陳昇

陳㫒
各種表記
漢字チュノム 陳㫒
北部発音: チャン・クン
日本語読み: ちん きょう
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陳 㫒(ちん きょう、チャン・クン、ベトナム語Trần Cung / 陳㫒、生年不詳 - 宣和6年(1521年))は、後黎朝大越の反乱指導者。名は陳 昇(ちん しょう、チャン・タン、ベトナム語Trần Thăng / 陳昇)ともいう[1]

生涯

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霊鄒山崇岩寺山麓の出身。洪順8年3月6日1516年4月7日)、陳太宗の末裔を自称して父の陳暠中国語版と共に東潮県瓊林寺で反乱を起こした[2]。大越軍に敗北した陳㫒たちは京北ベトナム語版諒源[注 1]まで撤退し、出家した父に代わってその地位を引き継いだ[3]。新たに元号を宣和としたが、特に行動を起こすこともなくただ山中に籠もっているだけであった。

宣和6年8月1521年9月)、昭宗の命を受けた莫登庸が陳㫒を捕えるために諒源までやって来ると逃亡したが、妻女は捕えられて殺害された[4]。七原州まで逃亡した陳㫒は一説によるとに逃れたが捕えられて、大越の都の昇龍に送られたという[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ チャン・チョン・キムは現在のランソン省と推測している[3]

出典

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  1. ^ Srba & Schwarz 2017, p. 18
  2. ^ 大越史記全書』本紀実録巻之十五 黎皇朝紀 襄翼帝
  3. ^ a b ベトナム史略』第1巻 第3編 自治の時代 第15章 黎氏
  4. ^ a b 『大越史記全書』本紀実録巻之十五 黎皇朝紀 昭宗神皇帝

参考書籍

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  • Ondřej Srba; Michal Schwarz (2017/01/01). Vietnam v éře západních velmocí. 461. Masarykova univerzita. ISBN 978-8021087347