ベトナム
- ベトナム社会主義共和国
- Cộng hòa xã hội chủ nghĩa Việt Nam
(共和社會主義越南) -
(国旗) (国章) - 国の標語:独立・自由・幸福
(Độc lập - Tự do - Hạnh phúc) - 国歌:進軍歌(Tiến Quân Ca)
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公用語 ベトナム語(越南語) 首都 ハノイ(河内) 最大の都市 ホーチミン市(胡志明市) - 政府
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ベトナム共産党書記長 トー・ラム 国家主席 ルオン・クオン 政府首相 ファム・ミン・チン 国会議長 チャン・タイン・マン 国家副主席 ヴォー・ティ・アイン・スアン - 面積
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総計 331,212km2(65位) 水面積率 1.3% - 人口
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総計(2022年) 103,808,319人(16位)[1] 人口密度 313.4人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2019年) 7615兆5675億2600万[2]ドン - GDP(MER)
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合計(2019年) 3278億7300万[2]ドル(36位) 1人あたり 3,398.214[2]ドル - GDP(PPP)
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合計(2019年) 1兆188億600万[2]ドル(35位) 1人あたり 10,559.323[2]ドル - 独立
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独立宣言
(ベトナム民主共和国)1945年9月2日 フランスから独立合意、南北分離
(ジュネーヴ協定)1954年7月21日 南北統一、改称 1976年7月2日
通貨 ドン(VND)(₫ / Đồng; 銅) 時間帯 UTC(+7) (DST:なし) ISO 3166-1 VN / VNM ccTLD .vn 国際電話番号 84
共産主義 |
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社会主義 |
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ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、ベトナム語:Cộng hòa Xã hội chủ nghĩa Việt Nam / 共和社會主義越南)、通称ベトナムあるいは越南(えつなん、ベトナム語:Việt Nam / 越南、ヴィエッナム/ヴィエットナム、[vîət nāːm] ( 音声ファイル))は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する共和制国家[3]。首都はハノイ(河内)。人口約9936万人(2021年)。通貨はドン。
ベトナム共産党による一党独裁体制下にあり、東南アジア諸国連合の加盟国であり、フランコフォニー国際機関の参加国でもある。インドシナ半島の東海岸をしめるベトナムの国土は南北に長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東と南は南シナ海に面し、フィリピン、ボルネオ島(マレーシア連邦やブルネイ、インドネシア)そしてマレー半島(マレーシア連邦およびタイ王国南部)と相対する。
南シナ海南部のスプラトリー諸島を「長沙諸島」(ちょうさしょとう、ベトナム語:Quần đảo Trường Sa / 群島長沙、クァンダオ チュオンサ)と呼称して自国領と主張し、一部を実効支配している。南シナ海中部のパラセル諸島(ベトナム名は「黄沙諸島」)についても領有権を主張している[4]。
概要
[編集]ベトナム国家の始まりは、中国の南東岸に住む「百越」という諸民族が南下し、現在のベトナムの地に遷移して、原始的だが小規模な国家群を形成したことに由来する。漢・唐の時代には中国の侵略に抵抗できず、中国からの直接支配を受けたが、10世紀には独立した[5]。
その後のベトナムでは丁朝・李朝・陳朝・黎朝・阮朝など独自の王朝国家が成立し、文化的な繁栄をみせた。
19世紀後半にはフランスが中国の清王朝を破り、ベトナムを中国の冊封体制の下から転出させて、フランス領インドシナという植民地政府の下に編入した[5]。第二次世界大戦中の日本軍の進駐(仏印進駐を参照)と戦後の第一次インドシナ戦争を経てフランス植民地体制が崩壊し、国土は社会主義陣営のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義陣営のベトナム共和国(南ベトナム)に分裂。ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)を経て南ベトナムの政権が崩壊し、1976年に統一国家としてベトナム社会主義共和国が成立した[6]。
政治体制はベトナム共産党による一党独裁体制である[7][8]。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界136位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)[9]。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも下から6番目の175位と下位であり、最も深刻な状況にある国の一つに分類されている(2020年度)[10]。
人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、政府が言論・結社・報道・信仰など人民のあらゆる基本的自由を制限しており、刑事司法は政府からの独立性に欠け、警察は自白を引き出すために拷問を多用するという人権侵害が極めて深刻な国であることを報告している[11]。
経済面では、1978年のカンボジア侵攻後の国際的孤立の中で国際収支が悪化して経済危機に陥り、干ばつや洪水などの自然災害による食糧不足などが重なって大量の難民を出す事態に陥った[5]。その対策として1986年にドイモイを打ち出し、経済の自由化を進めた。外国資本の導入で製造業は活況を呈し、南シナ海で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品になっている[6]。他方でドイモイの進展で貧富の格差は拡大している[5]。
外交面ではベトナム戦争以来親ソビエト連邦外交を基調としたため、ソ連と対立する中華人民共和国と関係が悪化。1977年に国連に加盟するも、1978年に親中反ソ派のポル・ポト政権下のカンボジアに侵攻したため、1979年に中国のベトナム侵攻を招き[12]、国際的に孤立した[6]。ソ連崩壊後の1991年に中越戦争で交戦した中華人民共和国と、1995年にはベトナム戦争で交戦したアメリカ合衆国と国交を回復し、ASEANにも加盟した[5]。近年は南沙諸島など南シナ海への実効支配を強める中国との対立が深まっており[13]、2010年代以降はアメリカ軍やASEANと合同軍事演習を行うなど中国牽制の姿勢を強めている[14][15]。2016年にはTPPに加盟[16]。また、フランス統治時代があったため、フランス語とを共有する国・地域の総体フランコフォニー国際機関にも加盟している。
軍事面では18歳から25歳の男性を対象に兵役期間2年の徴兵制を敷いており[17]、ベトナム人民軍は50万弱の兵力を有する[18]。軍事力は軍事ウェブサイトの グローバル・ファイアパワー (GFP) が発表する「2020 Military Strength Ranking」によれば世界22位で、東南アジアでは第2位である[19]。
人口は9762万人(2020年ベトナム統計総局)。住民はキン族(ベトナム人)が約86%を占め、他にミャオ族、チャム族など53の少数民族が存在し、中国人も暮らしている[5][20]。
宗教は仏教徒が多いが、カオダイ教やホアハオ教、フランス植民地時代からのカトリックも存在する[5]。憲法上は信教の自由を認めているが、実際には政府による強力な規制・監督が敷かれており、アメリカから信教の自由の改善を要請されている[21]。
公用語はベトナム語で住民の大半が使用しているが、一部に少数民族の言語も存在する[5]。表記方法としては古くは漢字が用いられ、13世紀からはチュノムという漢字を基に作られた独自の民族文字が使用されるようになったが、フランス統治時代以降はチュ・クオック・グーと呼ばれるローマ字表記が用いられており、現在は漢字とチュノムは廃れている[22]。
地理としてはインドシナ半島の東半部、トンキン湾、南シナ海に沿うS字形の南北に細長い国土である。北部はソンコイ川の形成する 紅河デルタとそれを囲む山岳地帯から成り、中部はアンナン山脈が急崖をなして南シナ海岸に迫る狭い地域であり、最狭部では東西の幅が約50kmである。南部は主としてメコン川のメコンデルタからなる。首都はハノイ[5]。
国名
[編集]正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam" ( )。略称は "Việt Nam" (ベトナム語発音: [viət˨ nam˧] ( 音声ファイル))である。ベトナム語の漢字(チュハン)では「共和社會主義越南」「越南」となる。
1802年に現代とほぼ変わらない領土で統一した人物は、阮朝の創始者の阮福映(嘉隆帝)である。1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、「越南」を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」の号を求めたが、嘉慶帝は「越南」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
ロシア語で「Вьетнам」と書き、ラテン文字表記法の学術表記で「V'etnam」になり、日本語表記は「ベトナム」となる。しかし「i」があるベトナム語による「Việt」の正しい発音は「ベト」ではなく「ヴィエッ」であることから、一部文献などでは「ヴェトナム」「ヴィエトナム」「ヴィエットナム」などの表記もみられる。漢字文化圏の国家なので漢字で「越南」(えつなん)の表記もあり、越(えつ)と略す。「越南」の表記を用いながら「ベトナム」と呼ぶこともある。現在の日本国の外務省ではカタカナで「ベトナム」「ベトナム社会主義共和国」の表記を用いるが、かつてはベトナム語の発音に近い「ヴィェトナム社会主義共和国」の表記となっていた。
公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。1976年6月24日、ベトナム戦争後初の南北統一国会(第6期国会第1回会議)が招集され、7月2日の国会決議により現在の国名が決定された[23]。2013年の憲法改正時に、「ベトナム社会主義共和国」の国名を、1945年のベトナム八月革命によって独立した時の国名「ベトナム民主共和国」に改める動きが報じられた[24][25] が、改正案から国名変更部分は除外され、変更はされなかった[26]。
歴史
[編集]石器文化
[編集]今からおよそ30 - 40万年前の地層から人類の歯がハノイ北方のタムハイにあるタムクエン洞窟(ランソン省)で発見されている。他の場所からも、例えばクアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)から打製石器や剥片石器がたくさん発見されている。また、タムオム(ゲアン省)、ハンフム(イエンバイ省)、トゥンラン(ニンビン省)、ケオレン(ランソン省)などからも人類の足跡が発見されている[27]。
今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス)が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省)、ソンビー(フート省)やライチャウ、ソンラ、バクザン、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧で、万能石器である[28]。
最終氷期が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器を伴い、石製の鋤・鍬が見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾して農業ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから、犬や豚を飼って畜産を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟や採取、場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる[29]。
青銅器文化
[編集]部族国家群鴻龐朝(現フート省付近の文郎国、山岳部の甌越、紅河デルタの雒越など)を形成していた。これが古越人(後のベト族)である。紀元前4世紀ごろから、東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が、北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯に広がった。秦の始皇帝によって象郡が置かれ、郡県支配を受けた。蜀泮によって文郎国、甌越、雒越が統合され、甌雒(紀元前257年 - 紀元前207年)が成立し、コロアを王都とした。紀元前207年に南越国が成立し、甌雒を併合した。
北属期
[編集]- 北部 - 紀元前111年の漢の南越国征服で漢の武帝が遠征して南越国が滅亡。第一次北属期(en、紀元前111年 - 39年)に入り、交州(交趾郡、日南郡など9郡)と呼ばれた。40年チュン姉妹が蜂起したチュン姉妹の反乱が起こるが、後漢に制圧され第二次北属期(en、43年 - 544年)が始まる。6世紀の終わりごろに隋(581年-618年)が中国を統一し、交州総督府を設けた。544年に李賁が前李朝を興して独立。602年、隋李戦争で隋が前李朝に侵攻し、第三次北属期(en、602年 - 938年)に入る。次代の唐 (618-907) に引き継がれ安南都護府となる(安南という呼称の始まり)。755年に唐で安史の乱が起こると支配は動揺し始め、南詔がハノイの安南都護府を占領した(862年 - 866年)。
- 中部 - 192年、オーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)が日南郡で、インド化されたチャンパ王国を形成して後漢から独立。734年に平群広成らの乗る日本の遣唐使船第3船が暴風雨で難破し、崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕縛された。後に脱出して長安に戻り、渤海経由で日本に帰国した。
- 南部 - 扶南国(1世紀 - 6世紀)、真臘(6世紀 - 8世紀)。
越人王朝の形成
[編集]- 北部 - 唐末五代十国の混乱で中国の支配が後退すると939年の白藤江の戦いで最初の民族王朝呉朝が成立(北属期の終わり)。965年に十二使君の乱が起こり、966年に丁朝が成立。980年に黎桓が前黎朝を興し、981年の白藤江の戦いで宋軍を追い返すことに成功。1001年に李朝の成立。宋は「安南国」を朝貢国として承認した。1054年に国号を「大越」としたが、19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。以後、越人の王朝「大越」は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗へ譲位させることに成功し、陳朝が成立。
- 中部 - チャンパ王国
- 南部 - クメール王朝
モンゴルの侵攻
[編集]モンゴル帝国に連なる元が中国を支配した13世紀に、皇帝のクビライは3度にわたるベトナム侵攻(元越戦争)を行った。1258年、第1次元越戦争。1283年、第2次元越戦争。1287年、第3次元越戦争。1288年の白藤江の戦いで敗北した元の侵攻軍は敗走した。
第四次北属期
[編集]14世紀に陳朝の都昇龍(タンロン)を2度攻略した制蓬峩(チェーボンガー、Chế Bồng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏が、元に代わった中国・明の永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争(明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期(1407年-1427年)となり、明よって「交阯」(Jiaozhi、Giao Chỉ、交趾)との地名で呼ばれた。
南進時代
[編集]藍山蜂起(1418年 - 1428年)で明軍を追い出した黎利(レ・ロイ)により後黎朝が起こる(1428年 - 1788年)。地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国[30] にはヴィジャヤとパーンドゥランガの2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻(チャンパ・大越戦争)によりヴィジャヤが滅亡した。
黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ、日本は広南阮氏と交易し、ホイアンに日本人町ができ来遠橋などが建てられた。
広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世(在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ズオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên)らの率いる50隻余の艦隊が出現して広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった[31]
1693年に広南阮氏の武将阮有鏡がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省・カマウ省に勢力を伸ばしていた鄚玖の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り、広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人居住領域の併合を行う。
西山朝
[編集]1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり、1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年にシャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福映がメコンデルタ地帯に攻め込んだが(ラックガム=ソアイムットの戦い)、阮恵(グエン・フエ)率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部に辛うじて存在していた後黎朝の昭統帝が清の乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福映は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。
阮朝
[編集]西山朝に内紛の兆しが見えると、阮福映が1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝(1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する[注 1]。
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フランス植民地支配
[編集]1847年4月15日、フランス軍艦がダナンを艦砲射撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い)。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊がダナンに侵攻(コーチシナ戦争、1858年-1862年)。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナが成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランスがハノイを占領した。
1883年6月、トンキン戦争(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナンとトンキンがフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約(第2次フエ条約、パトノートル条約)で清への服従関係を絶つ。
1884年8月、清仏戦争(1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約で、清は宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立し、フランスにより植民地化された。日本では「仏印」と呼ばれた。
反仏独立運動
[編集]フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム(黄花探、通称「デ・タム」)などが知られる。
1904年、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デが維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)。1907年、en:Gilbert Trần Chánh ChiếuとFrançois-Henri SchneiderらによってLục Tỉnh Tân Văn(六省新聞、1907年 - 1908年)がサイゴンで発行される。1912年、広東でベトナム光復会を結成。
1913年、Nguyễn Văn VĩnhとFrançois-Henri Schneiderらによって初のチュ・クオック・グー新聞の『Đông Dương tạp chí』(『東洋雑誌』、1913年 - 1919年)がハノイで発行される。1916年、コーチシナ蜂起。1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。1923年、Diệp Văn Kỳによってチュ・クオック・グー新聞『Ðông Pháp Thời Báo』(『東法時報』、1923年 - 1928年)がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xô Viết Nghệ Tĩnh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。
1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦
[編集]1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻により、フランスは北部を占領され、南部にはドイツに協力するヴィシー政権が樹立された。これに伴い、日本軍が北部仏印進駐。1941年、タイ王国とフランス(ヴィシー政権)の間にタイ・フランス領インドシナ紛争が発生した。日本政府は東京条約でこれを仲裁した直後に南部仏印進駐を決行。米英蘭との対立を深めて太平洋戦争に突入し、仏印は南方作戦(マレー作戦、マレー沖海戦、タイ進駐)における日本軍の策源地となった。
1944年、ヴォー・グエン・ザップが武装宣伝旅団(ベトナム人民軍の前身)を組織。凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、北部(トンキン)を中心に翌年までに200万人以上(諸説あり)が餓死したとされる(1945年ベトナム飢饉)。また、日本軍が「慰安所」を運営したことを示すフランス軍公式資料も確認されている[32][33]。1945年3月11日、保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助(明号作戦)下でベトナム帝国の独立を宣言。1945年8月15日、連合国への降伏を決めた日本がポツダム宣言を受諾した旨を声明(玉音放送)し、軍に戦闘停止を命令したが、8月17日、ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠し(ベトナム八月革命)、この革命でバオ・ダイは退位させられた[34]。9月2日、ベトナム民主共和国の樹立を宣言、ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任。同日、日本が降伏文書に署名した。
アメリカの介入と南北分断時代
[編集]インドシナ戦争
[編集]1946年11月、ハイフォン(海防)でのフランス軍との衝突から、フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争、1946年 - 1954年)が始まる。1949年、フランスはサイゴンにバオ・ダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。国共内戦における中国共産党の勝利で中国大陸に建国された中華人民共和国と、ソビエト連邦は、ベトナム民主共和国を承認。以後、東西冷戦下で北ベトナム及び統一ベトナムは、中ソや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、東欧社会主義諸国とともに東側陣営に属することとなった。
北ベトナムの土地改革(1953年 - 1956年)。1954年5月のディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスは7月にジュネーヴ協定を結んでベトナムから撤退し、独立戦争は終結した。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムではアメリカ合衆国を後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。1960年12月、南ベトナム解放民族戦線結成。
ベトナム戦争
[編集]1962年2月、アメリカ合衆国はサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入によるベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。1963年11月22日にケネディ大統領が暗殺され、ジョンソンが米大統領に就任すると、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件以降、米軍は戦争に直接介入するようになる。1965年2月、アメリカが北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、本格的な戦争に突入する。1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢により、アメリカは大打撃を受ける。5月、パリ和平会談を開始したが、会議は中断される。同年10月、ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開された。1969年1月20日、ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる。6月、南ベトナムで解放戦線は、南ベトナム共和国革命臨時政府を建設し、ベトナム共和国と対峙する。9月2日、ホー・チ・ミンが死去し、レ・ズアンが第一書記として党のトップとなる。1972年4月、アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開する。1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、パリ和平協定に調印する。1973年、日本との国交が樹立される。1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏する。サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は崩壊。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結した[35][36]。
南北ベトナム再統一以後
[編集]1976年4月、南ベトナム消滅による南北統一、初の南北統一選挙が行われた。1976年7月2日、ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名。1976年12月、ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイで開き、旧名称であるベトナム共産党を再度採用した。
カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争
[編集]第二次インドシナ戦争でカンボジアの共産主義勢力クメール・ルージュは、北ベトナムや南ベトナム解放戦線と協力関係にあったが、1975年にカンボジア内戦に勝利して民主カンプチアを建国した後はベトナムとの対立を深めた。民主カンプチアによる多くの国境侵犯やバチュク村の虐殺などにより、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争(第三次インドシナ戦争、1978年 - 1989年)でカンボジアへの侵攻を開始。1979年、侵攻を非難する中華人民共和国がベトナムを攻撃し、中越戦争が開始される。世界各国は援助を停止したためベトナムは孤立するが、戦争期に中ソから支援され、またアメリカや南ベトナムから鹵獲・接収した多種多様な近代兵器と実戦経験豊富な古参兵を擁するベトナムは、文化大革命で混乱・疲弊した中国人民解放軍を相手に善戦し、国連五大国の一角である中国を一度は退けた。
戦争が継続される一方、国内の産業は混乱、経済は低迷した。特に、1979年の農業は農地の集団化が進まないなどの理由でコメの生産が計画量に達せず、軽工業も人材不足や原材料の輸入途絶で生産が停滞した。五か年計画は破綻し、コメの配給が行われない地区も発生した[37]。
1986年7月、レ・ズアンが死去。12月、第6回全国代表者大会以降、チュオン・チン国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(刷新)政策」を開始し、改革・開放路線に踏み出す。1988年3月14日、ジョンソン南礁が中華人民共和国に占領される(スプラトリー諸島海戦)。カンボジア・ベトナム戦争で勝利してヘン・サムリン率いる親ベトナム政権を成立させた代償にソ連圏を除く国際社会から孤立し、国内経済が疲弊しており、1989年9月、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。カンボジアからの撤退を命じたグエン・ヴァン・リンらが1990年に秘密裡に訪中し、1991年に中国を訪れたヴォー・チ・コン国家評議会議長が江沢民総書記と会談、越中関係を正常化させた。
関係改善期
[編集]1991年6月27日、ドー・ムオイが共産党書記長(最高指導者)に就任。1993年2月、フランスと和解(当時のフランス共和国大統領はフランソワ・ミッテラン)。1995年7月、クリントン・アメリカ大統領が、国家の承認と外交関係樹立を発表。1995年8月5日、アメリカと和解した。
7月、東南アジア諸国連合(ASEAN)が加盟を認め、周辺諸国との関係も改善した。10月、所有権や契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる。1996年1月、ASEAN自由貿易地域(AFTA) に参加。1997年12月29日、レ・カ・フューが共産党書記長に就任。1998年、アジア太平洋経済協力(APEC)参加。2003年7月5日 フォンニャーケーバン国立公園がユネスコ世界遺産に登録された。
2001年4月22日、ノン・ドゥック・マインが共産党書記長に就任。2003年、日越投資協定締結。2006年初頭、Bui Tien Dungが拘留される。6月27日、チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員(ホーチミン市党委員会書記)を選出した。また、引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を国会は選出した。6月28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。ダオ・ディン・ビン交通運輸大臣は同省傘下の汚職事件(PMU 18 scandal)で指導責任を問われ、事実上更迭された。
2007年1月11日、世界貿易機関(WTO)に正式加盟した(150番目の加盟国)。2007年10月16日、国連総会で安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。
2011年、グエン・フー・チョンが書記長に就任。反腐敗運動を進め権力集中が進む。2021年、コロナウイルスによる社会の混乱から異例の3期目となる[38]。2023年、汚職によりナンバー2であったグエン・スアン・フックが失脚[39]し、2024年3月にはフックの後任となっていたヴォー・ヴァン・トゥオンも「党の規律に違反する行為」があったとして失脚。同年4月には、ヴオン・ディン・フエ国会議長も「党の規則に違反し、党や国家の威信に影響を与えた」ことを理由に任期途中の辞任が承認された[40][41]。
政治
[編集]統治体制
[編集]政体は社会主義共和制。統治体制は、憲法第4条において「労働者階級、働く人民及び全ての民族の利益を忠実に代表する国家と社会の指導勢力」とされている[43]ベトナム共産党による一党独裁制である。共産党内の序列最上位4名が「四柱」と呼ばれており、序列トップが書記長(最高指導者)、序列2位、3位、4位の3名がそれぞれ国家元首である国家主席、政府の長である政府首相、立法府である国会の議長を務めるのが通例となっている[44]。原則として、中国やキューバなど他の社会主義国と違い、党と国家のトップを同じ人物が兼務することはなく「四柱」を中心とした集団指導体制を取る。2018年10月には病死したチャン・ダイ・クアン国家主席の後任としてグエン・フー・チョン共産党書記長が2021年まで国家主席を兼任していた[45]。2024年以降、書記長がトー・ラム、国家主席がルオン・クオン、首相はファム・ミン・チン、国会議長はチャン・タイン・マンである。
最高指導者であるグエン・フー・チョンは反汚職を掲げて権力を集中させており、ナンバー2であったグエン・スアン・フックとヴォー・ヴァン・トゥオンが相次いで失脚、四柱のポストも彼に近い保守派で北・中部出身者である[46]。
南北統一の歴史的経緯として指導者のバランスを取ることで融和を目指す事が慣例であったが破られた[47]。
マルクス・レーニン主義、ホー・チ・ミン思想を基軸とするベトナム共産党は、現在のベトナム社会主義共和国憲法(2013年制定)第4条に「国家と社会の指導勢力」と明記されている。建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行っており、ホー・チ・ミン(初代ベトナム労働党主席兼ベトナム民主共和国主席)でさえも専制的な権力を有したことはない。1980年代までは、民主党、社会党などの衛星政党も存在するヘゲモニー政党制であったが、1980年代末には解散され、名目的な複数政党制から、純粋な一党制に移行した。現在、ベトナム共産党以外の政党の結成は禁止されている。
政府の運営は極めて官僚的であり、市場経済化しつつ政治の民主化は認めない中国共産党独裁下の中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを簡素化するなど、投資の透明性や効率性を向上させようとしている[48]。
立法
[編集]立法府たる一院制の国会は憲法では「国権の最高機関」とされ、定員500名、任期5年。ただし、一党独裁制であるため、国会は重要な役割を果たしてはいない[注 2]。全立候補者は共産党翼賛組織の「ベトナム祖国戦線」の審査で絞り込まれる[50]。投票率は9割以上だが、家族や組織の代表者による代理投票が行われており、実際の投票経験はない国民も多い[51]。
国会議員の9割以上は共産党員であり、1986年以降は政府批判の発言も見られるが、党の指導は絶対的である[51]。
住民登録
[編集]長らく戸籍で国民を登録していたが2021年7月1日に戸籍簿の発行が終了[52]、2023年1月1日[53]、個人を単位とする住民データベースに移行[54]。
国際関係
[編集]中国との関係
[編集]共産党の一党社会主義体制を採用しており、社会主義市場経済やネット検閲など中国と類似する政策を行なっているために「ミニ中国」の異名がある[55]。
中国の王朝から侵略や支配を受け938年にその支配を脱した。
第一次インドシナ戦争やベトナム戦争では、ベトナム民主共和国は中華人民共和国から支援を受け、グエン・ソンのような中国共産党党員はベトナム人民軍初の士官学校をつくった。しかし、北ベトナムに対して北爆再開など大規模な軍事攻撃を行ったリチャード・ニクソン大統領の中国への電撃訪問から中国はアメリカ合衆国に接近し、パリ協定でのアメリカ軍撤退に乗じて西沙諸島の戦いで中国が南シナ海への進出などしたため、摩擦が起き始めた。中国に友好的だったホーチミンの死後になされた南北ベトナム統一後、ソ連寄りとなったベトナムによるカンボジアへの侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)を巡っては1979年に中国との大規模な戦争を起こし(中越戦争)、中国は米国とともに民主カンプチア連合政府やフルロなどベトナムに対する抵抗活動を支援し、1989年にグエン・ヴァン・リンらがベトナム人民軍にカンボジアからの撤退を命じて中国と国交正常化交渉を開始するまで度々交戦(中越国境紛争)をしている状態であった。
領土問題を抱えているが友好国の一つでベトナム共産党を二分する派閥は親中派である[56]。
最大の貿易相手国である[57]。
台湾との関係
[編集]台湾には、在台ベトナム人(在台越南人)とベトナム系台湾人(越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争後の難民や出稼ぎ労働者、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2019年時点で在台外国人約76万人のうち、在台ベトナム人は約22万人と29%を占める[注 3]。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
北朝鮮との関係
[編集]朝鮮民主主義人民共和国とは、共産主義国家同士の関係で、ハノイ、平壌双方の首都に大使館が設置されており、大韓民国よりも早く国交を結んでいる。ベトナム戦争時には、朝鮮人民軍部隊が北ベトナムへ派遣された(朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦)[58]。また、過去にはベトナムの声の交換中継をしていた。一方で北朝鮮の銀行関係者を追放するなど、国際連合の対北朝鮮経済制裁を実施している[59]。
このほか、2019年2月の米朝首脳会談のホスト国も担った。
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韓国との関係
[編集]ベトナム戦争に韓国がアメリカの参戦要請により参加[60]、ハミの虐殺、性暴力、性暴力による出生または民間人との間に出来た子供の置き去りとなったライダイハン問題などが起こる[61][62]。
なおベトナム政府はベトナム戦争の問題では韓国政府への謝罪、補償の要求は行っておらず補償を求めているのは個人である[63]。
1992年にかつての北ベトナムであるベトナムと国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物京南ハノイランドマークタワーを所有し、またホーチミン市でも一番高い建物であるビテクスコ・フィナンシャルタワーをヒュンダイグループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。特に中国から携帯電話の生産拠点を移したサムスン電子は2016年の輸出総額の2割近くを占めている[64]。
ベトナム人労働者や結婚移民を送り出しており2019年の韓国における結婚移民ではベトナム人が4万人で最も多かった[65]。
アメリカ合衆国との関係
[編集]第二次世界大戦中は、アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたるベトミンとの関係は対日戦の盟友であった。日本軍優勢のころにインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したりしたアメリカ軍航空隊の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている[注 4]。また、アメリカ軍が潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている[67]。1940年代後半の独立時に制定された憲法は、旧宗主国フランスのみならずアメリカ合衆国憲法をも参考に作られており、1950年代にアメリカでレッド・パージ(マッカーシズム)が起こったころには、一時、自らの共産党を法的に非合法組織としたことすらあった。
第一次インドシナ戦争でフランスに勝利した後、アメリカが介入した。影響力を喪失した旧宗主国のフランスに代わり、アメリカ合衆国政府は南ベトナムに傀儡政権[要出典]を樹立して、背後から操って間接支配を続けた。1954年にベトナム独立戦争が終結した後、1960年にアメリカ合衆国の傀儡政権[要出典]を打倒し、ベトナム人自身による民族自決統治を求める南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナム政府軍に対する民族独立の武力闘争を開始した。
1961年にアメリカ合衆国政府は、南ベトナムにアメリカ合衆国軍や軍事顧問団を派遣し、傀儡政権である[要出典]南ベトナム政府を支援し、トンキン湾事件を口実にベトナム戦争への軍事介入、南ベトナム解放戦線に対する掃討戦を開始した。詳しくはベトナム戦争(ベトナムでは「抗米戦争」と言われている)を参照。1965年に、アメリカ合衆国政府は北ベトナムに戦線を拡大し、北ベトナムのみでなく、ベトコンが潜伏していたラオスやカンボジアに設置された「ホーチミン・ルート」も同時期に大規模爆撃した。
米中央情報局(CIA)は、秘密戦争をタイ王国、ラオス、カンボジアで開始していた。中でも、米国内で秘密にされた米軍によるロン・ノル政権支援の為のカンボジアへの大爆撃は、この一国に対してだけで、第二次世界大戦での日本本土空襲総規模の三倍に達していた事も判明している。北ベトナムとアメリカは敵対関係となった。アメリカ軍はベトナム戦争当時の1968年(昭和43年)3月16日に、クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落にて、ソンミ村虐殺事件を起こしている。
また、捕らえられた米兵は、別名「ハノイ・ヒルトン」(正式名称:ホアロー捕虜収容所)に収容され、後にアメリカ合衆国上院議員となるジョン・マケインも収容され捕虜となった後、北ベトナム兵より拷問を受けた。(ハノイ・ヒルトンとは蔑称であり、本家「ヒルトンホテル」のことではない)。1999年に、本物のヒルトンホテルである「ヒルトン・ハノイ・オペラ」が、首都ハノイで開業している。
1975年4月30日のサイゴン陥落で、ベトナム戦争でのアメリカ合衆国の敗戦が確定した。事前に進軍を察知したアメリカ合衆国は「フリークエント・ウィンド作戦」を決行し、自国民の保護の他に南ベトナムの要人も保護した。アメリカが支援していた南ベトナムからは、多くの難民(ボートピープル)が流出し、カナダ、オーストラリア、フランス、アメリカ、日本へと移民した。サイゴン陥落後からソビエト連邦の崩壊を経て、ドイモイ政策後の1995年8月5日、アメリカと和解し、当時のビル・クリントン大統領は越米両国の国交を樹立させ、通商禁止も解除された。しかしアメリカは、1973年のパリ和平協定の戦時賠償事項を、2015年時点に至っても全く履行していない。
2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカが貿易最恵国としたこともあり、フォード・モーターやゼネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出。2003年に国防大臣はアメリカ国防総省(ペンタゴン)の歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。
政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の枯葉剤などについても、あえて「民間団体」に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っている。一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米的な珍しい例である[68]。2010年8月には国交復活15周年を記念し、空母ジョージ・ワシントンが中部ダナン市を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却して未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
アメリカは、南ベトナムからは82万人もの難民を受け入れた。ベトナム系アメリカ人が故郷に旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義の本土とは対立が根深く、政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
2015年7月7日には、ベトナム戦争後、最高指導者として初めてグエン・フー・チョン党書記長が訪米して、バラク・オバマ大統領とホワイトハウスで会談した[69]。2016年にオバマ大統領が訪問し、武器輸出全面解禁を表明した[70]。2023年にはジョー・バイデン大統領がグエン・フー・チョン共産党書記長と会談し、両国関係を包括的戦略パートナーシップに格上げすることで合意した[71]。
フランスとの関係
[編集]植民地化を図るフランス第三共和国は、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)と1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によって保護国化した。宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、カンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。
1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携の下での民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。
1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナに日本軍が進駐した(仏印進駐)。当時は、日本とドイツが同盟を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本はその隙を衝いて[要出典]仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「大東亜共栄圏」の建設を呼号し、明号作戦の結果、カンボジアとラオスと同時期の1945年3月11日、ベトナム帝国としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、阮朝が王政復古を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけて一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。日本のポツダム宣言受諾表明に至る1945年8月14日から15日にかけて、インドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイは8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。
現在の食卓で見かけるベトナムコーヒーやフランスパン、バインミー、ワインは、仏領インドシナの名残りである。シエスタ(昼寝)の習慣、ダラットで見かける高級ホテルや別荘、カトリック教会の聖堂であるハノイ大教会やサイゴン大教会、ダナン大教会さらにホイアンの古い町並みは、フランス統治時代の面影を色濃く遺している。また、現在は世界遺産であるミーソン聖域の修復を施したのも、フランスのフランス極東学院であるが、ベトナム戦争時に、ここを拠点にしていた南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)アジト掃討のために、アメリカ空軍の爆撃機・B-52によって破壊された。
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日本との関係
[編集]明治時代から昭和前半
[編集]最後の王朝である阮朝は、フランス共和国の植民地侵攻により、フランス領インドシナとなった。1905年、日露戦争で帝政ロシアに対する日本の勝利が、ファン・ボイ・チャウなどの知識人らに知れ渡り、独立するための武器援助を日本に求めるため、来日した。彼らの要請は犬養毅によって拒否されたが、代わりに勉学に勤しむことを提案され、日本へ留学する「東遊運動」が盛んになった。しかし、フランスは日本に圧力をかけて1907年に日仏協約を締結させ、日本在住のベトナム人を追放させた。
第二次世界大戦
[編集]1940年(昭和15年)に日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年(昭和16年)には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、日本軍は太平洋戦争末期までフランス領インドシナ政府と共存していた。その後、日本軍は、1945年3月の明号作戦によりフランス領インドシナを解体し、阮朝の保大帝の下でベトナム帝国を独立させた。
戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟(ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは保大帝を退位させてベトナム八月革命を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないと見做されている[注 5][信頼性要検証]。
第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、国内ではこの200万人という数字は広く知られている(「ベトナム独立宣言」参照)が、日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている(『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波現代文庫、2005年)。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により「経済協力」の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。
第二次世界大戦後
[編集]第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、フランス軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まった。ベトミンに残留日本兵が多数参加し、独立に対して多大な貢献をした。当時、766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵が政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって日本へ帰国した150人以外は、なお留まり続けた模様である。
1951年に日本政府はベトナム国(南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)が国名を変更したベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。
一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の1973年7月より、フランスの首都パリにおいて国交交渉が開始される。同年9月21日には交換公文が交わされ、大使級の外交関係が樹立された[73][74]。また、国交樹立の合意に伴い「経済協力」の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。
日本共産党と全教は1993年よりフエでストリートチルドレンの保育・教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫[注 6] 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党系[注 7] の活動家・政治家と親しく、1994年6月30日から1997年(平成9年)11月7日の自社さ連立政権下においては、フエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行なっている。
近年の日越関係
[編集]現在,日越関係は「アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ」の下、政治、経済、安全保障、文化・人的交流など幅広い分野で緊密に連携している。日越間の交流の増加を受けて、1997年の在大阪ベトナム総領事館開設に続き、2009年に在福岡ベトナム総領事館、2010年に在釧路ベトナム名誉領事館と在名古屋ベトナム名誉領事館が開設された[75]。
皇太子徳仁親王(当時)は2008年(平成20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し[76]、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイ、ダナン、ホイアン、ホーチミン市と、各地を縦断して訪問し、明仁上皇が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川支流で新種のハゼが見つかったことを明らかにした学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した[77]。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している[78]。
査証(ビザ)に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する口上書を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている[79]。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である[80]。
在日ベトナム人は増加傾向にあり、2023年末には56万5026人となり、日本の外国人で中国に次いで2番目に多い[81]。
政府開発援助・価値観外交
[編集]ODAは日本が最大の支援国であり[82]、日本のODAによってタンソンニャット国際空港やカントー橋などの基幹インフラを建設・支援をしている。「自由で開かれたインド太平洋」構想に基づいた援助も行われている[83]。
教育・文化交流事業
[編集]- 日本の広報拠点として、2002年にJICAプロジェクトとしてベトナム日本人材協力センター (VJCC) が開設され、2008年に国際交流基金のベトナム日本文化交流センターが開設された。
- 日本語教育については、1943年(昭和18年)にサイゴンで日本語が教えられていたとの記録がある。2003年に国際交流基金の「ベトナム中等学校における日本語教育試行プロジェクト」が始まる。2021年時点で日本語学習者数は169,582人。2023年5月時点で、日本への留学生数は36,339人で、国別では第3位[84]。
- 2016年9月9日、「日越大学」が開校した、日本の政府と大学が協力する[85]。
国家安全保障
[編集]ベトナム人民軍(Quân đội Nhân dân Việt Nam/軍隊人民越南)は独立前の1944年12月22日に建軍された。徴兵制度を採用しており、18歳から27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。
国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。
中越戦争時には総人口5000万人台に対して正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、現在では総人口約9000万人に対して48万4000人まで削減された。人員は陸軍が41万2000人、海軍が4万2000人、防空・空軍が3万人である。このほか、予備役と民兵が合わせて300万人~400万人いる。予備役将校の職業は様々で、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。
外国との軍事協力
[編集]ベトナム人民軍は日本の防衛大学校に本科学生相当の留学生を多数派遣している。
アメリカ合衆国や日本からは巡視船の供与を受け[86][87]、カムラン湾には伝統的友好国のロシア海軍は勿論、アメリカ海軍や海上自衛隊、中国人民解放軍海軍などの艦船が寄港している。
インドとは2022年6月に、相互の軍事基地を補給・補修に使う、外国との初の協定を結んだ[88]。以前からインド海軍はベトナム人民海軍将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請したこともある[89]。
2014年には国際連合平和維持活動に初参加した[90]。また2022年12月上旬には国として初の大規模国際防衛展示会を開催し、米露など30カ国が参加した[91]。
地理
[編集]概要
[編集]ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるアンナン山脈(チュオンソン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタ地帯は紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタ地帯はメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
沿岸には北部・トンキン湾を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土として、海南島との間にあるバクロンヴィー島、ホーチミン市から約600km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「チュオンサ」(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「ホアンサ」(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中華人民共和国の実効支配下にある。最大の島は、最西端の領土となる、シャム湾に浮かぶフークォック島である。
主要な河川は紅河(支流であるカウ川、ロー川、ダー川)、タインホアに河口を持つマー川、ヴィンに近いカー川、中部のトゥイホアに河口を持つバー川、南部のドンナイ川、メコンデルタのメコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は、中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。
デルタ地帯
[編集]5月から11月にかけて、インド洋を渡ってやってくるモンスーン(季節風)が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川の至る所で堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタや南部のメコンデルタが、重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である[92]。
平野
[編集]ベトナム北部には、紅河、マー川(タインホア省)やラム川(ゲアン・ハティン省)の下流域などに大きな平野が広がっている。紅河平原の面積は約15,000平方キロメートルで一面が水田であり、人口は6,500,000人(1931年時点)を擁し、そのほとんどは農民である[93]。
気候
[編集]北回帰線よりも南に位置し、赤道近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーンの影響を強く受ける。7月から11月まで台風の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。
北部は温帯性の気候であり、4月から10月までが雨期となる。首都ハノイの平均気温は1月が16℃、7月が29℃である。年平均降水量は1,704mm。チュオンソン山脈の影響により、山岳地帯では降水量が4,000mmを超える場所もある。ケッペンの気候区分では、温帯夏雨気候(温暖冬季少雨気候) (Cw) に分類されている。
南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候〈Aw〉、一部地域は熱帯モンスーン気候(Am))[注 8]。平均気温は1月が18℃、7月が33℃だが、平均降水量は1,000mmと少ない。
北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江(メコン川)が広がる。
紅河デルタにあるフーリーでは、1980年から1995年の月別平均気温は、1月16℃、2月15℃、3月19℃、4月22℃、5月26℃、6月27℃、7月28℃、8月27.5℃、9月26℃、10月24℃、11月21℃、12月19℃である[94]。
- ハノイの気候(温帯夏雨気候)
ハノイ (1898-1990年)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 33 (91) | 34 (93) | 37 (99) | 39 (102) | 43 (109) | 40 (104) | 40 (104) | 38 (100) | 37 (99) | 36 (97) | 36 (97) | 37 (99) | 43 (109) |
平均最高気温 °C (°F) | 19.3 (66.7) | 19.9 (67.8) | 22.8 (73) | 27.0 (80.6) | 31.5 (88.7) | 32.6 (90.7) | 32.9 (91.2) | 31.9 (89.4) | 30.9 (87.6) | 28.6 (83.5) | 25.2 (77.4) | 21.8 (71.2) | 27.0 (80.6) |
日平均気温 °C (°F) | 16.5 (61.7) | 17.5 (63.5) | 20.5 (68.9) | 24.2 (75.6) | 27.9 (82.2) | 29.2 (84.6) | 29.5 (85.1) | 28.8 (83.8) | 27.8 (82) | 25.3 (77.5) | 21.9 (71.4) | 18.6 (65.5) | 24.0 (75.2) |
平均最低気温 °C (°F) | 13.7 (56.7) | 15.0 (59) | 18.1 (64.6) | 21.4 (70.5) | 24.3 (75.7) | 25.8 (78.4) | 26.1 (79) | 25.7 (78.3) | 24.7 (76.5) | 21.9 (71.4) | 18.5 (65.3) | 15.3 (59.5) | 20.9 (69.6) |
最低気温記録 °C (°F) | 3 (37) | 5 (41) | 7 (45) | 10 (50) | 16 (61) | 21 (70) | 22 (72) | 21 (70) | 17 (63) | 13 (55) | 6 (43) | 5 (41) | 3 (37) |
雨量 mm (inch) | 18.6 (0.732) | 26.2 (1.031) | 43.8 (1.724) | 90.1 (3.547) | 188.5 (7.421) | 239.9 (9.445) | 288.2 (11.346) | 318.0 (12.52) | 265.4 (10.449) | 130.7 (5.146) | 43.4 (1.709) | 23.4 (0.921) | 1,676.2 (65.991) |
平均降雨日数 | 8.4 | 11.3 | 15.0 | 13.3 | 14.2 | 14.7 | 15.7 | 16.7 | 13.7 | 9.0 | 6.5 | 6.0 | 144.5 |
% 湿度 | 78 | 82 | 83 | 83 | 77 | 78 | 79 | 82 | 79 | 75 | 74 | 75 | 78.8 |
平均月間日照時間 | 93 | 56 | 62 | 120 | 186 | 180 | 186 | 186 | 180 | 155 | 150 | 124 | 1,678 |
出典1:World Meteorological Organisation (UN),[95] BBC Weather (record highs, lows, and humidity) [96] | |||||||||||||
出典2:World Climate Guide [97] |
- ホーチミン市の気候(サバナ気候)
ホーチミンの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 31.6 (88.9) | 32.9 (91.2) | 33.9 (93) | 34.6 (94.3) | 34.0 (93.2) | 32.4 (90.3) | 32.0 (89.6) | 31.8 (89.2) | 31.3 (88.3) | 31.2 (88.2) | 31.0 (87.8) | 30.8 (87.4) | 32.3 (90.1) |
日平均気温 °C (°F) | 26.4 (79.5) | 27.7 (81.9) | 29.2 (84.6) | 30.2 (86.4) | 29.6 (85.3) | 28.5 (83.3) | 28.2 (82.8) | 28.1 (82.6) | 27.9 (82.2) | 27.6 (81.7) | 26.9 (80.4) | 26.1 (79) | 28.03 (82.48) |
平均最低気温 |