恵那文楽
恵那文楽(えなぶんらく)とは、岐阜県中津川市川上(かおれ)に伝わる人形浄瑠璃。
元々は『川上のあやつり』とか『人形浄瑠璃』と呼ばれていたが、昭和61年(1986年)に岐阜県重要無形民俗文化財に指定[1]された際に恵那文楽と名付けられた。川上集落にある恵那神社では祭礼時に奉納されており、昭和10年代より9月29日に、神社境内にある舞台で「三番叟」が上演されている。
文楽人形
[編集]恵那文楽の人形頭23個は、昭和33年(1958年)岐阜県指定重要有形民俗文化財となり[2]、特に婆・お福・丁稚の3体は、古拙な深い味わいのある逸品である。元来、この大坂系の頭は、阿波系ほどに塗りが克明でないので、顔面に陰影があり、舞台での動きにつれて生気が生まれてくる。ここにある頭、その大坂系のかなり古い時代のもので、古典的逸品である。
歴史
[編集]- 元禄年間(1688年〜1704年)淡路島の傀儡師が美濃国へ巡業に来た折、この地の人に伝授したのが始まりと伝えられているが確証は無い。文献に書かれた記録に乏しく、寛政5年の「宮地日記」に「川上ニ操有之」と書かれているのが、史的資料に出てくる最初である。
- その後の経過については、三宅武夫の「川上文楽頭考」には、宝暦年間(1751年〜1764年)川上地区の名主市岡銀蔵により基礎を樹立、ついで天明年間(1781年〜1789年)中村伝十郎が人形の操り方を伝授し、原又四郎の弟権三が「三番」の頭を入手、さらに寛政年間(1789年〜1801年)安藤勝蔵が操りの技法を修得して、同志の指導に当たったと記してある。さらに、大井金蔵が尾太夫について修業し、原秋蔵が大坂から太夫を招いて三味線を修得するなど、中山道中津川宿の「操り人形」として近郊にもてはやされた。
- 幕末に黄金期を迎えた恵那文楽は、明治に入り歌舞伎芝居がもてはやされ影が薄くなった。しかし、明治35年(1902年)、小木曽滝蔵・今井源二郎・佐藤友二郎らが、大坂文楽の名人を招いてその技を伝授されて命脈を保ち、大正の頃には青年団の関心が高まった。昭和となり、中川とも・義太夫の鈴木迂一・三味線の芸者のかよの3人により、大いに盛んとなった。
- 江戸末期から明治初期にかけては、人形遣いはむろん太夫、三味線弾きも地元にいて、多くの芸題を上演するほどの隆盛をきわめたが、明治後期から大正初期にかけて一時衰退した。その後、古老の指導と好事家の支援により、衣裳なども新調、修復して大正10年復興した。
- 昭和33年に「首」23点が岐阜県重要有形民俗文化財に指定されたのを機に、「川上人形浄瑠璃研究会」から「恵那文楽保存会」に改名した。「寿式三番叟」の他、多くの芸題物を上演していたが、人員の減少から、昭和50年頃には「三番叟」しか上演出来なくなった。その後、人員の増大をはかり、過去の芸題を復活する努力を重ね、現在では10芸題が上演出来るまでになっている。
主な作品
[編集]- 寿式三番叟
- 奥州安達原三段目
- 生写朝顔話宿屋より川場まで
- 絵本太功記尼崎の段
- 日吉丸稚桜五郎助住家の段
- 傾城阿波鳴門十郎兵衛住家の段
- 鎌倉三代記絹川村閑居の段
- 関取千両幟猪名川内から角力場まで
- 本朝廿四孝十種香の段