遠山景前

 
遠山景前
時代 戦国時代
生誕 生年不詳
死没 弘治2年(1556年)3月4日
別名 景崎、左衛門尉
戒名 景前院殿前左金吾宗護大禅定門
主君 土岐氏美濃斎藤氏)→武田信玄
氏族 岩村遠山氏
父母 父:遠山景友
長男:景任、次男:武景、三男:直廉
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遠山 景前(とおやま かげさき)は、戦国時代武将大名遠山氏の宗家の岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡(現在の岐阜県恵那市岩村町)の岩村城主。

遠山三頭と遠山七頭

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藤原利仁流の加藤景廉を祖とする『寛政重修諸家譜』などの諸系図による説で、異説もある。美濃遠山氏は、景廉が鎌倉幕府創設時の功績により遠山荘を含む数か所の荘園地頭職を与えられたが、その長男の景朝が遠山荘を相続して岩村に居を構えたことに始まる。

景朝の長男の遠山景村苗木遠山氏の初代となり、次男の遠山景重が明知遠山氏の初代となり、三男の遠山景員が岩村遠山氏を相続した。この岩村・苗木・明知を、遠山三頭(三遠山)と言う。

戦国時代末期には、飯羽間遠山氏串原遠山氏安木遠山氏明照遠山氏も含め七家が存在していた。この七家を、遠山七頭(七遠山)と言う。

松尾小笠原氏と木曽氏の恵那郡侵攻

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応仁元年(1467年応仁の乱が勃発すると美濃守護土岐成頼は西軍について8,000余騎を率いて京に在陣して戦った。

文明5年(1473年)留守を守っていた守護代斎藤妙椿が伊勢に遠征している隙に、東軍の信濃松尾城城主の小笠原家長は、将軍足利義政の命により、子の小笠原定基木曾家豊木曾義元の父)と共に、美濃恵那郡の大井城土岐郡釜戸村にあった荻島城を攻め落とし、その後、恵那郡の中部と土岐郡の一部は松尾小笠原氏の駐留が続いた。苗木遠山氏は木曽氏の傘下となった。

その当時の岩村遠山氏は、景前の祖父:頼景、景前の父:景友、景友の子:景前である。景前の頃には美濃守護土岐氏守護代美濃斎藤氏は凋落しており、東美濃では国人の遠山七頭が諸城を築いて郡外勢力を拒みつつも周辺諸国の豪族との安定した関係を模索しなくてはならない困難な状況となっていた。

大永4年(1524年)7月25日に父の景友が戦死したため景前が岩村遠山氏の当主となった。

松尾小笠原氏の恵那郡撤退と岩村遠山氏の復活

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天文3年(1534年小笠原貞忠が信濃府中家の小笠原長棟に松尾城を攻められて甲斐武田氏を頼って逐電したので、遠山氏は恵那郡中部(現在の釜戸駅中津川駅あたり)の旧領を取り戻し岩村遠山氏は再び勢いを復活した。

かつて隆盛を誇っていた遠山氏の菩提寺の大圓寺は、何者かの攻撃によって一時衰微していた(当時、恵那郡中部を占領していた信濃松尾城主の小笠原貞忠からの攻撃か)。

景前は、甲斐の恵林寺を再興した名僧明叔慶浚を招き大圓寺は再び勢いを取り戻した。明叔は天文10年(1541年)まで止住した。ちなみに明叔は飛騨国の南部を治めた戦国大名三木直頼の義兄である。

天文5年(1536年)7月に、景前は遠山氏の菩提寺であった大圓寺の明叔慶浚を城へ招き、父の景友の十三回忌法要を行った。その時の香語によれば、父の景友は城を出て戦い遂に戦死したとある[1]

天文7年(1538年)景前と思われるが、恵那市大井町武並神社に梵鐘を寄進した。その鐘銘は以下のとおりであった[2]

濃州恵那郡遠山荘大井郷正家村武並大明神之鐘 天文七年戊戌七月十二日鋳之

天文11年(1542年)景前と延友遠山氏延友新右衛門尉が笠木社に梵鐘を寄進した[3]。その鐘銘には以下の銘があった。

濃州加茂郡笠木山大権現新寄進 本願 延友新右衛門尉 藤原景延 願主 遠山左衛門尉 藤原景前 天文十一稔 寅壬 十一月念日

藤原景前とは遠山景前のことで、笠木社とは、現在の岐阜県恵那市中野方町にある笠置神社のことである。このことから延友新右衛門尉は笠置神社周辺を領地としていた遠山氏の一族であることが分かる。

天文16年(1547年)の冬、岩村城内に八幡神社を造立した。その棟札には

遷宮師 棟梁熱田宮住人 粟田源四郎守次」「奉造立八幡宮社頭一宇 大旦主 遠山左衛門尉景前 敬白」「大工 三郎右衛門宗教 天文十六年丁未霜月十日」

とある[2]

天文21年(1552年)景前の次男の遠山武景は苗木遠山氏の養子となっていたが、京都見物の帰途、尾張へ向かう伊勢湾上の船で盗賊により殺害された。景前の三男の遠山直廉は、阿寺城を築いて明照遠山氏の初代となっていたが、兄の武景の後継として苗木遠山氏を嗣いだ。

天文22年(1553年伊勢神宮外宮から景前に正遷宮用脚の願書が届き献金した。[4]

弘治2年(1556年)7月13日、景前が没した。

その後、嫡男であった遠山景任が岩村遠山氏の当主を嗣ぎ織田信長の叔母の(おつやの方)を妻に迎えた。

その結果、岩村遠山氏は織田氏と関係が深まることとなり、岩村城は武田氏と織田氏の双方の奪い合いに巻き込まれることとなった。(岩村城の戦い)

三河松平氏との関係

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享禄3年(1530年松平清康が三河宇利城熊谷氏を攻めて守将を敗走させた戦で、松平清康の名声が周辺諸国にも及び、東美濃の城砦の守将も応じたため景前は松平清康の麾下に入ったという[2]

天文16年(1547年)7月4日、景前は三河国内に所有していた坪地(あち和宮崎[5]と大門黒崎[6])で収穫した米を松平氏の菩提寺の大樹寺境内にあった宝寿院に対する霊供米の寄進状の写しが大樹寺に残っている。

飛騨三木氏との関係

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景前が再興した大圓寺に招いた明叔慶浚は飛騨の三木直頼の義兄であり、明叔慶浚を通じて三木氏とも誼を通じた。三木直頼が菩提寺の禅昌寺に宛てた手紙(禅昌寺文書)に記されている岩村遠山氏との関連内容は以下のとおりである。

加尊書改年之御慶珍重々々、於御祝言者更不可有休期候。抑従大圓寺様御札両種拝領仕候。云々 正月十日
  • 「一、岩村殿より昨日為音信大魚十給候。御懇意之至候。然共悉くさり候間不用立候。無曲と申事候。」
  • 「一、濃州之儀如何御座候哉御無心元候。向雪中候條他国衆可為御太儀候。承度候。云々」
  • 「一、瀬戸物ふちかけ自岩村到来候を、此の方皆々に出し候處、一段重寶之由申候。云々 十月六日」

大圓寺住持の希菴玄密は飛騨の禅昌寺へ移り、永禄元年(1558年)禅昌寺にて景前の三回忌の法要を行った。その時の香語は以下の文言である。

岩村城主遠山景前三年忌香語 這香感仏御風来 熱向一炉酬旧知 散却辟邪濫却敵 煙霏興衝溢坤維 三年景前忌抹香 宰木三霜悠忽移 遠山依田碧参差 国公不是干才栗 開露吹香七月茶 同 三年一笛風 法界即円融 塔影墓誰外 芙蓉初日紅 同塔婆

甲斐武田氏との関係

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遠山氏の菩提寺の大圓寺に、武田氏の菩提寺の恵林寺に居た明叔慶浚や希菴玄密を招き、武田氏と誼を通じて傘下に入ったという説がある。

天文21年(1552年)土岐郡の高山城主の高山光俊(伊賀守)が没したが後継者が無かったため城主が不在となった。そこで可児郡御嵩城主の小栗重則(信濃守)が高山城を攻めて占領しようとした。そのことを肥田民部から遠山景前に連絡があったので、景前は甲斐の武田信玄に早馬を送り相談した。

信玄は平井頼母と後藤庄助を大将として、遠山利景遠山三郎兵衛・遠山左衛門佐・小里出羽守・その子の小里内作・小里助左衛門・小里右衛門太郎らを高山城へ向かわせた。

小栗重則(信濃守)も千人余で大富山に陣を取り川端に押し寄せた。遠山・小里・平井・後藤らは浅野村に陣を取り川を隔てて矢を射かけた。小栗は川を渡って戦い高山城に迫ったが小里親子と遠山与助の30余騎が馬上から鑓を執って真直ぐに進むと小栗勢が敗北したので川を越えて追った。大富山の下で小里出羽守が小栗の長臣を討取ると小栗は引き返したので、肥田村の天福寺の高根で70余りの首実検を行った。

その後、逆に御嵩城は囲まれ落城し小栗重則は自害したという。その結果、可児郡の御嵩城までが武田氏の勢力下に入った。後藤庄助は討死したが、土岐郡の高山城には平井光行・頼母親子が入り城主となった[7]

天文23年(1554年)、信濃国領国化しようとしていた武田信玄が遠山氏の領地と接する信濃の伊那郡を制圧したので、天文24年(1555年)に景前をはじめとする遠山七頭は武田氏に臣従したという。

天文24年(1555年)に三河から今川氏の軍勢に明知城を攻められたため、景前が信玄に助けを求めたのを機に、遠山氏は武田氏の傘下に入ったという説もある。

弘治2年(1556年)正月、遠山氏の菩提寺の大圓寺に武田信玄の制札が掲げられた。その内容は、

夫人の人たるは未だ知り易からず (中略) 太守[8]すでに師を出さんと欲す。太守は制簡を預け賜う。兵卒の強奪を禁止して、吾が小刹[9]をして泰山安んぜしむ。(中略) 弘治ニ季孟陬之月下澣日 大圓野納玄密頓首」[10]

弘治2年(1556年)3月4日、景前は没した。

永禄元年(1558年)3月4日に景前の妻によって三回忌が行われた時の、大圓寺の悦崗宗怡の法語は以下の通りであった。

亡夫を弔う女有り、貞節三歳、千仏に浄斎す。法に依って妻を喜ばすか禅悦こぶか。一家四海を食し、家肥を識る。大日本国濃州路恵那郡岩村郷居住、三宝を奉る弟子、一貞女あり、亡夫景前宗悟大禅定門の為に三祀の間、誓って毎月一度の浄斎、追助冥福を以て、其の功勲また霄漢を上透し、其の善利また黄泉を下徹する者なり。伏して願わくば、這の願輪を棄て、速に剣樹刀山を転破し直に碾き、喝棒の雨を出して、子孫永く祖室の柱礎を作す。武名は鎮支、老爺の門扉決したり。祝々 永禄元祀三月四日、悦崗

参考文献

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  • 『中世美濃遠山氏とその一族』 ニ 中世の遠山氏 8 遠山景前の生涯 p22~p25 横山住雄 岩田書院 2017年
  • 『中世美濃遠山氏とその一族』 三 中世末期の遠山氏 1 遠山景前をめぐる三河と美濃 p25~p29 横山住雄 岩田書院 2017年
  • 『恵那郡史』第六篇 戰國時代(近古後期の二) 第二十二章  遠山氏の末世 【遠山氏と織田・武田氏】 p148~p149 恵那郡教育会 1926年  
  • 『岩村町史』八、遠山氏の繁衍 遠山景前 p108~p109  岩村町史刊行委員会 1961年
  • 『御嵩町史』第一章 中世の御嵩 第二節 南北朝・室町時代の御嵩 五 御嵩城と小栗信濃守 p223~p227 御嵩町史編さん室 1992年

脚注

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  1. ^ 明叔録
  2. ^ a b c 巖邑府誌
  3. ^ 岐阜県安八郡安八町の浄満寺にあった梵鐘の銘(太平洋戦争で供出のため現存せず)
  4. ^ 外宮引付天文
  5. ^ 現在の愛知県岡崎市の西阿知和町か東阿知和町
  6. ^ 愛知県岡崎市大門
  7. ^ 濃州小里記
  8. ^ 信玄
  9. ^ 大圓寺
  10. ^ 明叔録