工学博士(東京大学)を取得した。また、1953年マサチューセッツ工科大学に滞在した時には機械振動の権威、デン・ハルトック教授の薫陶を受けている[5]。このように熱や流体により機械やプラントに起こる自励振動の研究[14][15][16]で実績があり、自身や研究室での経験を元にした講義のビデオが日本機械学会から出版されている(節「講義ビデオ」参照[17]

東京大学藤井澄二研究室

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当初は制御工学の講座ができるということで助教授に就任したが、実際は車両工学の講座ができたため、藤井は制御工学と車両工学双方の研究を行った[18]。車両工学の研究は自動車の振動問題[19][20]や車両のだ行動の研究[21][22]に加え、人間を含めた制御系など[23][24]、人間工学、制御工学も関連した研究に発展した。また、架線・パンタグラフ系の設計法を提案し、東海道新幹線の実現に貢献している[5]

1956年には教授に昇任し、同大学の評議員、工学部長、総長特別補佐などを務めていく。また、国際自動制御連盟英語版(自動制御の国際組織)や人間工学会において、教育カリキュラムを検討する委員会でも活躍した[25][26]

東京大学の機械工学科原子力の研究会ができ、藤井も炉の制御や放射性物質を扱うマニピュレータについて考えるようになった[18]。マニピュレータの遠隔制御ではスレイブ側の反力をマスター側に返す必要があり、双動のあるバイラテラルサーボの研究を行うようになった[27][28]。これが後にロボット研究に発展する。1965年頃から論理機械や計算機による人工の手の研究[注釈 8]を開始し、1970年代には双腕マニピュレータの目標値修正制御、座標変換による書字動作、動的制御(速度のある制御、くぎ打ちロボットなど)、視覚認識、移動ロボットの制御などの研究が行われた[18]。この時期の藤井澄二研究室は、後のロボット制御のほとんどの基があると言われる程の実績を上げた[6]

社会的活動として、機構と機械の国際組織IFToMM英語版に日本も参加するため、早稲田大学加藤一郎教授や電気通信大学の石川二郎教授[4]とともに、1978年に日本IFToMM会議を立ち上げている[30]。更に1980年には、第58期の日本機械学会会長を務めた[31]。行政関係においても、研究行政、産業技術行政、運輸技術行政、防災技術行政(消防庁、東京都)、交通機関における安全化と高速化の技術開発といったプロジェクトに参画し、指導的な役割を担った[5]

東京電機大学 - 富山県立大学 - 死去

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1981年東京電機大学教授に就任、同大学大学院理工学研究科委員長、理事、理工学部長を歴任した。研究では高速画像処理、多項目同時処理、高速動作を特徴とするキャッチングロボット[32]、異構造マスターアームやリモートティーチングを特徴とするリモートマニピュレータなどの研究に取り組み、極限作業ロボットの分科会にも参加している[18]1983年には日本ロボット学会の初代会長にも就任し、1期2年務めている[5]

1987年より富山県立大学の創設準備委員会委員長として尽力し、1990年から1996年まで同大学の初代学長を務めた。同大学の短期大学部専攻科が出来る際には、担当者に適切な指示を出している[33]2004年1月30日神奈川県横浜市青葉区福祉施設にて急性心不全のため逝去し、目黒区大円寺葬儀が執り行われた[5][34]。享年83。なお、遺言による寄付金100万円によって、日本IFToMM会議に若手育成基金「Young Investigator fund」が設立された[35]。これにより、年1回のシンポジウムでBest Paper Award(Finalist 3件)が出されるようになった(Finalist 3件)[35]

人物

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カトリックで兄弟の多い家庭に生まれ育ち、バンカラの気風を排した旧制府立高等学校出身であり、戦争も経験した藤井は温厚な人柄で知られていた[36][33]。実績を上げながらも粛々と研究を進める姿勢に尊敬を受けることもあった[6]

講義では、何も持ち込まずにいきなり黒板に式を書き始め、それでも分かりやすく面白い講義だったと言われている[37]。また、東京電機大学では理工学部大学院ができたばかりであり、大学院の講義に受講生が一人という時代もあった。当時の学生である大島徹(後の富山県立大学教授、二関節筋を応用した研究で有名)は、分からないところを深夜まで指導してもらったと回想している[38]

東京大学では学生主体で研究を進めさせるスタイルで、学生の心配を他所に「まあ、やってみようよ。」とよく言っており、博士課程の学生にはあえて単著で責任を持って原著論文を執筆・投稿させることもあった[39]。しかし学生よりも研究を深く認識しており、井上博允は学位審査前日に研究の意義を完璧に指摘されて感服していた[39]

また、研究指導では手を抜かない厳しい一面もあり、大島徹は予備審査から1年以上に渡り再実験や論文修正をさせられており[注釈 9]、学位取得時にも「君を研究者として認めたのではなく、研究者のスタートラインに立つのを認めただけです」と言われている[38][注釈 10]

略歴

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受賞、栄典

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社会的活動

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著書

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単著

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  • たのしい工作室小学館〈小国民シリーズ〉、1948年。
  • 『機械力学 第1、第2』 鵜戸口英善ほか編、共立出版〈応用力学講座 6〉、1957-1958年、NCID BN1034875X
  • 『制御工学 1、2、3』 岩波書店〈岩波講座基礎工学 20〉、1967-1968年、NCID BN01827795
  • 『藤井澄二論文選集』 藤井澄二教授還暦退官記念会、1982年1月、NCID BA71097276

共著・翻訳

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講義ビデオ

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その他著作

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解説

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(振動関連)

(制御関連)

(その他)

回想・展望

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脚注

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注釈

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  1. ^ 柴田碧パンタグラフ架線系の動力学的研究』東京大学〈博士学位論文〉、1958年3月29日。後、東京大学生産技術研究所[1][2]
  2. ^ 井口雅一『手動制御系の研究』東京大学〈博士学位論文〉、1962年3月29日。後、東京大学[3]
  3. ^ 佐藤寿芳『機械構造物の耐震設計に関する研究』東京大学〈博士学位論文〉、1963年3月29日。後、東京大学生産技術研究所[1]
  4. ^ 吉本堅一『人間を含む制御系の改善に関する研究』、東京大学〈博士学位論文(甲第1926号)〉1969年3月29日。後、東京大学、防衛大学埼玉工業大学[4]
  5. ^ 井上博允人工の手の制御に関する研究』東京大学〈博士学位論文(甲第2215号)〉1970年3月30日。
  6. ^ 内山勝人工の手の運動制御に関する研究』東京大学〈博士学位論文(甲第4240号)〉、1977年3月29日。
  7. ^ 大島徹生体形状の3次元自動測定システムとその応用に関する研究』東京電機大学〈博士学位論文(甲第1号)〉、1987年3月19日。
  8. ^ 「人工の手」は加藤一郎森政弘による造語[29]
  9. ^ 大島は予備審査から学位授与まで1年7か月かかっており[38]、学位が授与されたのは単位取得満期退学して就職した後、1年後のことである[40]
  10. ^ 後に大島が富山県立大学へ呼ばれた際には、満面の笑みで「よく頑張っていますね」と成長を称えている[38]
  11. ^ 東大広報 2004には「…昭和62年10月には、富山県より県立大学創設準備委員会委員長を委嘱され…」とあることに基づくが、同時に就任したかどうかは不明。
  12. ^ 1960年改訂、NCID BN0062700X

出典

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  1. ^ a b 鈴木浩平「研究と学会活動の思い出」、『日本機械学会論文集C編』第73巻第730号、2007年、1607-1609頁。
  2. ^ 簡明な文章・シミュレーション・機械の分野での人間工学”. 日本機械学会機械力学計測制御部門. 2017年9月24日閲覧。
  3. ^ 井口雅一『絶え間のない挑戦が自動車技術の発展を支えていく』公益法人自動車技術会http://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview110629.pdf2014年2月20日閲覧 (インタビュアー:永井正夫、2011年3月1日(火)、於:自動車技術会)
  4. ^ a b 日本IFToMM会議実行委員会”. 2014年2月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 東大広報 2004.
  6. ^ a b c d 『高野政晴退官記念論文集』、および高野政晴 (2001年4月4日). “ロボット評論 (2) 日本におけるロボット研究の流行(2001.4.4)”. 高野政晴HomePage. 2019年11月24日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 富山県立大学ニュース 2004, p. 2.
  8. ^ Jc-IFToMM委員会.
  9. ^ 藤井澄二『たのしい工作室』p.1
  10. ^ 藤井澄二「遠心式ポンプの安定性およびサージングについて 第1報」、『日本機械学会論文集』第13巻第44号、1947年、 184-191頁。
  11. ^ 藤井澄二「遠心式ポンプの安定性およびサージングについて 第2報」、『日本機械学会論文集』第13巻第44号、1947年、 192-201頁。
  12. ^ 藤井澄二「遠心式ポンプの安定性およびサージングについて 第3報」、『日本機械学会論文集』第14巻第48号、1948年、 12-17頁。
  13. ^ 藤井澄二「遠心式ポンプの安定性およびサージングについて 第4報」、『日本機械学会論文集』第14巻第48号、1948年、 17-25頁。
  14. ^ 藤井澄二「振動弁による流体柱の励振 (第1報)」、『日本機械学会論文集』第18巻第66号、1952年、182-184頁。
  15. ^ 藤井澄二、喜山宜志明「振動弁による流体柱の励振 (第2報)」、『日本機械学会論文集』第18巻第73号、1952年、40-43頁。
  16. ^ 藤井澄二「振動弁による流体柱の励振(第3報)」、『日本機械学会論文集』第21巻第105号、1955年、 374-377頁。
  17. ^ a b NCID BA38158431、および“自励振動の話 藤井澄二講師”. 国会図書館サーチ. 国立国会図書館. 2019年11月24日閲覧。
  18. ^ a b c d 藤井澄二 1986.
  19. ^ 藤井澄二「自動車プロペラ軸の低い速度で起るふれまわり 第1報」、『日本機械学会論文集』第22巻第115号、1956年、 178-181頁。
  20. ^ 藤井澄二、柴田碧、重田達也「自動車プロペラ軸の低い速度で起るふれまわり 第2報」、『日本機械学会論文集』第22巻第119号、1956年、 489-491頁。
  21. ^ 藤井澄二、吉本堅一「2軸貨車のだ行動の電子計算機による解析 第1報, 数学モデルの概要」、『日本機械学会論文集』第40巻第340号、1974年、 3329-3334頁。
  22. ^ 藤井澄二、吉本堅一、小林文彦「2軸貨車のだ行動の電子計算機による解析 第2報, シミュレーション実験の結果」、『日本機械学会論文集』第41巻第343号、1975年、 806-812頁。
  23. ^ 藤井澄二「自動車の操縦と人間工学」、『人間工学』第1巻第2号、1965年、 9-17頁。
  24. ^ 藤井澄二「自動車の運動性能に対するかじ取装置の弾性の影響」、『日本機械学会論文集』第22巻第119号、1956年、 492-496頁。
  25. ^ 藤井澄二「IFAC 教育委員会会議」『計測と制御』第5巻第4号、1966年4月、299-301頁。
  26. ^ a b 藤井澄二「人間工学カリキュラム委員会報告書」、『人間工学』第5巻第1号、1969年、 19-27頁。
  27. ^ 藤井澄二、秋山守、杉野栄美、住川英男「油圧式バイラテラルサーボ機構の研究」、『自動制御』第5巻第3号、1958年3月、 60-65頁。
  28. ^ 藤井澄二、井口雅一「動力かじ取装置における双動型サーボ機構の効果」、『日本機械学会論文集』第24巻第147号、1958年、 929-934頁。
  29. ^ 加藤一郎 編著、高西淳夫菅野重樹 著 『マイロボット』 読売新聞社〈読売科学選書35〉、1990年12月、18頁。ISBN 4643901020
  30. ^ a b 日本IFToMM会議のご紹介”. 2014年2月11日閲覧。
  31. ^ a b 藤井澄二「第58期会長退任のあいさつ」『日本機械学会誌』 84(750) 1981-05-05 p.429-430
  32. ^ 藤井澄二、斉藤之男、島根喜一郎、前田明志、羽根吉寿正、川島忠雄、伊藤裕『高機能ロボットに関する開発研究』(レポート)東京電機大学 総合研究所 システム研究部門 プロジェクト研究(1983 - 1984年度)報告書、1984年http://souken.dendai.ac.jp/db_pdf/data/70-P7.pdf 
  33. ^ a b 楠井隆史「藤井初代学長の思い出」富山県立大学ニュース 2004, p. 3
  34. ^ 吉川恒夫「追悼 ―藤井澄二氏を慎む―」『日本ロボット学会誌』第22巻第3号、2004年4月。
  35. ^ a b 日本IFToMMニュースNo.32』(PDF)(レポート)2005年1月http://www.jc-iftomm.org/japanese/news/News32.pdf 
  36. ^ 中島恭一「藤井初代学長の追悼」富山県立大学ニュース 2004, p. 2
  37. ^ 山川新二『不規則データ処理の先駆的研究を拓き自動車の信頼性評価の近代化に貢献』(PDF)公益社団法人自動車技術会https://www.jsae.or.jp/~dat1/interview/interview110907.pdf2014年2月20日閲覧 (インタビュアー:高原正雄、2011年7月20日、於:アルカディア市ケ谷)
  38. ^ a b c d 大島徹「藤井先生を偲んで」富山県立大学ニュース 2004, p. 3
  39. ^ a b 井上博允「追悼」『日本ロボット学会誌』第22巻第3号、2004年4月。
  40. ^ 大島 徹(Oshima, Toru)”. 富山県立大学. 2014年3月24日閲覧。
  41. ^ a b c d e f g h 「追悼 初代会長・名誉会員 藤井澄二氏を慎む」(略歴)『日本ロボット学会誌』第22巻第3号、2004年4月
  42. ^ a b 会告 名誉会員訃報」『技術会通信』第58巻第3号、2004年、101頁。
  43. ^ a b 名誉会員”. 学会案内. 日本ロボット学会. 2019年11月24日閲覧。
  44. ^ a b 設立特別功労賞”. 表彰. 日本ロボット学会. 2019年11月24日閲覧。
  45. ^ 一般社団法人 日本機械学会 名誉員一覧”. 日本機械学会. 2017年9月24日閲覧。
  46. ^ a b c 藤井・吉本 1983, p. 8.
  47. ^ EAJ News、日本工学アカデミー、2014年2月21日閲覧。

参考文献

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  • 「追悼 初代会長・名誉会員 藤井澄二氏を慎む」『日本ロボット学会誌』第22巻第3号、2004年4月、(ページ番号は未記載、2ページ分)。
  • 藤井伊初代学長の追悼」『富山県立大学ニュース』第69号、2004年5月、2-3頁。 
  • 大学院工学系研究科「訃報 藤井澄二 名誉教授」(PDF)『学内広報』第1296号、東京大学広報委員会、2004年9月8日、23頁。 

外部リンク

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