長嶺亀助
長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年(明治17年)5月1日[1][2] - 1975年(昭和50年)10月21日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]沖縄県[1][2][3](旧小禄村當間)[4]出身。農業・長嶺松助の孫として生れる[1]。小禄尋常小学校、那覇尋常高等小学校、沖縄第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業[1][2][5]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第24連隊付となる[1][5]。歩兵第24連隊大隊副官などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(第28期)を卒業し歩兵第24連隊中隊長に就任[1][2][3][4]。
1917年(大正6年)12月、参謀本部付勤務となり、1918年(大正7年)2月、中国出張を命ぜられ、同年9月から1920年(大正9年)7月までイリに滞在し、同年12月、北京に到着した[1]。1921年(大正10年)8月、関東軍司令部付となり、1922年(大正11年)4月、歩兵少佐に進級[1]。1924年(大正13年)3月、歩兵第6連隊大隊長に就任し、1925年(大正14年)2月、飛行第1大隊付となり、同年5月、兵科を航空兵に転じ航空兵少佐に任官[1]。同年8月、航空兵中佐に昇進[1]。1927年(昭和2年)7月、下志津陸軍飛行学校教官に就任し、1930年(昭和5年)3月、航空兵大佐に進んだ[1][3]。
1930年12月、飛行第6連隊長に就任[1][3]。1931年(昭和6年)11月、関東軍飛行隊を仰せつけられ、満州事変に出動した[1][2][3]。1932年(昭和7年)6月、飛行第6連隊長に復帰し、1933年(昭和8年)3月、所沢陸軍飛行学校教育部長に就任[1][3]。同年8月、同校幹事に転じ、1934年(昭和9年)8月、陸軍少将に進級した[1][2][3]。1935年(昭和10年)8月、陸軍航空本廠長に就任し、1936年(昭和11年)8月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]。
1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで特殊軽金属会社社長を務めた[1]。
伝記
[編集]- 長嶺秀雄『只一人長嶺亀助自伝』1972年。[1]
親族
[編集]- 長男 長嶺秀雄(陸軍少佐)[1]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 當間字誌編集委員会『當間字誌』一般社団法人字當間郷友会、2019年