福岡風太
福岡 風太(ふくおか ふうた、本名信博(のぶひろ)[1]、1948年4月24日 - 2024年6月10日)は、日本の音楽プロデューサー、舞台監督。大阪府出身。大阪の春の野外コンサート「春一番」プロデューサー。
経歴
[編集]大学在学中の1970年に、ニューヨーク近郊での大規模な野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル」の記録映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』を見て感動[2]。1970年「大阪万博」関連の英語の通訳を担当して得た収入で同年4月「BE-IN LOVE-ROCK」(天王寺野外音楽堂)、8月「ロック合同葬儀」(大阪城公園・太陽の広場)、10月「感電祭」(京都円山音楽堂)を開催し、野外コンサート運営の経験を積む。[3]。
1971年のゴールデンウィークに大阪・天王寺公園の野外音楽堂でスタートさせた「春一番」コンサートを、阿部登らとともに、フォークソング、ロック、ジャズなど、ジャンルにこだわらないコンサートとして育て上げ、イベント・プロデューサーの草分けとなる。
以後、「春一番」コンサートを通じて、音楽業界に人脈をつくり、様々なコンサートの制作、ステージマネージャーとして活動。
自らもミュージシャンとして、高田渡、シバ、山本コウタロー、友部正人、中川イサトらが1971年の第3回全日本フォークジャンボリーで結成したジャグ・バンド「武蔵野タンポポ団」に参加。
1979年、名古屋移住後は、加藤登紀子、岡林信康、斉藤哲夫、いとうたかお、竹内まりやらソロミュージシャンのバッキングバンドのメンバーの一員として活動しながら、センチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメントを担当[4]。
1986年6月、バッキングバンドを離脱した後、大道具会社でステージ裏方としての修業を積み、1987年末、東京移住。裏方の仕事全体が見渡せるフリーの舞台監督として活動。ペギー葉山、ジョニー吉長、大塚まさじ、金子マリ、近藤房之助、有山じゅんじ、上田正樹&サウス・トゥ・サウス、加川良、忌野清志郎 with Booker T.&MGs、マリーン、ザ・タイマーズ、木村充揮BAND、中村あゆみ、ゴーバンズ、江口洋介、大野えり、北京一らのステージをサポートする[5]。
1995年5月に「春一番」コンサートを復活。ソロミュージシャンのバッキングバンドのメンバー、ミュージシャンのマネージャー、裏方の舞台監督など、空白期間の仕事の経験と人脈は、その後の「春一番」コンサートに活かされることになる。
2006年5月、CDボックス『1972春一番』復刻版をプロデュース。
2006年7月からハンバート ハンバートのマネージメントを担当[6]。
最近では、毎年の「春一番」コンサートの他、「高田渡生誕会 57」、新宿ロフトの「春二番」ライブなど、コンサート制作・舞台監督として活躍している。
2024年6月10日、慢性気管支炎のため大阪府吹田市の病院で死去。76歳没[1]。
参考文献
[編集]- 「春一番復活」福岡風太 -雑誌『雲遊天下』第4号掲載(ビレッジプレス、1995年5月)
- CDボックス『1972春一番』復刻版- 付録ブックレット(ブリッジ、2006年5月)
- 「渡が死んだ日に“来年も春一をやろう”と俺は決めたんや」-福岡風太インタビュー(「祝春一番2006」『雲遊天下』増刊号、雲遊天下読者応援団+ビレッジプレス、2006年5月)
脚注
[編集]- ^ a b “福岡風太さん死去 音楽プロデューサー:北海道新聞デジタル”. 北海道新聞デジタル (2024年6月10日). 2024年6月10日閲覧。
- ^ 「思い出シネマ ウッドストック」- 福岡風太インタビュー記事(「神戸新聞」2008年2月25日付)
- ^ 「悠春風春(ユーシュンフーシュン)」 - 福岡風太 「春二番」2006特集ページ参照
- ^ 「オレとおマエの春一番」- 福岡風太(祝春一番2009ウェブサイト内「春一番とは」所収 2007年)
- ^ 前掲「オレとおマエの春一番」- 福岡風太(祝春一番2009ウェブサイト内「春一番とは」所収 2007年)
- ^ 「福岡風太と喫茶〈ディラン〉の時代」- 井口啓子の西日本ロック紀行 No. 147 (OOPS コラム 2007年5月2日)