阿井英二郎

阿井 英二郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県稲敷郡美浦村
生年月日 (1964-09-29) 1964年9月29日(60歳)
身長
体重
181 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1982年 ドラフト3位
初出場 1985年4月17日
最終出場 1992年6月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

阿井 英二郎(あい えいじろう、1964年9月29日 - )は、茨城県稲敷郡美浦村出身の元プロ野球選手投手)。

2005年から2012年まで埼玉県川越市川越東高等学校地理歴史教諭および野球部監督を務めた後、2013年から2015年まで北海道日本ハムファイターズの一軍ヘッドコーチを務めた。2016年からは、野球解説者として活動した。2018年9月からは硬式野球クラブのイートファクトリーベースボールクラブでシニアアドバイザー、2019年1月からは札幌国際大学スポーツ人間学部の教授も務める[1]

ユニフォームの背ネーム「AI」は、王貞治(OH)、呂明賜(RO)らと並び、日本プロ野球史上最も短い背ネームである。

来歴・人物

[編集]

現役選手時代

[編集]

茨城県美浦村の競走馬調教師の家庭に生まれ[2]東農大二高の野球部から誘いを受けて進学したが、野球留学のため地元選手の父母から冷たい視線を浴びるなど苦労をした[3]1982年、四番・エースとして夏の甲子園に出場した。2回戦で新谷博を擁する佐賀商と対戦したが、先頭打者の打球が右足踝を直撃する不運もあって[4]、1対5で敗れている。

1982年のドラフト会議ヤクルトスワローズから3位指名を受け、1983年に入団した。速球を評価されての指名[5]だった。

1984年イースタン・リーグ公式戦で10連敗を記録した。

1985年のシーズン前には、首脳陣から捕手への転向を勧められた。しかし、投手としての資質を認めていた当時の監督・土橋正幸から開幕一軍メンバーに抜擢された[6]ことを機に、中継ぎ投手として一軍にデビューした。同年に44試合の登板で3勝を挙げる。

1986年には43試合の登板で9勝を挙げる。

1987年は36試合の登板で5勝5敗という成績を残した。この間の登板過多などの影響で右肩を痛めた[7]

1988年からは登板数が徐々に減少した。

1990年には、シーズン終了後の11月15日に、金銭トレードでロッテオリオンズ(翌年本拠地を千葉に移転し千葉ロッテマリーンズに改称)に移籍した。ロッテとは移籍前と同額の年俸1050万円(推定)で契約した[8]

1992年限りで現役を引退した。ロッテ在籍中の一軍公式戦登板は4試合にとどまった。

高校野球の指導者へ転身

[編集]

現役引退後は、医療機器メーカーのアトムメディカルに勤務した。その一方で、自分の経験を基に高校野球での故障を減らす目的[7]で、日本大学文理学部史学専攻の通信教育部に通って教員免許の取得を目指した[9]伊古田純道の生涯をテーマとした卒業論文を提出して教員免許も得たが、教育実習などを通じて教師の仕事にやりがいを感じるようになり[5]1997年4月に野球部のないつくば秀英高等学校(茨城県つくば市)に地理歴史科教員として着任した。

生徒の立ち上げた野球同好会が1999年4月に野球部となるのをきっかけに指導を依頼され、元プロ野球選手がアマチュア指導者になる際に必要な教諭経験に関する高野連の規定が従来の5年間から2年間に短縮された[10]事を受け、4月1日に通算9人目のアマ指導資格を認定されている[11]。当初は専用グラウンドがないためつくば市の野球場で練習し、硬式球が禁止されていたためシャトルコックを用いた打撃練習などを行なっていた[12]。選手の体調を第一に配慮しながら、戦術論などを丁寧に説明することを心がけたという[13]

チームは着実に力をつけ、3年目の2001年には夏の県大会鴨志田貴司を擁する水戸短大付を破って初のベスト8に進出している[14]。一方でこの頃から全国大会出場に対する周囲の期待が高まり、自身もアマチュア勝利至上主義ではないと考える一方で準決勝進出ができない事に悔しさを感じるなど葛藤を抱え[15]2004年をもって同校を離れた。

2005年からは川越東高等学校の地理歴史教諭となり、高校野球の指導を通じて生徒の成長に触れていたいとして[15]野球部監督も務めた。

2009年秋の県大会ではチームがベスト4に進出し、県高野連から21世紀枠の候補校として推薦された[16]

日本ハム一軍ヘッドコーチ時代

[編集]

2012年11月23日に、北海道日本ハムファイターズの一軍ヘッドコーチへ就任した。背番号は81[17]NPBでのプレー経験がある元プロ野球選手が、高校教員と高校野球の監督を歴任した後に、コーチとしてNPB加盟球団に復帰した事例はこの時の阿井が初めてである[18]

就任後は、従来のヘッドコーチ像と一線を画した役割で、ヤクルト時代のチームメイトだった一軍監督・栗山英樹を補佐した。選手への技術指導や戦術・戦略の検討を担当コーチに任せる代わりに、選手との面談を通じて目標の設定や共有を図ったり、選手への声掛けを重ねながら選手の変化の把握に努めたりした。阿井自身は、このような役割について、「周囲に理解されにくかったかも知れない。肩書は『教育コーチ』でも『ケアコーチ』でも良かった」と述べている[19]

在任期間中の一軍は、2013年こそ12年振りの最下位だったが、2014年以降は2年連続のAクラスでレギュラーシーズンを終了した。阿井自身は、2014年限りでヘッドコーチを退任する予定だった。しかし、チームの世代交代の時期と重なったことから、「若い選手をいっそう成長させたい」という理由で2015年も留任した[20]

2015年には、チームが2位でレギュラーシーズンを終えたにもかかわらず、3位・ロッテとのクライマックスシリーズ ファーストステージを1勝2敗で終了した。この結果を受けて球団に辞意を伝えた[21]ため、球団では10月14日に阿井の退団を発表した[22]。さらに、阿井の退団を機に、2016年から2019年まで一軍ヘッドコーチ職を廃止した[23]

日本ハム一軍ヘッドコーチ退任後

[編集]

退任発表を機に、複数の高校や大学が指導者としての受け入れを打診した。一時はアマチュア野球指導者への復帰を考えたが、「野球における心境と行動のつながりを学び直したい」という理由で打診を固辞した。

2016年からは、将来の野球指導者復帰を視野に、2つの大学院(筑波大学など)で心理学行動科学を研究した。また、関東地方の会社からの依頼で、社員の意識改革に向けた教育に携わる[20]

その一方で、2016年以降のプロ野球シーズン中には、北海道新聞の「ファイターズ アイ」(日本ハムの戦い振りを元プロ野球選手の視点で分析する連載コラム)を若松勉(ヤクルト時代のチームメイト)・岩本勉大宮龍男と交互に担当する。

2017年からは、北海道テレビの野球解説者を務める。

2018年9月からは、イートファクトリー(大阪市を拠点に居酒屋などの飲食店を運営する会社)が翌2019年4月1日に硬式野球クラブのイートファクトリーベースボールクラブ(チーム名は「満マルビリケンズ」)を結成することを前提に、同クラブのシニアアドバイザー務める[24]。さらに、2019年1月1日付で、札幌国際大学スポーツ人間学部スポーツ指導学科の教授へ就任した[1]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1985 ヤクルト 44 4 0 0 0 3 5 2 -- .375 457 105.0 111 11 38 1 3 79 3 0 61 50 4.29 1.42
1986 43 2 1 0 0 9 6 1 -- .600 443 104.1 98 16 44 5 4 73 5 0 52 46 3.97 1.36
1987 36 5 0 0 0 5 5 1 -- .500 368 79.0 104 14 28 2 5 49 3 0 66 57 6.49 1.67
1988 13 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 84 19.1 17 1 10 2 0 12 3 0 9 9 4.19 1.40
1989 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 35 7.0 13 1 4 0 0 4 0 0 6 6 7.71 1.43
1991 ロッテ 2 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 12 3.0 3 0 1 0 0 1 0 0 1 1 3.00 1.33
1992 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 16 3.1 3 0 2 0 1 1 1 0 3 2 5.40 1.50
通算:7年 144 12 1 0 0 17 17 4 -- .500 1415 321.0 349 43 127 10 13 219 15 0 198 171 4.79 1.48

記録

[編集]
  • 初登板:1985年4月17日、対広島東洋カープ2回戦(明治神宮野球場)、6回表から2番手で救援登板、2回1失点
  • 初先発登板:1985年4月22日、対横浜大洋ホエールズ3回戦(明治神宮野球場)、1/3回4失点で敗戦投手
  • 初勝利:1985年8月3日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、7回裏から3番手で救援登板、3回無失点
  • 初セーブ:1985年8月20日、対広島東洋カープ19回戦(明治神宮野球場)、9回2死から3番手で救援登板・完了、1/3回無失点
  • 初先発勝利・初完投勝利:1986年7月6日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤ球場)、9回1失点
  • 初安打:1985年7月2日、対阪神タイガース9回戦(明治神宮野球場)、3回裏に池田親興から単打
  • 初本塁打:1985年9月6日、対中日ドラゴンズ21回戦(山形県野球場)、7回裏に平沼定晴からソロ

背番号

[編集]
  • 43 (1983年 - 1990年)
  • 33 (1991年 - 1992年)
  • 81 (2013年 - 2015年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 元日本ハム阿井氏、大学教授に 札幌国際大スポーツ指導学科(『デイリースポーツ2019年2月25日付記事)
  2. ^ 毎日新聞、1993年8月23日付夕刊、P.5
  3. ^ 朝日新聞、1997年7月8日付朝刊、群馬地方面
  4. ^ 読売新聞、1982年8月16日付朝刊、P.17
  5. ^ a b 朝日新聞、1997年2月1日付夕刊、P.14
  6. ^ 栗山監督 土橋さん追悼試合も無情の敗戦(『日刊スポーツ2013年8月28日付記事)
  7. ^ a b 毎日新聞、1993年8月23日付夕刊、P.5
  8. ^ 毎日新聞、1991年1月21日付夕刊、P.9
  9. ^ 読売新聞、1997年4月1日付夕刊、P.3
  10. ^ 朝日新聞、1999年7月3日付朝刊、P.3
  11. ^ 朝日新聞、1999年4月2日付朝刊、P.19
  12. ^ 毎日新聞、1999年7月10日付夕刊、P.6
  13. ^ 読売新聞、1999年7月8日付朝刊、茨城地方面
  14. ^ 読売新聞、2001年7月24日付朝刊、茨城地方面
  15. ^ a b 毎日新聞、2005年7月6日付朝刊、P.15
  16. ^ 毎日新聞、2009年11月17日付朝刊、埼玉地方面
  17. ^ 日本ハムが来季の1軍コーチ陣を発表 (『デイリースポーツ2012年11月23日付記事)[リンク切れ]
  18. ^ 日本ハム「非常に残念」阿井ヘッドコーチが辞任(『日刊スポーツ』2015年10月14日付記事)
  19. ^ 阿井先生の挑戦 教員経験コーチの3年間/上 裏方に徹し選手ケア(『毎日新聞2016年1月5日付記事)
  20. ^ a b 阿井先生の挑戦 教員経験コーチの3年間/下 仕事は「人の成長」(『毎日新聞2016年1月6日付記事)
  21. ^ 日本ハム阿井ヘッド退団…優勝逃し辞意(『デイリースポーツ』2015年10月14日付記事)
  22. ^ 阿井ヘッドコーチ辞任のお知らせ(北海道日本ハムファイターズ公式サイト2015年10月14日付ニュース)
  23. ^ 日本ハム阿井ヘッド辞任 来季は同職廃止で体制刷新(『日刊スポーツ』2015年10月15日付記事)
  24. ^ イートファクトリー 元ハムヘッド阿井氏迎え大阪に硬式野球クラブ創設へ(『スポーツニッポン2018年9月22日付記事)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]