蜂須賀隆重
時代 | 江戸時代前期-中期 |
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生誕 | 寛永11年8月18日(1634年10月9日) |
死没 | 宝永4年8月24日(1707年9月19日) |
改名 | 幼名:万之助、初名:至照、正武 |
別名 | 通称:万之助、下総 |
墓所 | 東京都台東区松が谷 海禅寺 |
官位 | 従五位下、飛騨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 阿波富田藩主 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 | 父:蜂須賀忠英、母:繁姫(小笠原忠脩の娘) |
兄弟 | 光隆、隆重、隆矩、隆喜、清姫(稲田稙儀室) |
妻 | 正室:清田氏 側室:上里氏、本性院 |
子 | 正上、千代鶴 (井伊直興婚約者)、2女(松平頼貞室)、菊姫(内藤信輝室)、春姫(南部利幹室、蜂須賀隆長養女)ら1男7女 養子:隆長 |
蜂須賀 隆重(はちすか たかしげ)は、阿波富田藩の初代藩主。
生涯
[編集]正保元年(1644年)5月7日父忠英の願い出により、徳川家綱の小姓になる。同年5月11日、将軍徳川家光に御目見する。慶安4年(1651年)8月16日、従五位下飛騨守に叙任する。明暦3年(1657年)3月15日、幕府の詰衆に列し、蔵米3000俵を賜る。
寛文6年(1666年)、幕府から若年の徳島藩主蜂須賀綱通の補佐を命じられる。寛文12年(1672年)9月28日、補佐を辞職する。
延宝6年(1678年)10月7日、幕府から若年であった徳島藩主蜂須賀綱矩の補佐を命じられる。元禄4年(1691年)閏8月28日、補佐を辞職する。
延宝6年10月19日、綱矩から阿波・淡路国などに5万石を分与され、支藩である富田藩を立藩する。なお、蔵米3000俵は返上している。同延宝6年11月8日、詰衆を退任する。
元禄元年(1688年)4月14日、雁間詰となる。以後、代々の当主は雁間詰となる。
宝永2年12月26日(1706年1月)に隠居し、養子の隆長に家督を譲る。以後、寛楽と号する。
宝永4年(1707年)8月24日に死去、74歳。
墓所は東京都台東区松が谷の海禅寺。正室は横浜市戸塚区の盛徳寺に眠る。
系譜
[編集]関連項目
[編集]- 赤穂事件 - 吉良上野介の本所への屋敷替えについて「隣家の蜂須賀飛騨守が内匠頭の家来が吉良邸へ斬り込んでくるのを日夜警戒していたが、出費もかかり困り果てて老中に屋敷替えを願い出た」「この風評は『江赤見聞記』巻四にも似たような話が記されている」[2]。
- 三尾正長 - 蜂須賀家家老・池田由英(蜂須賀家政外孫)の庶子(大石内蔵助母・池田熊子の従兄弟)
参考文献
[編集]- 『蜂須賀家記』
- 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』三省堂、1999年(平成11年)。ISBN 978-4385359137。