子夏

子夏

子夏(しか、紀元前507年 - 紀元前420年?)は、孔子の門人、学問を好み孔門十哲の一人とされる。子夏は、姓は(ぼく)、名は。孔子より44歳年少。の人、一説にの温(現在の河南省焦作市温県)出身。

「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で「不及」と評価された人物である(『論語』先進篇)。

また、孔子廟に飾られる四科十哲において「文学には子游・子夏」というように子夏は文学、つまりは六経や古典に長けていたとされる(『論語』先進篇)。

謂子夏曰:「女為君子儒、無為小人儒」とも評されている(『論語』雍也第六)。

文侯に招かれ、その師となった。李克呉起西門豹はその学生である。

礼記』によると、自分の子供が死亡した際にあまりの悲しみに失明した。それを聞き、同門である曾子が子夏を訪ね、子夏が「なぜ、自分だけこのような不幸に会わなければならないのか」と嘆くと、「ずっと妻子を放っておいて何事か」と諭した。それに対し「我、過てり(われ、あやまてり)」と嘆いた。

史記』儒林列伝に孔子の死後、4派に分かれて子夏は西河(西河は『史記』仲尼弟列伝によるところの衛の国内で現在では河南省安陽市付近)におり、田子方・段干木・禽滑釐らが子夏について教わり、後に王の指導係となった[1][2]

今文経学では六経伝承の淵源を子夏に求めている。彼の学風からは後の荀子へと受け継がれる。

脚注

[編集]
  1. ^ 吉田賢抗『論語』明治書院〈新釈漢文大系〉、1960,5.25。ISBN 4625570018 
  2. ^ 野口定男 (1971,1.6). 史記 下. 中国古典文学大系. 平凡社