野間神社 (南さつま市)
野間神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 鹿児島県南さつま市笠沙町片浦4108 |
位置 | 北緯31度23分58.04秒 東経130度09分34.19秒 / 北緯31.3994556度 東経130.1594972度座標: 北緯31度23分58.04秒 東経130度09分34.19秒 / 北緯31.3994556度 東経130.1594972度 |
主祭神 | 瓊瓊杵尊 鹿葦津姫命(木花開耶媛) 火蘭降尊 彦火々出見尊 火照尊 |
社格等 | 村社 |
創建 | 不詳 |
別名 | 野間権現 |
例祭 | 2月10日 |
地図 |
野間神社(のまじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市笠沙町片浦にある神社。旧名は野間権現。旧社格は村社。 野間岳の八合目に鎮座する。
祭神
[編集]沿革
[編集]創始の年代は不明であるが、社記によれば野間岳は瓊々杵尊が最初に上陸した地であり、山腹に神代の都「笠狭宮」(宮ノ山遺跡)があったとされる[1]。標高591mの小山ながら古くから山岳信仰の対象となっており、海上から目立つ山容のため特に航海者からの信仰が厚かった。
『日本書紀』神代下・第九段の一書(第六)の、「吾田の長屋の笠狭の碕に到ります。遂に長屋の竹島に登ります」という瓊々杵尊が登ったとされる竹島(たかしま)が、野間岳であり、笠狭の碕は、野間半島であるといわれている。
当初は野間岳の山頂に「東宮」と「西宮」の2つの本殿があり、東宮には瓊瓊杵尊・鹿葦津姫命を、西宮には火蘭降尊・彦火々出見尊・火照尊を祀っていた。しかし、その後西宮では「娘媽」「順風耳」「千里眼」という神がまつられるようになった。この3柱の神は中国沿岸部の祠でよくまつられる神であり、この地域と中国とのつながりが窺える構成となっている。
「三国名勝図会」には「この宮の建立は最も古くして往古よりありしものならん……」と記されている。
島津忠良はこの神社を崇敬し、天文23年(1554年)に東宮を再建し永禄10年(1567年)には息子・島津貴久、孫・島津義久連名で西宮を再建した。しかし、地理的に台風被害の多い土地であり、その社殿が崩壊したため、文政2年(1819年)に合祀し、文政13年(1830年)には島津斉興が現在地の八合目に、東宮と西宮を統合した1つの社殿として再建した。その社殿も被害を受け、現在の社殿は昭和51年(1976年)に前社殿の痛みが激しいためコンクリートで作り替えられた物である。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- ^ 天本孝志 『九州の山と伝説 総集編』 PP.260、葦書房、1983年
- 『角川日本地名大辞典46鹿児島県』、角川書店、1983年
- 『ふるさとのお社 鹿児島県神社誌』鹿児島県神道青年会、1995年