近藤用可

 
近藤用可
時代 江戸時代前期
生誕 天正10年(1582年[注釈 1]
死没 元和8年2月10日1622年3月21日[1]
別名 通称:五左衛門[1]、縫殿助[1]
戒名 道安[1]
墓所 東京都墨田区横川の霊山寺[1]
幕府 江戸幕府
氏族 近藤氏
父母 父:近藤秀用 母:本多信俊の娘[1]
兄弟 季用用可、用宗、用義、女子(米倉平大夫妻)、女子(小笠原権之丞妻、のち九鬼長兵衛妻)、女子(由良貞繁妻) [2]
養兄弟:忠吉(西郷家貞の子)
正室:小栗重勝の娘
用行用治、女子(都筑為次室)、女子(由良忠繁室)、女子(嶋田左平太妻)、野武右衛門 [3]
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近藤 用可(こんどう もちよし[1])は、江戸時代初期の大身旗本。近藤秀用の次男で、父より5000石を分知された。「五近藤家」の一つ・気賀近藤家の祖。

生涯

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五近藤家略系図
康用
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀用
 
 
 
 
 
 
 
 
 
用忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
季用
 
 
 
用可用義用尹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞用用行用治用将
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(金指)(大谷)(気賀)(井伊谷)(花平)

天正10年(1582年[注釈 1]近藤秀用の次男として生まれる。当初は結城秀康松平忠直父子に仕えた[1]

慶長20年/元和元年(1615年)の大坂の陣に際し、父・秀用(当時は上野青柳藩主1万5000石、相模小田原城番)の要請によって幕府直臣(旗本)として召し出されることとなり、浜松で徳川秀忠拝謁した[1]。大坂夏の陣には父とともに従軍し、5月7日の天王寺口の戦いで首級2つを挙げた[1]。戦後[注釈 2]、父の秀用より5000石余を分知され[1][4][5]、父に代わって鉄炮足軽50人を預けられた[1][4]

元和5年(1619年)、秀用は1万石の領地を「旧領」である遠江国井伊谷周辺(遠江国引佐敷知豊田麁玉長上の5郡内)に移されるが[4]井伊谷藩参照)、このとき用可も知行地を同地域(遠江国引佐長上麁玉敷知の4郡内)に移された[1]

元和8年(1622年)、上使として越前国に赴いた[1]。これは、用可の旧主でもあった北荘藩主・松平忠直の病気を幕命によって問うための任務である[6]。用可は越前からの帰路、相模国大磯において落馬し、2月10日に没した[1][7]。享年41[1]。江戸・神田の霊山寺に葬られたが[1]、のちに霊山寺が本所に移転した際に改葬された[1]

家督は、嫡出の二男・近藤用治が継いだ。寛永元年(1624年)、用治は庶兄・近藤用行(用可の庶長子。大谷近藤家初代)に分知を行い[8]、この時点で用治が3000石、用行が2000石を領することとなった。のちに用治は引佐郡気賀(現在の浜松市浜名区細江町気賀)に陣屋を置いたため[8][9]、用可から用治に継がれた家は「気賀近藤家」と呼ばれる。

系譜

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『寛政譜』によれば子女は以下の通り[3]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は『寛政譜』での掲載順。

補足

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  • 正妻の父・小栗美作守、三女が嫁いだ島田左平太は、いずれ越後高田藩主・松平光長松平忠直の嫡男。松平越後守)の家臣である。近藤用治は島田左平太の2人の子供(男子1名・女子1名)を養子に迎えており、男子が近藤用由として気賀近藤家の家督を継いだ[8]
  • 二女が嫁いだ由良忠繁は、実兄・由良貞繁(用可の妹の夫)の跡を継いで高家由良家の3代当主となった人物で、のちに由良貞長と改名する[注釈 3][10]。由良貞長(忠繁)の娘の一人は近藤用行の養女になっている[10][11]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 没年・享年より逆算。
  2. ^ 『寛政譜』の用可の項では大坂の陣の「のち」とのみ記される[1]。『寛政譜』の秀用の項では、大坂の陣終結の同年(元和元年)と記される[4]
  3. ^ 由良家では6代当主も「由良貞長」を称している。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.406
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.404
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』pp.406-407
  4. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.403
  5. ^ 山澄元 1973, p. 72.
  6. ^ 大日本史料第十二編之四十四”. 東京大学史料編纂所. 2023年5月10日閲覧。
  7. ^ 『台徳院殿御実紀』巻五十六・元和八年二月十日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.946
  8. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.407
  9. ^ 山澄元 1973, p. 74.
  10. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第七十七「由良」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.426
  11. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.408

参考文献

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  • 山澄元「旗本領と近世の郷荘 : 遠州井伊谷・気賀地方を例として」『史林』第56巻、第6号、1973年。doi:10.14989/shirin_56_839 

関連項目

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  • 井伊谷藩 - 用行の祖父・近藤秀用が1619年に入封して成立した藩。翌1620年、分知により大名領としては消滅。1631年の秀用の死後、遺領は「五近藤家」に分配された。