暴鳶
暴 鳶(ぼう えん、生没年不詳)は、中国戦国時代の韓に仕えた将軍。
経歴
[編集]紀元前301年、斉・魏・韓・秦の4カ国が連衡して、楚に攻め込み垂沙(現在の河南省南陽市唐河県)の戦いが勃発した。この時、楚の指揮官を務めたのは唐眜だった。
斉は匡章、魏は公孫喜、秦は庶長の奐を派遣し、韓は暴鳶を将として派遣した。秦軍を除く三国連衡軍は半年の対陣ののち楚軍を撃破し、唐眜を討ち取り楚兵数千の首を取り、連衡軍は勝ちに乗じて楚の垂丘(現在の河南省焦作市沁陽市の北)、宛(現在の河南省南陽市宛城区)および葉(現在の河南省平頂山市葉県)を攻め、楚は宛と葉の北にある土地は、韓と魏の両国により奪われた[1][2]。
紀元前275年、秦の魏冄が魏に侵攻した。暴鳶は韓軍を率いて魏の救援に向かったが秦軍に敗れ、韓は4万の兵の首を取られた。暴鳶は敗走し魏の国都大梁へと逃れた[3][4]。