聖公会神学院
聖公会神学院入口 | |
種別 | 聖公会の聖職者および信徒の教育 |
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設立年 | 1877年 |
提携関係 | 日本聖公会 |
教員数 | 専任4人、臨時14人 |
職員数 | 2人 |
所在地 | 日本 東京都世田谷区用賀1-12-31 |
公式サイト | www |
聖公会神学院(せいこうかいしんがくいん、英語:Central Theological College)は、東京都世田谷区用賀1-12-31に本部を置く日本聖公会の神学校である。法制度上は各種学校に分類される。1911年に設立された。なお、京都にはウイリアムス神学館もある。
概要
[編集]聖公会神学院の起源は、英国聖公会宣教協会(CMS)のハーバート・モーンドレルが1877年(明治10年)9月に長崎・東山手居留地に開設した日本最古のプロテスタントの神学校である「長崎神学校(聖アンデレ神学校)」[1]と、同年10月に、米国聖公会のチャニング・ウィリアムズが東京・入船町の邸内に開設した「東京三一神学校」[2][3]に遡る。
長崎神学校は、1877年(明治10年)11月30日の聖徒アンデレ日に東山手居留地9番に新校舎が竣工。1883年(明治16年)には出島英和学校の閉校に伴い、東山手居留地から出島英和学校が使用していた出島の校舎へと移転した。1884年(明治17年)9月29日、CMSのチャールズ・F・ワレンによって大阪・川口居留地18番に「大阪三一神学校」が開校[4]されると、長崎神学校は合併し、学生は順次大阪に送られて編入させられることとなり、長崎神学校は1886年(明治19年)閉校した[1]。大阪三一神学校の校舎はジョージ・ポールが設計し、後に校長を務めた[5]。
東京では、ウィリアムズが家塾のかたちで始めた東京三一神学校を母体に、1878年(明治11年)10月からイギリス海外福音伝道会(SPG)と米国聖公会の共同神学校として形容が整うこととなり、新たな「東京三一神学校」が開設された[注釈 1]。米国聖公会からはウィリアムズが校長として、新約学を担当したほか、クレメント T. ブランシェが教会史、W.B. クーパーが組織神学、ジェームズ H. クインビーが旧約学および倫理神学を教え、SPGからはアレクサンダー・クロフト・ショーが証拠論、W.B. ライトが祈祷書を担当した[7]。翌1879年(明治12年)には、東京三一神学校は、ブランシェとクインビー両氏の時間と労力のかなりの部分を受け取り運営された[6]。
1883年(明治16年)には、ウィリアムズの計画のもと、ジェームズ・ガーディナーが校長を務める立教大学校が築地居留地37番に設立されると、東京三一神学校は大学校内に併置された[8][注釈 2]。1885年(明治18年)には、聖テモテ学校(英和学舎)初代校長を務めるなど大阪で活動していたアーサー・モリスが東京三一神学校で教えるために東京へ転任した[6]。 ウィリアムズの要請を受けた大隈重信の尽力により新たに造成された築地居留地の土地を入手した聖公会は[10]、その中の築地居留地53番に、1889年(明治22年)、東京三一神学校寄宿舎を建設し、1892年(明治25年)には同地に東京三一神学校の新校舎と付属図書館を設けた。同年、隣接する築地居留地54番に三一会館も竣工している[11]。
遡ること、1879年6月4日には、SPGのショーとライトによって、東京・芝栄町12番地に新たに「聖教社」が設立された。聖アンデレ教会の設立と同時に教会の敷地内に設置された英学校であった[注釈 3][2][7][12]。聖教社は多治見十郎により開業願が東京府に提出され、多治見は聖教社で英学教授を務めた[12]。1880年(明治13年)1月には、隣接地の13番地に「聖教社分校女学校」が設立される。1883年(明治16年)2月に、聖教社は休業し、聖教社分校女学校は廃校となるが、1886年(明治19年)には、今井寿道が再開後の聖教社の教頭兼幹事に就任した[12]。 1892年(明治25年)11月に、同地に「聖安得烈学院」が創立されるが[注釈 4][注釈 5]、その聖安得烈学院も1903年(明治36年)に廃校となる[12]。1902年(明治35年)には、今井寿道が香蘭女学校の校長を辞任したのを機に聖教社神学部校長に就任[13]。1905年(明治38年)4月に、専門学校令による「聖教社神学校」の設立許可願が提出され、伝道者養成の神学校となった[12]。
1887年(明治20年)2月には、日本におけるイングランド国教会と米国聖公会の合同により、「日本聖公会」が設立された。米国聖公会、SPG、CMSは伝統を同じくするものとして、同一の祈祷書と教会規則を定めた。これにより、米・英の聖公会各派が日本に設立した学校や教会が整理されていくこととなる。
こうして、1911年(明治44年)に東京三一神学校、聖教社神学校が合併して「聖公会神学院」が設立される。1908年(明治41年)の世界聖公会大会の感謝献金を基礎として設立されたものである。 1915年(大正4年)には、大阪三一神学校も聖公会神学院に合併[15]。
その後、戦時下での外国人教授辞任、文部省の指示による日本東部神学校への統合要求があり、稲垣陽一郎校長は私塾の形での神学教育の継続を試みたが、1945年3月には憲兵隊から私塾閉鎖の命令を受け、さらに翌月の空襲によって校舎はすべて焼失した。終戦後の1945年10月に聖公会神学塾は授業を再開し、翌年4月に聖公会神学院として再出発した[16]。戦後最初の院長には須貝止が就任した。しかし須貝は戦時下の過酷な弾圧(日本聖公会秘密結社事件)による体力の衰えが著しく、1947年に死去した[17]。
校舎は池袋(1912年・大正元年)、旧岩崎邸(1949年・昭和24年)[18](湯島)を経て1953年(昭和28年)に現在地に移転した。
聖公会神学院は全寮制で、原則として3年間の課程で、礼拝と学習と共同生活を通して教会の聖職・奉仕職に携わる者を養成する。入学条件は、大学卒業以上で教会の聖職・奉仕職を志している者、またはすでにその職務に従事している者。ただし、学生は公募せず、全国の教会からの推薦をもとに入学試験を経て入学が許可される[19]。また、個人の関心にもとづく学習・研修のためにも開かれており、教会関係の研修者や聴講生にも門戸を開いている[20]。
今日までに約600名の卒業・修了生(校友)が日本聖公会の諸教会はじめ諸施設、また海外の諸教会の働きへと遣わされてきた。施設は、諸聖徒礼拝堂、本館、学生寮、教員住宅に加え、約3万冊の蔵書を備えた図書館もある[21]。
池袋時代には立教大学との間で二重学籍を認めていたことがあり[22]、現在でも立教大学大学院キリスト教学研究科と単位互換制度を設けている。
出身者
[編集]- 今井寿道(聖教社出身)
- 大塚惟明(東京三一神学校出身、南海電気鉄道社長)
- 宮崎敬介(東京三一神学校出身、大阪電灯社長)
- 落合吉之助(東京三一神学校出身、聖公会神学院校長、立教大学文学部宗教学科長、聖マツテヤ伝道学校教授)
- 早川喜四郎(東京三一神学校出身、平安女学院院長)
- 吉田栄右(聖安得烈学院出身、常盤生命保険株式会社/現・朝日生命保険元支配人)
- 稲垣陽一郎(東京三一神学校出身、聖公会神学院校長)
- 小島茂雄(立教中学校/現・立教池袋中学校・高等学校校長)
- 向井山雄(北海道アイヌ協会初代理事長)
- 塚田理(第15代立教大学総長)
- 大倉一郎(フェリス女学院大学文学部教授)
- 西原廉太(第22代立教大学総長)
- 景山恭子(聖公会宣教師)
その他、関係人物
[編集]- 1891年(明治24年)、奈良英和学校で教えていたアイザック・ドウマンが東京三一神学校で比較宗教学講師として嘱託されるにあたって、教え子の米田庄太郎(後の京都帝国大学教授)も上京し、助手を務めた。
- ハロルド・スパックマン(元教授、立教大学元教授、立教大学図書館元館長、立教大学ア式蹴球部(現・サッカー部)初代部長)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 12月までに13人の生徒が集まった[6]。
- ^ 新校舎建設後まもなく、共同設立者のイギリス海外福音伝道会(SPG)のショーとライトの両名が伝道上の都合で教授を辞したため、この学校はアメリカ・ミッションの米国聖公会の単独経営となった[9]。
- ^ 聖教社の開業願は、1879年1月に多治見十郎によって提出され、多治見は聖教社で英学と数学を教えた。チャニング・ウィリアムズに従って、1875年(明治8年)から1878年(明治11年)まで英学及び数学を修業した多治見十郎は、当初は立教学校で学び、1876年(明治9年)11月29日に立教学校校舎が大火で焼失したことから、学校は1878年(明治11年)まで2年余り休眠状態になるが、その間もウィリアムズの元で学んだと思われる。
聖教社の学科は、英学正則、英学変則、数学、漢字、習字とあり、単なる英学塾ではなく日本聖公会百年史が記述しているように初めは神学だけの教育機関ではなかった。英学教則の中には、綴字、習字、会話、読書、文法、史学、地学、理学、植物学、修心学の諸科目があった。7年制の学校で、入学資格は満14歳以上、20歳までであった。
1880年(明治13年)1月には、隣接地の13番地に「聖教社分校女学校」が設立された。届出人は、同じく多治見十郎で、数学教員にはミセス・ショーの名前が見られる。英語、漢字、数学、習字、裁縫の諸学科を教え、予科3年本科5年で、満6歳から20歳までの女子を教え、当時としては高度な普通教育を行っていたとされる。
1883年(明治16年)2月、聖教社は、都合により当分の内休業、聖教社分校女学校は都合を以て廃校を届け出ている。1892年(明治25年)11月には、同じ場所に「聖安得烈学院」が創立されたが、聖教社の後身といえる。学校長は吉沢直江で、学科は神学(3年)と英学(3年)で英学私塾としての初期の面影を残すものであった。
聖安得烈学院は、1903年(明治36年)に廃校となったが、1905年(明治38年)4月には今井寿道から専門学校令による、「聖教社神学校」の設立許可願が提出され、この時初めて、英国国教会付属伝道会社の資金とエドワード・ビカステス(3代目の日本聖公会主教)の記念奨学資金とにより純然たる伝道者要請機関となった[12]。 - ^ 香蘭女学校の記事には、今井寿道は1889年(明治22年)からは聖安得烈学院の教授を兼務したとあり、聖安得烈学院はそれ以前に開設されていた可能性もある。また、設立許可願を提出し認可校になったのが、1892年(明治25年)11月である可能性もある[13]。
- ^ 当時、聖安得烈英語夜学会という学校も存在した。聖安得烈学院は、エドワード・ビカステスの指令で授業はすべて英語であったため、学生の中には英語力が弱い者もいて、夜学会はそれを補うものであった。聖安得烈学院及び聖安得烈英語夜学会では、イギリス海外福音伝道会(SPG)の宣教師ライオネル・チャモレ―(Lionenel Berners Cholmondeley)が教鞭を執っている[14]。
出典
[編集]- ^ a b 木村信一「C・M・S・の日本初期伝道 : 忘れられた宣教師モンドレルの教育事業」『桃山学院大学キリスト教論集』第5号、桃山学院大学経済学部、1969年2月、153-175頁、ISSN 0286973X。
- ^ a b 日本聖公会東京教区 草創期のあゆみ
- ^ 『立教学院百年史』629頁
- ^ 『桃山学院の歴史 2005』 桃山学院の歴史3:川口居留地・桃山学院の誕生
- ^ 伊賀 正隼「大阪・川口居留地における都市空間の機能転換」『大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻修士論文梗概集』第2022巻、大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻、2023年4月、1-6頁。
- ^ a b c Project Canterbury『An Historical Sketch of the Japan Missionof the Protestant Episcopal Church in the U.S.A. Third Edition.』 New York: The Domestic and Foreign Missionary Society of the Protestant Episcopal Church in the United States of America, 1891.
- ^ a b 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(4) : 明治初期・欧化主義の時代におけるキリスト者の教育活動」『学術研究紀要 / 鹿屋体育大学』第14号、鹿屋体育大学、1995年10月1日、63-80頁。
- ^ 『立教学院百年史』630頁。
- ^ 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(6) -1880年代におけるキリスト教徒の教育活動<1> -」『学術研究紀要』第16巻、鹿屋体育大学、1996年9月、1-16頁。
- ^ 川崎晴朗「築地外国人居留地の「予備地」 : 米国聖公会が入手するまで」『史苑』第64巻第1号、2003年、120-131頁、doi:10.14992/00001549。
- ^ LIXIL eye no.1 2012年11月 (PDF)
- ^ a b c d e f 手塚竜磨「東京における英国福音伝播会の教育活動 A. C. Shawを中心として」『日本英学史研究会研究報告』第1966巻第52号、日本英学史研究会、1966年、1-6頁、ISSN 1883-9274。
- ^ a b 香蘭女学校『香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(9)』
- ^ 日本聖公会管区事務所だより 第306号 2015年11月25日
- ^ 日本聖公会管区事務所『日本聖公会管区事務所だより』第332号 2018年5月20日発行
- ^ 中村敏 『日本プロテスタント神学校史』 いのちのことば社、2013年、137頁
- ^ 中村敏 『日本プロテスタント神学校史』 いのちのことば社、2013年、242頁
- ^ “東京都における文化財庭園の保存活用計画(共通編)”. 東京都建設局. 2018年11月21日閲覧。
- ^ “世田谷区専修学校各種学校協会”. www.setasen.jp. 2018年10月27日閲覧。
- ^ “日本聖公会関係学校協議会”. 2018年10月28日閲覧。
- ^ 聖公会神学院公式サイト
- ^ 中村敏 『日本プロテスタント神学校史』 いのちのことば社、2013年、136頁