高慎
高 慎(こう しん、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の官僚・政治家。北魏・東魏・西魏を渡り歩いた。字は仲密。本貫は渤海郡蓨県。高乾の弟[1][2][3]。
経歴
[編集]高翼の次男として生まれた。若い頃から経書や史書を渉猟して、兄弟たちとは志向が異なっており、そのため父親に偏愛された。中興元年(531年)、滄州刺史・東南道行台尚書に任じられた。太昌元年(532年)、光州刺史に転じ、驃騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。そのため政策は厳酷で、官吏や民衆を苦しめた。永熙2年(533年)、兄の高乾が死ぬと、高慎は州を捨ててひそかに高歓に帰順しようとしたが、孝武帝の命により青州でその帰路を絶たれた。高慎は間道を通って晋陽に到着し、高歓の下で大行台左丞となり、尚書に転じて、威権をふるった。安州が高歓に従わなかったので、高慎が行台僕射となって安州を平定した。天平4年(537年)、侍中に任ぜられ、開府の位を加えられた[4][2][5]。
元象元年(538年)、兗州刺史として出向した。まもなく御史中尉として召されると、御史を任用するのに、親戚や郷里の者たちを情実で任用したので、高澄に改選された。高慎の前妻は吏部郎中の崔暹の妹であったが、高慎に捨てられて離縁した。崔暹は高澄の信任を受けており、妹に対する仕打ちのために高慎を敵視した[6][2][7]。
高慎の後妻の李昌儀は李徽伯の娘で、容姿に優れ、聡明で読み書きができ、また馬術が得意だった。ただ、彼女は高慎が沙門の顕公と夜毎に語らうのを厭い、顕公を殺害させるような嫉妬深い面があった。ところが、高澄が美貌で知られた李昌儀に関係を迫るという事件が発生した。李昌儀が抵抗したため、彼女の服はすべて破られた[7]。
高慎は高澄らに対する恨みが積もって崔暹を弾劾したが、その内容の多くはでっち上げであった。高歓の譴責を受け、不安がつのった高慎は、北豫州刺史として任地に赴くと、虎牢に拠って西魏に降伏した[6][2][3]。高慎は西魏の侍中・司徒となり、勃海郡公に封ぜられた[8]。邙山の戦いのとき、高慎の妻子も西魏に亡命しようとしたが、道中で捕らえられた。高歓は高氏一族の勲功を思って、高慎の子孫のみを罰するにとどめた[6][2][3]。高慎は西魏の太尉に転じた[7]。
李昌儀は高澄により恩赦を受け、高澄に側室として再婚した。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。