開南丸
開南丸(かいなんまる)は、白瀬矗の南極探検に使用された船。命名は、東郷平八郎による。船主旗の図案は三宅雪嶺の考案[1]。
要目
[編集]- 総トン数:204トン[2]
- 長さ:100フィート(33.48m)[3]
- 船幅(肋骨外側):25.9フィート(7.85m)[3]
- 深さ:12.9フィート(3.89m)[2]
- 機関出力:18馬力(125ccクラスのバイクのエンジンと同等)[3]
船歴
[編集]元は郡司成忠の第二報效義会の漁獲物運搬船「第二報效丸(だいにほうこうまる[4])」である[5]。「第二報效丸」は1910年3月に大湊の市川造船所で竣工した木製、199トンで3本マストの帆船であった[3]。白瀬は郡司に頼み込んでこの船を譲り受け、後援会が船代などとして2万5000円を支払った[3]。それから石川島造船所で補強工事が行われ、蒸気機関も搭載された[3]。1910年(明治43年)11月21日、船は東郷平八郎元帥により「開南丸」と命名された[4]。
1910年11月29日 - 芝浦を出港し、南極へ向かう[4]。
航海中に一時日本からは消息不明となり、南極探検隊後援会長の大隈重信が川面凡児に相談したとする説がある[6]。
- 1912年(明治45年)
- 1913年(大正2年)
航路
[編集]脚注
[編集]- ^ 白瀬矗書翰 : 大隈重信宛 - 早稲田大学図書館
- ^ a b 小島敏男 2005, p. 37.
- ^ a b c d e f 小島敏男 2005, p. 36「水線間」とあるが、誤植で正しくは垂線間か?
- ^ a b c d e “白瀬南極探検について”. 白瀬南極探検隊記念館. 2017年1月20日閲覧。
- ^ 小島敏男 2005, pp. 34、36.
- ^ 『川面凡兒』光祥社, 2013
- ^ “NPO法人白瀬南極探検100周年記念会公式ホームページ”. NPO法人白瀬南極探検100周年記念会. 2017年1月20日閲覧。
- ^ 『大正NEWS年表』日本地域社会研究所、2011年、p.41
- ^ 「大阪毎日新聞」1913年10月11日記事
参考文献
[編集]- 小島敏男『南極観測船物語 白瀬探検隊から現在まで』成山堂書店、2005年7月28日。ISBN 978-4-425-94711-9。
関連項目
[編集]- 宗谷 - 初代南極観測船。開南丸の南極探検から45年後の1957年1月29日に東オングル島に到達し、日本の南極観測事業の礎を築いた。
- 開南中学校 - 戦前の沖縄県にあった私立の旧制中学校。校名は開南丸にちなんだが、沖縄戦に巻き込まれて廃校となった。
- 開南湾 - 南極の白瀬海岸にある湾。開南丸がロス棚氷に着陸したことに因み名付けられた。