阮淦

阮淦
各種表記
漢字チュノム 阮淦
北部発音: グエン・キム
日本語読み: げん かん
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阮 淦(グエン・キム、Nguyễn Kim光順9年(1468年) - 元和13年5月20日1545年6月28日))は、後黎朝大越の権臣。

生涯

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澄国公阮文溜中国語版と澄国夫人枚氏の長男[注 1]として生まれる。統元6年(1527年)、莫登庸恭皇を退位させて帝位を簒奪する(莫朝)と、阮淦は哀牢に逃げ込んだ[1]明徳3年(1529年)、哀牢王乍斗英語版の援助を受けて、岑州(現在のサムヌア)を拠点に黎朝の勢力を回復させた[2]大正3年(1532年12月昭宗の子の黎寧を迎えて皇帝に擁立(荘宗)し、黎朝を復活させた[3]。荘宗から尚父太師興国公に封じられて、黎朝の実権を掌握した。また将軍の鄭検の才能を見込んで婿とした[1]元和10年(1542年)に莫朝に侵攻して、西都清華乂安の地を奪回した[4]

元和13年(1545年)、莫朝からの降将の楊執一ベトナム語版[注 2]に毒入りの瓜を食べさせられて殺害された[4]。死後、荘宗より昭勲靖公忠憲を贈られた[4]光興17年(1594年3月世宗中国語版によって恵哲顕祐宏休済世偉績昭勲靖王と改諡され、阮淦の八世孫の阮福濶が王を称した景興5年4月12日1744年5月23日)に貽謀垂裕欽恭恵哲顕祐宏休済世偉績昭勲靖王と改められた。

阮福濶の孫の阮福映阮朝を建てると、嘉隆5年6月8日1806年7月23日)に肇祖廟号貽謀垂裕欽恭恵哲顕祐宏休済世啓運仁聖靖皇帝の諡号を追尊し、肇廟中国語版を建てた。

子女

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阮淦を祀る肇廟(フエ

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注釈

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  1. ^ ベトナム史略』および『大越史記全書』では一説に安国公阮弘裕中国語版の子とする。
  2. ^ 『ベトナム史略』による。『大越史記全書』では忠厚侯(名不詳)とする。

出典

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  1. ^ a b 『ベトナム史略』第2巻 自治の時代 第2章
  2. ^ 『大越史記全書』本紀巻之十五 黎皇朝紀 莫登庸
  3. ^ 『大越史記全書』本紀巻之十五 黎皇朝紀 莫登瀛
  4. ^ a b c 『大越史記全書』本紀巻之十六 荘宗裕皇帝

外部リンク

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